ひやりとした風が頬を撫で、髪を掻き上げた。 星の見える涼やかな夜の下、じわりと浮かんだ汗が喉を締め付け、思わず言葉を失ってしまう。 ――彼ら、どこまで信用できそうですか? クリスの言葉が、頭の中で反芻された。 信用などしているはずがない。クリスの表情と声色が、そう語っている。 それでも、その言葉を口にする意図があるとするならば、万が一の可能性すらも見逃してはいられないことがあるのだろう。 「まだわからん。べつの狙いがあるとしたら、あんな警戒させるような言い回しはしてこないと思うけど」 「…………」 「クリス。もしかして、さっきの話……」 言い切らないうちに、クリスは力なく頷いた。 聞かれていたのだ。リュートたち龍族が、境界線の調査を目論んでいることを。そして、目的のためなら手段を選ばない龍が、祖国に潜んでいることを。 正直なところ、おれはこの話にそこまで悲観的にはならなかった。元々、王都から遠い国境沿いの村の出ということもあったろうし、ここ最近はそもそも人の世界に入ることすら珍しかった。フェルミーナの首都で過ごしたのも四年間だけの話で、その間はほとんど隔離された環境で剣を振るうだけだった。 つまり、冷たいことを言えば、おれにとってフェルミーナは郷愁の対象たりえないのだ。 境界線の調査のためには手段を選ばない。それだけ聞くと確かに気味の悪いこと極まりないが、逆に捉えれば、境界線の調査と無関係ならば、特筆した問題ごとを起こすこともないのだろう。 ……と、ここまではただの客観的な状況分析だ。クリスにとっては他人事ではいられないのだろう。 剣を握ってさえいれば、見上げるような化け物にすら食って掛かる戦士の肩が、下げた目線の先で頼りなく震えていた。 「セイジさま、わたくしだけでも――」 ──帰りたいです。 顔をあげ、絞り出すような表情で口を開いて、だが声にはならなかったその先の言葉が聞こえた気がした。 「悪いが、許可できない。この作戦はクリスがいなきゃだめなんだ」 作ったような声で、はっきりと、聞こえなかった言葉の続きを否定した。下げた頭の上で、クリスがはっと息を飲む音が聞こえた。 「いえ……ごめんなさい、我儘を申し上げました」 「悪い。ここから先、全員が入るような規模の施設はないらしいし、治癒魔法なしじゃ正直きつい」 「はい……」 垂れ下がったクリスの手のひらが、衣服の端をぎゅっと掴んでいた。王女で聖騎士とはいえ、まだ齢十七の少女だ。 何か掛ける言葉はないか。重い空気に耐えきれなくなって、半ば無意識のままに口を開いた。 「……よし、クリス。手合わせをしよう?」 「え?」 雰囲気を変えるためだけに思いつきで発された言葉は、重い空気を吹き飛ばしながら、べつの方向の危機を招いた。声をかけられたクリスより、かけたセイジのほうが困惑している有様で、こうなるとあとの選択肢は沈黙か開き直るかの二択しかない。 セイジは後者をえらんだ。半ば茫然とするクリスの前で、いそいそと準備をはじめる。 「魔法は防御系だけで、基本は剣術な」 「あ、あの……?」 「なんだ?」 「いえ……」 なんとも言えない口振りで、問いかけているのか自問してるのかすら判然としない。言葉を失うクリスに突きつけた剣の動作だけがなんとも機敏で、我ながら言動の不一致も甚だしいが、いまさら引き返すわけにもいかない。 「悩んだら体を動かせというだろう。それとも今日はもう疲れたか?」 「わたくしより、セイジさまのお体が……」 「心配すんな。負けねえよ」 セイジが冷や汗を隠しながら口にした挑発は、クリスの表情から当惑の色を消し去った。無言で白刃を抜き放ち、音もなく構えるそのさまは、吹っ切れたと表現するには少々闘気が強すぎた。 ――やりすぎてしまっただろうか。 後悔に引きずられながら剣を抜いたセイジだったが、熱っぽい瞳を輝かせたクリスの表情をみとめると、心底安心した様子の吐息をこぼした。クリスに倣って剣を抜き、視線の先で光る飛天龍の尖端を、鈍色蛍でかるく小突いた。 にぶい音をたてた剣の先がゆっくりと離れてぴたりと止まり、ひと呼吸おいて、すさまじい勢いで当たって弾けた。互いに後退したふたりの騎士は、視線を交わしてにやりと笑い、ふたたび地を蹴った。 真正面から切り込んだクリスの身体が、セイジの視界から煙のように消え去った。瞬間、目を細めたセイジが、視線を左側に流しながら右側に踏み込んで、勢いそのままに剣をふるった。虚空を薙いだはずのセイジの剣が、振り下ろされる直前のクリスの剣の根本をとらえ、その持ち手を体ごと宙に押し上げた。 「っ……!」 すかさず追撃の姿勢をみせたセイジに対し、クリスは剣を交差させて受けの姿勢をとった。息つく間もなく振り上げられた剣を受け止めるための最速の手段だったが、セイジは剣を振りかぶりながら、さらに一歩奥へ踏み込んできた。 身をかがめ、地面とクリスの体の隙間を縫うように身をすべらせたセイジが、直上へ剣を投擲した。 不完全な態勢のクリスに襲いかかった剣は、胸の前で交差した二本の剣を腕ごと跳ね飛ばした。守るもののなくなったクリスの瞳に、ふたたび振り上げられた鈍色蛍の淡い光が反射した。 「わっ……!」 「クリス!?」 勝利を確信したセイジが、寸止めしたばかりの剣を投げ出した。短いクリスの悲鳴を聞き流しながら、剣の代わりに延ばした手が、着地を損ねたクリスの腕を掴んで体ごと引き起こした。 瞬間、収まりをみせた景色は、直後に崩れ落ちた。勢い余ったのか、無理に引き上げたからなのか、今度はセイジが姿勢を崩して、手を離す暇もなく仰向けに倒れた。されるがままにセイジを押し倒したクリスの手から剣がすり抜けて、音楽的な金属音が重なって響いた。 「…………」 剣の悲鳴の余韻が途切れ、わずかな沈黙のあと、セイジは反射的に顔を逸らした。戦闘のあとで上気したクリスを直視することに耐えられなかったのか、マリーが戻ってきていないかを確認したのかはわからないが、とにかく顔を逸らした。 「完敗、ですわね」 落胆の仕草とは相反して、それは憑き物が落ちたかのような晴れやかな声であった。 「やはり、生誕祭のときは手を抜いてらっしゃったのですね」 「いや、あれはおれが勝ったらおかしいだろ……」 「ふふ、それもそうですわね」 くすくすと笑うあどけない表情に、ふと陰がさした。目を逸らしてはいけないような気がして、遠慮しがちに口を開閉させるクリスを真正面から見据えた。おれの視線に気づいたクリスは、戸惑いながらも意を決したように口を開いた。 「あの。セイジさまは、なぜ剣を握らなくなってしまったのですか?」 「……え? 何だろ。剣をなくした時期と、魔法がまともに使えるようになった時期が被ったからかな?」 「魔法がまともに、とは……?」 「あれ、レオ兄から聞いてない? おれは基礎魔法試験に受からないまま、聖騎士になったんだよ」 随分昔の話のように感じるが、いまだに苦い思い出として胸の奥底にこびり付いている。 基礎魔法試験とは、その名の通り基礎的な魔法の実技試験であり、試験に受かって認可が下りれば、日常的にその魔法を行使することができる。 試験と言うと仰々しいが、園芸趣味の年配者がちょっと水をやりたいときに便利だからと、水の魔法を使いたいと受験するようなもので、修練を繰り返して臨むほどのものではない。自分で言うのも変だが、受かって当たり前の試験なのだ。 おれはその試験についに受かることがないまま、騎士の昇級試験を合格し続けるという、なんとも妙な前例を作ってしまったのだ。 「ちょっと……信じられないのですが」 「試験官も似たような反応してたよ。国王陛下も、報告だけじゃ納得できなくて、試験場に列席なされたくらいだし」 「わたくしは納得できましたわ。魔法に頼れなかったからこそ、剣の道を極められたのですね」 「まあ、うん。他にやれることもなかったし」 騎士試験のほうは、魔法が使えないぶんも加点されていたのかもしれない。今更ながらそう思うと素直に喜べない。 「……正直に申しますと、いまの条件ならもう少しお相手できるかと思っていたのですが、全くでしたね」 「クリスはちょっと反射に頼りすぎてるな。あとは、短期決着を狙いすぎて動作が大きくなってるように思えた」 「と、いいますと?」 「ええと……すまん、そろそろ体を起こしていいか」 今更ながら、精神的によろしくない態勢を指摘する。あまりにも自然に会話が繋がっていたからか、クリスも今更にして気恥ずかしそうに立ち上がる。 「初動でおれが視線を外したとき、逆側から思いっきり振りかぶってきたろ?」 「はい。それはもう、思いっきり」 「……いける! って思った?」 「隙を逃すと勿体ないと思いまして」 物騒な言葉をなんともにこやかに言い放つ。生誕祭のときといい、一度剣を振るうとこちらに戻ってくるまでに時間を要するようだ。 「とりあえず、一撃必殺を狙うのを控えたらどうだ? 弱い相手なら決まるだろうけど、受けきられるとあとが怖いぞ」 「……承知しておりますわ。身をもって」 本来なら、敗戦を意識させることは好ましくないが、クリスの場合、その敗戦そのものが希少なうえ、次に活かせるような敗因ではないことが多いのだろう。そのせいで、彼女自身にある明確な欠点が判然とせずにいたのだ。 が、もうひとつの原因はおれにある。 「すまん。おれが指南役を放棄したせいだな」 フェルミーナの剣術指南役は、規則上は最高位の騎士と定義されており、同級が複数人在位していれば先駆者が優先的にその任を預かる。 つまり、本来はおれがクリスを含む全騎士の指導にあたって然るべきなのだ。 「放棄だなんて……あ、でしたら、またご指導いただけますか?」 「こんな教え方しかできないぞ。いいのか?」 「仕合っていただくだけでも。近頃はフェルミーナでも剣を合わせてくれる方がいませんし」 「まあ、だろうな……」 クリスの戦法は、猪突猛進の極みのようなものだ。格上には通用しづらいが、クリスの速さに対応できない相手は一手でねじ伏せられる。そこらの騎士を相手どっても互いに利がないまま戦いが終わってしまうだろう。 レオ兄は政務で多忙だし、余暇があれば宮廷魔導団のほうに顔を出しているのだろう。先日同席したルーレインの将官も相当な実力者に見えたが、隣国まで出向いてまで手合わせを求めるのは、さすがに常軌を逸している。 「じゃ、それ以外の時間は魔法の話でもするか」 「! ぜひぜひ! 聞きたいことばかりですわ!」 透明な尾を振って、クリスは嬉しそうに笑った。今まで任せっきりだった穴埋めになっているのかはわからないが、こうまで喜んでもらえると素直に微笑ましい。 「さ、早く!」 微笑ましいで終わればよかったものを、クリスは保護者目線で突っ立っていたおれの手のひらを掴み取って、屋内へつづく階段へと歩き出した。高揚しているのか遠慮がなくなったのか、すさまじい力で身を引かれ、抵抗をしようとしてふと思いとどまる。 クリスは、ずっと一人で聖騎士の重荷を背負い続けていた。性格上、それを分かち合うことはおろか、弱音すら吐かずに毅然と胸を張っていたのだろう。おれの職務放棄が起源だとしても、クリスがこうして立場を顧みることなく頼ってくれるのなら、同じ聖騎士の仮にも先輩として応えるべきだろう。 「……これくらいは、いいか」 「はい?」 「なんでもない。それより、クリスの静かな魔法は個人的に倣いたいと思ってたんだが」 「ああ、それでしたら、お父さまの目を盗んでこっそり練習してた影響ですわ。昔、お父さまが――」 クリスにつられて弾みはじめた話に、しだいに熱が加わっていった。食卓についてもその熱は衰えることなく、マリーから『食事は冷めないうちに済ませましょう』とふたりして怒られるまで続いた。 マリーにこってりと絞られたその翌朝早々、睡眠の魔法を解くのを忘れていたポーラの罵声とともに、作戦工程最終予定日が騒がしく始まった。
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くにざゎゆぅ
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くにざゎゆぅ
2022年6月5日 20時36分
羽山一明
2022年6月5日 21時07分
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羽山一明
2022年6月5日 21時07分
うさみしん
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うさみしん
2022年12月7日 3時21分
羽山一明
2022年12月7日 9時42分
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羽山一明
2022年12月7日 9時42分
うさみしん
ちょっと質問がありまぁす! ここまで来てなんですが、漢字の「俺」を開いて「おれ」と仮名表記しているのには何か意味があるのでしょうか? ひょっとして目からウロコが落ちる様なこだわりが込められているのかも知れないと、少し気になったのであります押忍。
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うさみしん
2022年5月8日 5時40分
羽山一明
2022年5月8日 11時34分
こだわりというほどのものはありませんが、単に字面の印象です。セイジは自分に自信がない点、「まだ」子供である点、本来は穏やかな子である点から、やや堅い印象のある「俺」や自意識を思わせる「オレ」を避けた次第です。
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羽山一明
2022年5月8日 11時34分
秋真
ビビッと
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2021年8月21日 22時37分
《顔をあげ、絞り出すような表情で口を開いて、だが声にはならなかったその先の言葉が聞こえた気がした。》にビビッとしました!
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秋真
2021年8月21日 22時37分
羽山一明
2021年8月22日 5時07分
こういうことは察せるのに、女心はまるでダメ…。
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羽山一明
2021年8月22日 5時07分
星降る夜
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星降る夜
2021年8月7日 20時38分
羽山一明
2021年8月8日 0時05分
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羽山一明
2021年8月8日 0時05分
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