人生が変わる音

読了目安時間:11分

エピソード:4 / 6

小早川 照明③

田中 栞。 それが彼女の名前であった。 照明が密かに思いを寄せる女性だ。 まだ入学したばかりの頃からの友人の一人でもある。 照明と栞、そして浩一に奏。 四人は大学の同じ授業がきっかけで出会った。 まだ桜が咲き誇る、春の日だった。まだ友達の居なかった照明に初めてできた友達が彼らだった。 その男女四人組が出来てからというもの、照明の大学生活は花開き、毎日の登校が楽しみに変わった。 彼ら四人はとても真面目だった。 四人の仲に恋愛感情が介入することはもちろん無かったし、お互いが異性である事なんて何も障壁にもならなかった。 まるで、幼い頃からの友人であるように、四人は急速にその仲を深めていった。 照明と、もう一人の男子である浩一はとても仲が良かったし、栞と奏の二人も同様であった。 四人は大学が無い日でも頻繁に集まった。 四人とも恋愛経験はそれ程多くなく、約二年の付き合いの中で、色恋沙汰が話題に上がる事は殆ど皆無であった。 しかし、照明は栞に想いを寄せ始めていた。 あるいは、芽生えてはいけなかった恋心は日に日に大きくなっていた。 彼女と話をする度に心は踊り、彼女が微笑みかけてくれる事で照明の心は満たされた。 ずっとこのままの四人で居続けたい。という気持ちと、栞と結ばれたいという気持ちが照明の中でせめぎ合っていた。 あまりにも傲慢な考えだと、独りよがりな考え方であると、照明は何度も頭から振り払おうと努力した。 しかし、もう無かったことには出来ないほどに、彼女への想いが膨れ上がり、照明の中で彼女はとても大きな存在になっていた。 どれだけ考えても正解が見えてこない。 あと一歩、あと一歩だけ前に進もうと上げた足を何度もその場に下ろした。 常に最悪なケースが頭をよぎり、気づくと、光の届かない暗鬱な思考の洞窟の中にいる。 そんな深い闇が支配する洞窟に一筋の光が見えた。 それは、誰かが垂らしてくれた長い糸のように真っ直ぐにどこかに繋がっている。 「タクシーお悩み相談所」さっきとなんら変わらないはずの、その文字の羅列が救いに見えた。 相談してみてもいいかもしれない。と考える。照明は決意を込めた目をして、口を開いた。 「お悩み相談所。僕の悩みも聞いてくれませんか」 彼女の事を。 これからの人生を左右する決断に関して。 「勿論です。どうなさったんですか」 運転手は神父を思わせる朗らかさと、全てを受け入れるといった優しい笑顔で言った。 照明はミラー越しにちらりとこちらを見た運転手の笑顔を見逃さなかった。 「仲のいい四人組がいるんです。僕も含めて男女二人ずつの四人組です」 照明は噛み締めるように言葉を紡ぎ始める。 もう少し準備をしてから話出せば良かった。と一抹の後悔が頭を過ぎる。 しかし、もうどうとでもなれだ。 運転手は、無言でゆっくりと頷いた。話が終わるのをじっと待ってくれている、その気遣いがとても助けになる。 「僕は、その内の一人の女性の事が好きになってしまったんです。なってしまった。っていうのは、僕が彼女の事を好きになった事で、以前の僕らでは居られないような気がして」 照明は一度息を切る。 プールで息継ぎをする時のように、息を吸い込み、続ける。運転手は、表情を変えずに、照明が話し続けるのを待っていた。 「何度も何度も考えました。僕は彼女に気持ちを伝えるべきなのか。それとも、この気持ちをきっぱりと忘れてしまうべきなのか。でも、どちらも出来ませんでした。このまま、僕が彼女への気持ちを隠していれば、何も起きずに僕達はそのままでいれます。それが一番なんじゃないかって思ったりもして…。すいません。しっかり言葉に出来なくて。でも僕にはどうすればいいのか分からなくて」 整理しきれない感情の渦が照明の足元を攫う。 渋谷でしか目にしないような中華屋の看板が左の車窓を流れ落ちる。 フロントミラーに写った照明の顔は紅く染まっている。 照明は運転手の言葉を待った。 永遠とも感じられる沈黙が車内を満たす。 先程までと同じ車内のはずなのに、別世界のようだ、と照明は思う。 「お客様は、その女性の、どんな所に惹かれたのですか」運転手が尋ねる。 運転手の言葉は、照明を一瞬怯ませる。それは照明が予想もしていなかった質問であった。 照明は数秒の間、考えて口を開く。 「彼女は、他人にとても気を使えるんです。なんて言うんでしょう…常に自分を犠牲にしてまで他人の事を優先しちゃうような所があって」 そこで、一旦言葉を切る。 栞の表情が頭に浮かぶ。 どこか切なげに笑いかける彼女の顔を。守ってあげたい。と願う彼女の表情を。 「そんな彼女を見てて、いつか耐えきれなくなるんじゃないかって、そんな風になる前に誰かが、僕が守ってあげたい、って感じたんです」 自分の幸せを常に後回しにしてしまう彼女が、それでも切なそうに笑う彼女を守ってあげたいと、強く思う。 あるいは、傲慢な考えかもしれないが、もう既に照明の中に芽生えた恋心は取り返しのつかないほどに肥大化していた。 「素敵な理由です。お客様が、その女性の側にいてあげるべきだと、私は思います」 運転手は優しい口調でそういうと、少し間を置いて続ける。 「お客様はその女性との未来を思い描けますでしょうか?もし、交際するに至り、結婚する未来があるとします。それはどのようなものでしょうか」 運転手の言葉はまたしても照明を驚かせる。 常に聞き役に回る運転手は、予想外の質問を繰り返す。 栞との未来。 それはきっと素晴らしいものになるに違いない。 照明はゆっくりと目を閉じる。 そして、あるかもしれない未来を想像する。栞との未来。これまでは考えてはならない。と気持ちに蓋をしてきた未来を想像する。 それは、驚くほど簡単に想像できた。 その匂いや雰囲気を肌で感じることが出来る。 3Dの映像を見ている時のような、手を伸ばせば触れる事が出来そうな風景。 白塗りの壁に茶色の屋根の二階建ての一軒家があった。 いくつかある窓は解き放たれ、屋内と屋外の空気が入り混じる。 薄いレースのカーテンから覗く部屋の風景は、とてもすっきりとしていて、どこか落ち着いた雰囲気を与えてくれるものだった。 植木鉢に植えられた青色のバラ。 その花を、愛情を込めた目で、栞が水をあげていた。 水を浴びた青色のバラ達が嬉しそうにその身を揺らしている。 その周りを一人の子供が走り回っていた。 はち切れそうな笑顔を浮かべて、その少年は花に水をやっている栞に話しかける。 笑顔が溢れて、とても幸せそうな風景。 彼女と過ごす一瞬ごとに、幸せを感じるに違いない。 些細な思い出や、喧嘩の一つでさえも。 照明はゆっくりと目を開ける。 そして、丁寧に栞との未来を言葉におこす。 「彼女との未来。とても鮮明に想像が出来ました。きっと些細なことでも幸せを感じる事が出来る未来が、想像出来ました」 「そうでしたか。では、お客様の中で答えは決まっているように思います」 運転手が言った。 それは、これまで以上に優しい口調で、これまでは氷漬けにしていた感情が、じんわりと溶けていくような温かみを帯びていた。 ハンドルに手をかけ、前を見据える運転手の顔が沈みゆく太陽に照らされる。 照明は車内の時計に目を移す。 午後五時二十四分。 あと、数分でサイン会が始まる。 そして、実際には僅かな時間のうちに、しかし体感では長い時間をかけて深呼吸をする。 そして、自分の胸に問いかける。 自分の気持ちを。そして、栞への想いを。 胸がじんわりと暖かみを帯びていくのを感じる。 心の底では分かっていたのかもしれない。と照明は思う。どうすべきか。 いや、どうしたいのか、を。 それなのに、色んな理由で気持ちに蓋をして、自分ではどうしようもない決断に、誰かの後押しが欲しかっただけだったのだ、と気づいた。 決定的な後押しが、一度越えると戻る事の出来ない線を跨ぐ勇気を、誰かに押して欲しかったのだ、と。 「お客様の懸念は分かります」 運転手は続ける。 きっと分かっていたのだ。照明の気持ちを。 そして、今どんな言葉が必要なのかを。 「少しばかりお客様よりも長く生きている人生の先輩として、一つアドバイスがございます」 運転手はそう言うと、フロントミラー越しにちらりとこちらを見る。 コンビニと高級ショッピングモールにはさまれた狭い車道を抜けて、車は閑静な住宅街に入っていた。 左右の車窓から流れる景色も、先程までの"都会色"は抜け落ち、どこか違う街のように写る。 はい、と照明は短く答える。 運転手が話し始めるまでの刹那が、やけに長く感じられる。 緊張感が車内に充満し、手から汗がにじみ出る。 まだ中学生だった頃、部活の顧問の先生に説教を受ける前のような、懐かしい緊張感だ、と照明は思う。 「何かを成す前に考えうる後悔は、真の意味での後悔にはなり得ません。絶望の淵に立ってこそ、それは消えぬ後悔の念となり得るのです」 運転手は言葉を切る。 照明は運転手の雰囲気が変わってたようにさえ感じた。 本の台詞や、偉人の言葉を引用している様子ではない。 運転手の言葉には、どこか鬼気迫る程の実感が伴っていた。 それはまるで、彼自身が絶望の何たるかを身をもって体験したとでもいいたいようで。 この人は一体…と照明は思う。 どんな人生を歩んできたのであろうか。 フロントミラーに写る運転手は、何かに耐えるような、とても切ない表情を浮かべている。 それだけに、運転手の言葉はとても重く、心に沈みこんでゆく。 スポンジが水分を吸い込むように、身体に浸透していった。 照明は言葉を発する事が出来なかった。 どう返せばいいのか分からない。 どんな言葉でもそれは、見当違いなように思える。 「すみません。少し話が逸れてしまいましたね」 信号待ちで止まったタクシーの車内で、運転手は軽くこちらを振り向いていった。 「つまり、私が伝えたかったのは、お客様の気持ちを是非その女性に伝えて見て欲しい。といったことです」 それは、先程までの優しい運転手の表情で、別人のような鬼気迫る雰囲気が嘘なように朗らかで、気持ちが安らぐ笑みだった。 「僕は…逃げてただけなのかもしれません。変化を恐れて、逃げ回っていた。けど、運転手さんの言葉で決心がつきました」 照明は一旦言葉を切る。 そして、もう一度自分自身に問いかける。 本当に自分がしたいことを。 すべきだと感じていることを。 西日が照明の顔を染め上げる。閉じていた眼をゆっくりと開けた照明は、真っ直ぐと前を見据えて宣言する。 「明日、彼女に気持ちを伝えてみようと思います」 運転手は、こちらを振り向きはしなかった。 振り向く必要さえ無かった。 彼の佇まいが、纏う空気が、彼の気持ちを静かに代弁していた。 「お客様の決心がついたようで何よりです。きっと…きっと上手くいきますよ」 運転手はそういうと、ようやくこちらを振り向いて軽く微笑んだ。 照明の、今から戦場にでも赴かん、といった固い表情を見て、肩の力を抜いてくださいね、と運転手がまた微笑みながら言った。 運転手がそう言うと、何でも上手く行きそうな、これまでに感じた事のない安心感が芽生える。 その時、音が聴こえた。鐘の音のような、澄んだ音色。 それは、どこか身体の中で響いたように…身体の隅から隅へ、その振動は駆け巡った。 これまでに体験したことの無い感覚に、照明は動揺する。信号待ちから動き出したタクシーは何事も無いように動き続ける。車窓を流れる風景にも変わった様子は見られない。 もしも、近くで鳴った音であったならば、あまりの大きさに誰もが反応を示すはずだ。 しかし、世界は、照明を除いては、あまりにも平凡に何事も無かったようにただそこに存在していた。 「運転手さん、今の音…は?」 照明は助けを求めて、そう呟いていた。 しかし、その返答はやはり、心のどこかでは理解していたけれど、照明の求めたものでは無かった。 「音…といいますと?」 何が起こったのか分からない。 しかし、確かにその音は鳴った。 無視できないほど大きな音で響き渡った。 「あ、いえ、何でもありません」 照明は言った。何が起こったかを理解しようと努めている間にタクシーは目的地に到着してしまった。 「お客様、目的の本屋に到着しました」 照明は何とか気持ちを平静に保とうとする。 一旦このことは忘れよう。また時間がある時にでも考えよう。と照明は思う。 人生を大きく変えることになるであろう決断を、自分では踏み出す事が叶わなかったあと一歩を踏み出す勇気をくれた運転手に対して照明は心の底から感謝を伝える。 「運転手さん、本当にありがとうございました」 照明はお金を払うと、頭を下げてそう言った。 「お役に立てたようなら、何よりです。きっとうまく行きますよ」 運転手はそう言うと、また優しく微笑んだ。 その笑顔が何よりも照明を勇気づける。 最初に乗った時の笑顔だ。と照明は思う。 加藤優一。 照明は運転手の名前を、二度と忘れないように胸に刻み込む。 「またどこかでお会いしまいたら、お話の続きを聞かせてくださいね」 照明がタクシーから降りる間際、運転手が言った。 「はい、勿論です!」 照明はタクシーが去っていく様子を眺めながら、考えた。彼は何者だったのだろうか。 時折見せる、別人のような雰囲気に、鬼気迫る言葉。 本当に現実だったのだろうか。と疑いたくなるような経験だった。 きっと上手くいく。 運転手の言葉が頭の中で反響する。 それは、何よりも勇気が出る魔法のように、照明の身体に染み渡る。 まだ見ぬ明日の事を考えながら、照明は本屋に足を踏み入れる。

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