人生が変わる音

読了目安時間:5分

エピソード:2 / 6

小早川 照明 ①

小早川 照明

小早川 照明は渋谷駅のホームを駆けていた。 どこか季節感を決めかねている、とでもいいたげな太陽が空に浮かんでいる秋の日だった。 電車の接近を示す信号のような丸いライトが赤く光り、それを見た仕事帰りのサラリーマンが早足で横を通り過ぎて行く。 照明は、押し寄せる人の濁流に抗い、人と人の間に生じた僅かな間隙を縫って進んでいた。 まるで皆が結託して、照明の道を阻むように、次から次へと照明の前に人の壁が出来上がる。 一見コンクリートで塗り固められたような、抜け穴の存在しない壁のようにも映るが、実際は突貫工事の末に妥協で完成させたような歪な壁だ。 「すいません」と小さな声で呟きながら照明はなんとか少しずつ前に進んでいた。 どれだけの人が立ちはだかろうと、照明は足を止めようとはしない。 出来るだけ身体を縮こまらせて、人と人の間をすり抜ける。 すれ違う人々から向けられる視線が痛いほど刺さり、まるで何か犯罪を冒しているかのような錯覚と、申し訳なさが相まって照明の心を締め付ける。 しかし、そんな事に構っている余裕を照明は持ち合わせていなかった。 一分一秒でも早くこの人波を抜けきる必要がある。 やっとの思いで人波を抜けた照明は腕時計に目を落とした。 太陽の陽射しを直に跳ね返す時計盤が眩しくて、照明は首を傾ける。 その時計は、昨年の大学受験で、第一志望に合格したお祝いに家族が購入してくれたものだった。耳を近づけると、チク、タクとどこか嬉しげに、時を刻むことに喜びを見出しているようなメロディーが聴こえてくる。 照明は、その音を聴くのがとても好きだった。腕時計は、十七時五分を指していた。 「人生が変わる音」 照明が小学生の頃から敬愛する作家、木村敏文先生の最新作。 二人の初対面の男女が聴いた謎の音。 この世のものとは思えない程の澄んだ音色。 後に「人生が変わる音」と名付けられるその音をきっかけに、二人の関係が変化していく物語。 木村敏文先生の元々の知名度と、「人生が変わる音」というキャッチーなタイトルは巷で話題となり、連日のようにメディアでも取り上げられている。 そんな「人生が変わる音」の作者である木村敏文先生のサイン会が今日、十七時三十分から開かれる。 渋谷駅ハチ公口から徒歩三十分の場所にある本屋で開催されるサイン会を、照明は何よりも楽しみにしていた。 人員不足を理由に、当たり前のようにスケジュールの空いた日を埋めていくアルバイト。 永久機関のように、無限に湧いてくる大量の課題。 照明は、辛い事がある度に今日のサイン会の事を思い出し、自らを奮い立たせてきた。 そのサイン会に、照明は今まさに遅れようとしていた。原宿に停車した際に、これまた雪崩のように流れ込んでくる人の流れに逆らって、ドアが開いた際に真っ先に飛び出すことの出来るドア横に立つことが叶ったその時から、照明の心は遅れるかもしれない…。という不安で満たされていた。憧れの作家に会える歓びと、時間を気にする緊張感が絡みつき鼓動を早める。 やっとの思いで改札を抜けた照明は再度、腕時計を見た。腕時計は十七時八分を指していた。 サイン会の本屋までは徒歩で約三十分。 何度か行ったことがあるが、三十分で着くことは殆ど不可能なように思う。 きっと、競歩の代表選手でも基準にしているのだろう。 誰もが皆、彼等のように歩ける訳では無いのだ。改札を抜けると、壁に囲まれていた視界が開け、ハチ公像が目に飛び込んできた。 実家に帰った時のような安心感が照明を包み、飛び跳ねるように鼓動を刻んでいた心臓が少しだけ大人しくなる。 何故だろう。と照明は苦笑する。 なんの思い出もないのに。 上を見上げれば、まず目に入る大きなビルからは化粧水のCMが流れていた。 最近よくテレビで見かける女優が出演している。緊張が少し解れると同時に、これまではBGMのように、都会を彩る背景の一つとして耳をついていた都会の喧騒が大きな音を伴って響いた。 ハチ公像を取り囲むように立っている若者達の大きな笑い声や、駅前に屹立する建物のモニターから聞こえる様々なCM。 圧倒的な交通量と、耳を塞ぎたくなるようなエンジン音。 都会の圧倒的な喧騒が、照明の心に静寂をもたらしていた。 照明は大きく息を吸いこんだ。 都会でしか味わう事の出来ない匂いが鼻腔を刺激する。 そして、小さく口を開けて、ゆっくりと時間をかけて息を吐き出した。 「焦った時は一旦深呼吸して、周りを見てごらん。助けになるものは必ずある。ゆっくりと周りを見回すんだ」 照明は幼い頃、幾度となく聞かされた祖母の言葉を思い出していた。 その言葉は照明の指針となり、何度も照明を助けてきた。 そして今も…。ゆっくりと辺りを見渡す。 照明の周りに存在する全ての人、物を見落とさないように丁寧に。 すると、不安で満たされていた体に新鮮な空気が入ってくる感覚がした。 それは、晴れた日曜日の朝に、窓を開けて新鮮な空気を部屋に入れ込む感覚と似ていた。 行き場を失い、滞留していた空気が入れ替わり、まるで新たな自分になったかのような開放感がある。 自分を構成する全ての要素が、新品のように、輝きを取り戻したように。 これまでは、どこか朧げで輪郭しか見えなかった人、物が明確に形を帯び始める。 先程とは違う視点から辺りを見渡す事が出来る。すると、人の間にタクシーが見えた。 これだ!と照明は思う。即座に道路脇に移動し、タクシーを呼び止める。 近くを走っていた一台のタクシーが速度を落として、照明の横に停車した。 トヨタのクラウン型だ。 よく磨かれた黒のボディは美しく艶があり、西日に照らされてその輝きを一層強めている。 タクシーのドアが照明を出迎えるように横に開く。照明はタクシーに乗り込む。 彼の人生を左右することになるタクシーに。

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