「こんにちは」 照明が乗車すると、運転手は愛想良く微笑みかけて声を掛けた。 歳は四十代前半程だろうか、恰幅がよく、頭が少しだけ禿げている。 少し濃い眉毛と、人よりやや大きめな唇が印象的だ。 こんにちは。腰を下ろしながら照明が挨拶を返す。 優しそうな人だな、と照明は思う。 どこか、人を優しく包み込むような雰囲気がある。 そんな運転手に、照明は会って早々、自然と好意にも似たような安心感を抱いていた。 照明は後部座席の左側に腰を下ろした。 身体の隅の方で、今にも忘れ去られようとしていた疲労感がどっと照明を襲う。 大学に入って以来、ろくに運動をして来なかったのだから、当然だ。 照明は目的地までの僅かな安寧の時間をとてもありがたく思っていた。 タクシー独特の匂いが鼻を刺激し、丁寧に、しかし着実と凝り固まった疲れを解していく。 「どちらまでいかれますか」 運転手が言った。 それは、ドラマに出てくる執事役のように抑揚のついた穏やかな口調だった。 これまでに数え切れない程、口に出してきた言葉に違いないのに、まるで人生で初めて発したかのように気持ちのこもった言葉だった。 「××本屋まで、お願いします」 「かしこまりました」 目的地を告げると、運転手は僅かに微笑んで、軽く会釈をした。 照明が視線を僅かに移すと、助手席の前方に取り付けられたネームプレートには「加藤優一」と書かれていた。 加藤優一。 名前の通り、優しそうな人だ。 運転手は丁寧に、しかし迅速に必要な動作を完了させて発進の準備をした。 運転手の所作は一つ一つが洗練されていた。 丁寧にハンドルに絡ませる指に、使い古されたハンドルカバー。 まるで大きな美術館の一室で、「タクシー」と名付けられた作品群を、順を追って眺めているような錯覚に陥る。 運転手の動きは、完成された絵画であって、どこか見るものを掴んで離さない独特な魅力があった。 運転手の背景として機能していた、フロントガラス越しに映る外の景色は、教科書に『都会』とだけ説明が付けられた写真のように、ただ愚直に人々が想像する都会そのものであった。 世界最大級のスクランブル交差点の信号が赤に変わる。 車両用の信号が青になるのが待ちきれない白のベンツがじわりと前に進み出す。 信号が青に変わる。 止まっていた車が一斉に動き出す。 照明は満員電車や駅での疾走の疲れがどっと押し寄せてきて、深く後部座席に座り直した。 これで何とか間に合いそうだ。と心底ほっとする。 それと同時に、あと僅かな時間で憧れの木村敏文先生と会えると思うと胸が高鳴る。 木村先生の本との出会いは十年以上前、小学校にまで遡る。 小学生ながらに始めて手にした彼の作品への第一印象は「難しい」であった。 おおよそ小学生が耳にする事も無いような難解な言葉が並べられたその本の内容を、何故大まかにでも小学生であった僕が理解できたのかは、大学生になった今も分からない。 暗号を紐解くように、辞書を片手にページを繰ったあの高揚を、今でも昨日の事のように思い出すことができる。 周りの大人に褒められる事がとても嬉しかったし、大人でも苦戦するような分厚い本を読み切った事実を誇らしく思ってさえいた。 そんな風に始まった木村敏文先生の本との対話は、中学、高校、大学生になった今も続いていた。 当初は「難しい」であった彼の本に対する感想は、次第に「理解」を経て「面白さ」や彼特有の「深み」を感じ取れるようになってからは、心の底から楽しめるようになっていた。 大学受験を控えた高校三年生の頃には、唯一の心の拠り所となり、大学生になり悩みが増えた今でもそれは変わっていなかった。 人生のあらゆるターニングポイントで、彼の本に救われ、彼の紡ぐ文章との対話で人生において重要な事を沢山学んだ。 彼の紡ぐ文章の一つ一つが、胸に刺さり、それは時間の経過と共に累積されていった。 それは今の僕を構成し、これからの僕を形作っていくものだ。 「××本屋といいますと、今日は『人生が変わる音』の木村敏文先生のサイン会があるようですね。お客様も、サイン会に?」 心を読んだかのような絶妙なタイミングであった。 運転手はフロントミラー越しにちらりとこちらを見て言った。 「はい。幼い頃からとても大好きなんです」 「そうでしたか。私も何作が拝読させて頂いた事があります」 「何を読まれたんですか?」 自然と声が高くなり、前のめりになる。 「『怪鳥エデン』と『再生』を」 運転手の声が振動となり鼓膜を揺らすと同時に胸が踊り出す。 「胸が踊る」とはこの事に違いない。と照明は考える。 『怪鳥エデン』と『再生』は数ある木村敏文先生の作品の中でも照明が好きな二作だ。 短編調で描かれる『怪鳥エデン』は、神話を元に描かれた作品で、木村敏文先生にしては珍しいファンタジー作品である。 「怪鳥エデンよ…永遠に。」といった最終章での主人公の台詞は今でもはっきり覚えている。 『再生』は辛い経験をした主人公が自分を取り戻す様子を描いた傑作で、その年の本屋大賞にも選ばれた。 好きな作家について語れることがなによりも嬉しい。 自然と声は上擦り、顔が綻ぶ。 「僕もその二作は彼の作品の中でも特に大好きです。二作とも対象的な作品でありながらも、彼特有の深みがあります」 「そうですね。私は…」 運転手は一度言葉を切る。 本当に僅かな、普段であれば気づかないほどの短い間。 しかし、確かに運転手は微かな空白を虚空に作り上げる。 そうして、運転手は言葉を続ける。 「何度もあの作品に救われました。とても大切な本です」 運転手は言った。 フロントミラー越しに写る彼の顔が、どこか切なげに映る。 どこか遠くの景色を、手を伸ばしても届かない場所を見つめるような朧気な目だった。 救われた。という言葉は決して誇張などではないだろう。 右も左も、自分といった存在さえも曖昧になるような、深い暗闇の中で、その本は光となり、また道となって運転手を導いたのだろう。と照明は思う。 運転手が纏う雰囲気が微かに変化する。それは、哀しみのようであって、また怒りのようでもあった。 車内の温度が僅かに下がったように感じる。 照明が返事に窮していると 「サイン会、是非楽しんで下さいね」 と運転手はフロントミラー越しに微笑みながら言った。 それは、先程までの運転手そのままで、どこか照明はほっとした気持ちになった。 車内から話し声が無くなり、微かに聞こえるエンジン音と僅かな隙間から漏れ入る車外の音が絡み合う。 それは、心地よい沈黙だった。 先程の会話が車内を暖め、自然な心地良さを作り上げていた。 照明は車窓を流れる景色を見つめる。 際限なく立ち並ぶ建造物に、タピオカ屋に列をなす若者達。 横になって歩く学生達と、その後ろで行き場に困るサラリーマン。 各々の思惑、苛立ち、高揚感が否応なく漏れ出る街、渋谷。 それらが僅か数秒のうちに視界に入ってきては、滑り落ちていく。 実際にそこに存在する現実は、わずか数秒のうちに手の届かない場所まで遠ざかっていく。 信号に近づくにつれてタクシーはその速度を落としていく。 視界を埋め尽くす人々の営みや都会の建造物が先程よりも長い時をかけて視界から緩やかに滑り落ちる。 疾走感の欠如した車窓からの景色は、どこかどんよりとして、違う街の景色のようにさえ思える。照明は車内に目を戻す。 視界の端で、紙のような白い何かがチラついた。照明は右側の後部座席前方に貼り紙を見つけた。四方にはガムテープが貼られていて、全てが整頓されたタクシーの中にあっては、どこか異質な雰囲気を放っている。 「『タクシーお悩み相談所』何でも相談に乗ります。気軽に話し掛けて下さい」 貼り紙にはそれだけが書かれていた。 今どき珍しい手書きの広告で、住所や電話番号なども一切書かれてはいない。 そして何より、「タクシーお悩み相談所」という名前が気になった。 「あの…ここにある『タクシーお悩み相談所』っていうのは」気づくと、照明はそう尋ねていた。 「それは、私が趣味でやっているんですよ。お客様が目的地に着くまでに少しでもお客様の心を軽くできたら。と思いまして」 運転手は少し笑って答える。 止まっていたタクシーが緩やかに動き出す。 活気を戻したように、車窓が景色を映し出す。 それは、見る角度一つで中身が変わる不思議な映画館のように思えた。 左と右の車窓が異なる映画を映し出す不思議な空間。 一見それらは全く関連性のないように映るが、実際は非常に似通っている。そんなタクシーという空間が照明は好きだった。 「相談…ですか」 照明は少し驚いたような表情を浮かべてそう尋ねる。 相談…か。この運転手ならば、あるいは僕の悩み事も聴いてくれるかもしれない。と照明は考える。 ある女性の事を。 一人では決して答えの出せなかった事について。
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洋夏晴崇
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洋夏晴崇
2022年1月16日 16時24分
ドンキル
2022年1月16日 17時34分
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ドンキル
2022年1月16日 17時34分
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