人生が変わる音

読了目安時間:2分

エピソード:1 / 6

人生が変わる音

加藤優一

加藤優一はタクシーの中にいた。 人々が忙しなく行き交う、渋谷のスクランブル交差点。 世界最大級の交差点を視界の端に捉えて、優一はハンドルを握りしめている。 優一がタクシー運転手になって今年で十年が経とうとしている。 運転手となってすぐに取り付けたハンドルカバーには汗が滲み、元の色が判別できないほどになっていた。 優一は我が子を抱き上げる時のように優しくハンドルカバーに手をかける。 そして、元気に育っていれば今年で十歳になっていたであろう、失われた子供の事を思う。 「康太…」 誰の耳にも届かないその声は、交差点から漏れ出る雑音と微かに聞こえるエンジン音に飲み込まれ、虚空にその存在を消していく。 そして、優一は小指からゆっくりと指をハンドルに絡ませていく。 そうしていると、歩行者用の信号が一斉に青に変わる。 信号が一つ青に変わる度に数え切れない程の人間が動き出す。 優一は昔どこかで見た「羊の大行進」を思い出していた。 牧羊犬の動きに呼応して、数百匹の羊が動き出す。 何かのシグナルに従うように彼らは規則正しく集団で移動を始めるのだ。 優一はその情景を頭で再現しようと試みる。 雄大な草原を駆ける羊や牧羊犬の体毛が風を受けて僅かになびく様子や、その営みを遥か高みから見下ろす山々に至るまで。 しかし、何故か上手く思い描く事が出来なかった。 ある地点を境にそれは酷く抽象的で、平面的な情景にすり変わっている。 優一はその想像を中途で遮り、交差点に目を戻す。 人々の様々な思惑が交錯する。 他人を気にかけずに小走りで渡りきる者や、イヤホンを耳につけ現代の喧騒から僅かばかりの現実逃避をする者。 本来であれば混じり合うはずの無い人々達が信号の点滅一つで示し合わせたように歩調を早める様子を面白く感じる。 歩行者用の信号が赤になり、僅かな静寂が場を支配したかと思うのも束の間、車両用の信号が青になった。 優一はシフトレバーを慣れた手つきで入れ替えると、アクセルを踏み、緩やかな加速と共に車を発進させた。 夕陽が落ちかけている午後六時。 西陽に照らされた建造物が本来よりも大きな影を地面に落としている夕焼け時はタクシーの乗車客がピークに達する時間帯だ。 優一は道路脇の歩道に注意を向けながらアクセルを踏んでいた。

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