顔のわからない幽霊

読了目安時間:14分

エピソード:6 / 6

時計の針は回った。 君を愛した分だけ。 君と生きた分だけ。

「貴方の人生は、素晴らしいものでしたか」  哀愁感を秘めたセピア色と幻想的な群青色が折り重なった朧気な意識の底で、誰かの声を聴いたような気がする。  天を見上げれば金平糖のような星々が瞬いて、緋と碧と濃い桃色の細い光芒を伸ばしている。星が見えるというのに辛うじて窺える地平線の彼方には黄昏の光を宿す日が昇っており、時刻を混乱させていた。  様々な淡い光が織りなす螺旋は虹のようで、思わず手を広げて掴もうとしてみるが、届くことは無かった。  そんな神秘的な情景もまばたき一つで全く違う空間へと転じる。  例えば、四方に広がる蒼い海。  例えば、一面に花が咲き誇る花園。  例えば、雄大な尖山が連なる山地。  例えば、沈黙に包まれた雪原。  例えば、どことも何とも表せない抽象的な世界。  どこかで見知っている場所。見覚えがある地。手に取るようにわかる空想と実感。  そうだ。ここは全て、一度は訪れた場所。旅で巡り巡った地。そして紙に描いた記憶と記録だ。  鉛筆や絵の具でできた世界。作品の世界。一人の画家の、創り上げてきた世界達。  数えきれないほどの枠組みの中を、エルヴィスは彷徨っていた。ふわりふわりと浮かぶように、ぷかりぷかりと漂うように。朦朧とした夢現な意識はどこまでも遠いけれど、虚ろではなかった。   無数の世界は螺旋階段のように繋がり、回廊のように輪を結び、エルヴィスを手招きする。  どこまで行きますか。どちらまで行きますか。  どこまで生きますか。どちらまで生きますか。  どこまで逝きますか。どちらまで―――――。 「貴方の人生は、良き旅路でしたか」  現実なのかはたまたは夢の中での出来事か、幻聴のようなその言葉は、揺蕩うエルヴィスに静かに問いかける。  通りすがりの書店で偶然目についた本の一文だったような気もするし、たまたまラジオの番組で耳にした一声だったかもしれない。  人生について今まで深く考えたことがなかった。目を背けていたわけでも興味が無かったわけでもなく、どこまでも愚直だったからだ。  前しか見ていなかった。ひたすら直進しては転び、そこからまた真っ直ぐに進んでいくことを繰り返し続けてきていた。  否、人生について考えたことはあった。  それはあの時。遠い昔の懐かしい記憶の中、右腕を失くしたばかりの幼い少年時代。   人生について本気で葛藤していたのは、八歳の頃が最初で最後だったかもしれない。  右腕を失ったことによって、これからの自分はいったいどこへ転がってしまうのか、ろくでもない未来が訪れるに決まっていると嘆いていたあの時の自分が、目裏に映る。  心を閉ざして泣いている自分に、そっと声をかけてあげたかった。  不安に押し潰されそうになっている自分に、大丈夫だと励ましてあげたかった。  嗚咽を上げて俯く自分に、泣かなくてもいいんだと助言してあげたかった。  右腕を失っても、自分の世界は台無しになどならなかった。むしろ、色鮮やかな道を見つけることができたのだと、教えてあげたかった。  本当の夢だった画家になれたこと。  たくさんの絵を描けたこと。  幽霊の少女に恋をしたこと。  色の無いと思っていた人生に、自分で色を塗ることができるのだと―――――微笑んであげたかった。     枠組みの世界に、ぱっと光が弾ける。  浮かび上がるのは、舞い散るのは、たくさんの探し物の跡。  たくさん探しても、まだ見つからない。  ここまで振り返っても、まだ届かない。  残りの芯が僅かな鉛筆と、後一枚しか残っていない紙。  気分はまさにそれだった。これが最終でいて、最後。  ここまで来るのに、どれほどの時間をかけたことだろうか。  たった一度きりの時間だけれど、後悔は無かった。  でも、まだやるべきことは残っている。  これが最終でいて最後―――――ならば、とっておきの栄光を飾りたい。  お気に入りの絵画を部屋に飾るように、愛する人の目に映るように。  見てくれる人を笑顔にできるような、そんな終止符になるように。    エルヴィスは答えた。  迷い無く、戸惑いも無く、屈託の無い笑顔で―――――応える。   「僕の人生はリエナがいたから、素晴らしい冒険になりました」    君の顔を探し続けて、まさかここまで来るとは正直思っていなかったです。    僕は僕の作品と人生の全てを、愛する幽霊リエナに捧げよう。    ◆  昏睡に近い危うい状態を繰り返し、意識も定まらなくなりつつある。  体の機能は極限まで落ち、目が覚めていても半分以上は眠っているかのような不安定な感覚があった。  次に目を閉じれば、二度と目覚めることは無いかもしれない。  いよいよ終わりが近づいてきていると、エルヴィスは悟った。  医者からははっきりとは明言されていないが、それでもいつ死んでもおかしくない状態であるということは伝わっていた。  延命の手段もあるようだったが、寿命を延ばすことは望まなかった。  病室に飾られた花がやがて枯れるように、人間も朽ちる時が来る。時の流れには逆らえない。生命の摂理には抗えない。何より、エルヴィスにとっては絵が描けなくなることが死そのものであった。   辛うじてまだ動く左腕だけれど、動きは随分と鈍くなり、握力も落ちた。  それでも鉛筆や筆は握れる。  視力も低下したけれど、まだ見失いたくないものはちゃんと瞳に映せる。  呼吸をするのもだんだんと苦しくなってきているが、まだ生きている。 「無理しないで」  リエナはそう気遣ってくれるが、大丈夫だと答える。喉奥から漏れ出た声は自分とは思えないほど低くしゃがれていた。  このまま諦めて何もしなければ、ただ衰えるだけ衰えて石のようになってしまう未来が容易く予期できた。  何よりも、今はこうしてリエナの横でリエナの顔を描いていたいと強く思っていた。  もしかしなくとも、これが最後の望みなのだと、エルヴィスは自分で自分に微笑した。  真っ白なスケッチブックに鉛筆を走らせる。隣で自分を見つめる幽霊の妻を見つめ返して、絵を描く。  〝無個性顔〟を見つめた回数も、その先に隠れている本当の〝顔〟を覗こうとした回数も、もう覚えていない。数えるのを諦めるほど、エルヴィスとリエナはこうしていたのだから。何年も何十年も。何百回も何千回も―――――ただひたすらに。愛を数えるよりも明らかに。 「リィの目は碧眼で、口は桜桃色。鼻は小さくて、頬は柔らかくてお菓子みたい」 「お菓子みたいって何よ。まぁ、悪い気はしないけれど」 「とても可愛くて、だけどちょっと意地っ張りで我儘」 「それは顔じゃなくて性格じゃない!」 「顔に性格が出るんだよ。いろんな人を見てきたからわかるよ。きっとリィは、そんな感じ」  むっと頬を膨らませるリィを宥めながらエルヴィスは絵の作業を続けるが、ぽろりと手から鉛筆が滑り落ちてしまう。  幸いなことに鉛筆はシーツに転がっただけで済んだが、もしも床まで落下していたら作業を続けることが非常に困難になっていた。  今の体では立ち上がって鉛筆を拾うことさえままならないのだから。  小刻みに痙攣する左手をゆっくりと落ち着かせるように握りしめてから、慎重に鉛筆を手に取る。硬い木棒の感触がひどく手の内に沁み込んでいく。   そんなエルヴィスに何もしてあげられないリエナは、もどかしそうに歯噛みした。 「―――――リィ。君は、僕と一緒にいて楽しかったかい」 「え?」  唐突にそう訊ねられ、リエナは一瞬困惑してしまうが、すぐに気取った態度で返答した。 「楽しかったわ。そりゃあいろいろ苛ついたり困ったりしたこともたくさんあったし、言い足りない文句もあったりするけど、この際全部許してあげることにしたわ」  あの日笑ったことも  あの日泣いたことも  あの日怒ったことも   あの日愛を誓ったことも  思い返せば全てが尊い記憶であり、かけがえのない思い出だった。  時と共に生まれ出でたモノは宝玉のように煌めいて、胸の内で星のように瞬いている。  個々の星の名前はわからない。  それでもどの星のことも忘れてはいけない。確信めいたことも確証めいたことも無いけれど、なかったことにしてはいけない―――――そう思うのだ。  誰も知らないことだから。誰にも見えないことだから、せめて自分自身の心の内にしっかりと刻んでいたいと、エルヴィスは穏やかな心境のまま目を細めた。 「ありがとう。リィ」  「……お礼を言うのはむしろ、私のほうよ」  リエナはそっと、エルヴィスの左手に熱の無い透手で触れた。 「ありがとう。ずっと傍にいてくれて」 「うん」  「ありがとう。私を愛してくれて」 「うん」 「ありがとう。顔をたくさん描いてくれて」 「うん」 「ありがとう―――――本当に、ありがとう」  リエナは今、泣いているのだろうか。  それとも、笑っているのだろうか。  もしくはその両方だろうか。  無の霧の先にはどんな表情が讃えられているのか。どんな女の子の顔が待っているのか―――――何よりも知りたかった一生涯の謎は、ここにあった。    そうだ。僕は、ずっと、君の〝顔〟が知りたかったんだ。  リエナと邂逅した八歳のあの時から、その思いだけは揺れ動かず、老いることも変わることなく胸の奥にしまわれていた。  ここまで来てわからないままでいるのは、あんまりではないか。  何よりも、リエナを空の彼方へ還すために―――――見つけ出さないといけない。    絵の具を出し、最低限の画材を使って丁寧に色を塗る。  髪、肌、目、口、鼻、―――――星の数ほど行った作業。動作。きっと、これが最後になる。  手が痛くなっても止めない。眩暈がしても続ける。今止めれば、生涯をかけた取り組みが水の泡になる予感さえした。  描き続けたことに意味はあったのだと、自分に言い聞かせる。  決してなかったことにはならないのだと、自分を説得する。  あの日の思い出のように、あの時の思い出のように、忘れてはならないのだと。これこそがまさに自分の人生の象徴なのだと。  探し続けた日々。探求し続けた毎日。  リエナの顔を探す。  あの日笑った君を   あの日泣いた君を  あの日怒った君を  あの日―――――愛していると微笑みあった、君を。  必ず、見つける。  絵を一枚描くにもとても長い時間がかかるようになった。  朝から描き始めて気づけば日は沈みかけ、夜はすぐそこまで迫ってきていた。  雲の切れ目から注ぐ眩しい夕暮れの光に照らされて、ようやくエルヴィスは最後の一枚を描き上げた。  二人からすれば、長いようであっという間のことだった。  エルヴィスは終えた。人生最後の絵描きを。  リエナは見守り終えた。愛した画家の人生最後の作品の完成を。  疲労で震える手が、そっと絵を持つ。  リエナはそれを待つ。  夕焼けの橙と赤と黒が焼き付く世界の中で、お別れの挨拶をするように。  「その一枚で、私の〝顔〟を思い出させてくれる?」  どこか挑戦的な態度は、初めて出会った時の彼女を彷彿とさせる。  彼女の姿は変わらない。それでも、彼女の心は変わった。  笑うリエナ。怒るリエナ。泣くリエナ。拗ねるリエナ。喜ぶリエナ。はしゃぐリエナ。悩むリエナ。照れるリエナ。幽霊の、リエナ―――――どのリエナもリエナであり、エルヴィスは誰よりもそれを知っていた。  知っていたからこそ、ここまでやってこれた。  絵の具の色。鉛筆の濃淡―――――できるなら今ここで、愛する人の本当の姿を見たい。 「これが―――――僕の思い描く、〝君〟だよ」  どうか思い出して。  君が生まれ持った、大切なモノ。   最後の絵を見たリエナは何も言わず、何もしなかった。  ただひたすら、じっと絵を正面から見つめている。美術館で心に響いた絵画を鑑賞する者のように、見ている。  脳裏を過ったのは過去の記憶なのか、それとも別のことか、エルヴィスにはわからない。  それでも、リエナは〝口〟を開ける。  〝目〟を開け、〝顔〟を映して―――――涙を零した。 「私の顔―――――こんなに素敵だったのね」      そして―――――優しい世界に、聖なる光が満ちる。  ここから先は夢だったのかもしれない。  幻だったのかもしれない。  想像と理想の幻影だったのかもしれない。  それでも―――――真実なのだと、信じていたい。    いつしかエルヴィスの視界に映る全ての物が消え、寝たきりだったはずの体は宙へ、虚空へと投げ出される。  遠い昔に崖から落ちた時のような重力感は不思議と全く感じない。  それどころか身を縛るような息苦しさも倦怠感も水に溶けるように消え失せて、あらゆるしがらみから自由になったような開放感があった。  風と波の歌声がどこからともなく聞こえてくる。  眼下にはいつの間にか深い海。見上げれば果ての無い青空。地平線のどこまでも、どこを見渡しても青色の絵具と白色の絵の具だけで描かれ構築された、誰かの絵のような世界だった。  光の蝶が歓迎するように空を舞い飛ぶ。雪のように、花弁のように、ひらひらと、ひらひらと。揺れる、巡る、揺り籠のように。誰かの記憶を遡り、再生するように。思いの全てを収束し、形にするように。  光の翅は炎のように輝く。煌々と、懸命に生きる命のように。生まれたばかりの魂のように。終わりを迎える心のように。  自分の体が空に浮かんでいることに、何の疑問もわかなかった。  自分の姿が何十年も前の青年の姿に戻っていることに、何の違和感も覚えなかった。  奇妙なことだけれど、理解していた。ここがどこであるか、どうして自分がここにいるのかということを。  海は生命の始まりの故郷。空は生命が還るべき第二の故郷。  誰もがやがてここに行き着くのだろうかと考え出したところで、声が聞こえた。   「エル」  自分を呼ぶ、愛しい声が。  振り返ればそこに―――――美しい少女がいた。  可愛らしい顔に、満開の花のような笑顔を浮かべて、エルヴィスを待っていた。 「―――――リィ」    長いハニーブロンドの髪。  真冬の蒼穹を閉じ込めたような瞳。  桜桃色の唇。  形の良い小さな鼻。  仄かに赤みがかった頬。    絵の通りの少女が、そこにはいた。  想像した通りの少女が、ここにいた。  宝石よりも、花よりも、虹よりも、何よりも誰よりも綺麗な―――――最愛の人が。  「やっと思い出したわ。私の顔―――――こんなに近くにあったのね」  リエナはどこか澄まし顔で自慢げにそう言うが、エルヴィスはまともに反応できなかった。  涙が溢れてしまったからだ。  海の味の感情の雫が零れるのは、悲しいからではない。切ないからではない。  嬉しく思っているから。喜ばしく感じているから。祝福したいと心から祈っているからだ。 「どうしてエルが泣くのよ。ここで泣くのはむしろ私じゃないの?」  困ったようにはにかむリエナに、涙を拭いながらエルヴィスは言う。 「やっぱり思った通りだった」 「何が」 「やっぱりリエナはとびきり可愛い女の子だった」 「そりゃあそうよ!最初にも言ったじゃない。私の顔は可愛くて綺麗だって―――――それにしても今まで顔が思い出せなかったことが嘘みたい。どうして思い出せなかったのかしら」   首を捻るリエナに、エルヴィスは少々悪戯めいた発言をする。 「僕と長い間一緒にいたかったから、とか」 「そんなわけない……わけでもない、かも」  赤面しつつ、苦笑いで曖昧な返事をするリエナだったが、怒った?と不安そうに顔を覗き込んでくる。  怒ってないよと、エルヴィスは風に揺れる髪を撫でた。  きめ細やかな髪は陽の光を吸い込んでいるようで、温かかった。 「温かい」  思わず引き寄せるようにリエナを抱きしめる。  実体がある―――――ある!  触れられる体。肌の温もり。耳を澄ませば心臓の鼓動も聞こえてくる。  向かい合った位置に、鏡合わせで心音が鳴る。重なって調和する。  この温もりは、嘘ではない。  こうして触れ合えることにどれほど焦がれたことか、今となっては思い出せない。 「ちょっと……強引な男は嫌われるわよ」 「そうかな」  恥ずかしがるリエナを宝物のように大切に抱きしめるエルヴィスは、それどころではないようだった。 「でも、よく考えたらエルは私の旦那さんだから、こうされても別に変なことじゃないのよね」  気恥ずかしさと嬉しさを交えた笑みを作る唇に、エルヴィスは自身の唇を重ねた。  キスをする。  初めてではないのに初めて行うことのようでどきりとする。  唇は放しても体は離さない。離してたまるものかと、欲張りにも抱きしめ続ける。 「やっと会えたね。僕の大好きなリィ」 「何よ。ずっと昔から一緒だったじゃない」  涙を流しているのはどちらだったのか。  滲んだ視界には愛する人がいる。ここにいる。ここに在る。それだけで充分だった。  抱きしめあう。強く、優しく、一つになるように。  やがて、二人を神聖さを帯びた光芒が包み込む。  迎えに来たと言わんばかりの慈悲深い光の階段は、空高く続いている。 「それじゃあ、行こうか」 「未練はないの?」 「やり残したことはもう、全部終わったよ」 「そう。それなら、よかった」  手を握る。  無い右手の代わりに、左手でリエナの右手を取る。  白亜の階段に足をかけ、一度だけ振り返る。  そこにあるのは無数の絵画―――――人生の絵画だった。 「さようなら」  館を出ていったあの日のように、別れを告げる。  「さようなら」  お世話になった人々に、別れを告げる。 「―――――ありがとう」  どうか忘れないで、ここにいたことを。  どうか忘れないで、彼女の存在を。    画家の青年と、幽霊の少女は手を繋いだまま、階段を昇り、微笑んで―――――  やがて静かに、空の青に溶け、消えていった。   ◆ ―――――とある海街の医療所で、一人の年老いた画家が永遠の眠りについた。 ―――――画家の手には少女の絵が握られており、死しても尚、離すことは無かった。 ―――――絵の中の少女は幸福そうに微笑んでおり、画家もまた幸せそうに微笑んでいたという。                              Fin                    

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