ウェイダを出たその日の日没後、一行は山をひとつ越えた隣の領地チェグルに入った。
チェグルはウェイダ同様農業もそれなりに盛んではあるが、主な産業は紡績と織物。クォンシュに出回る糸や布地の六割はチェグルで生産しているといわれており、夜も稼動している工場が多い。ほぼ山岳・森林地帯と農地のウェイダとは違い、山の麓には明るい大きな建物がぽつぽつと見られる。
「こんな時間まで働いている方がいっぱいいるのですね」
マイラが興味深そうに馬車の小窓から顔を出すと、
「こんな時間に顔を出すな」
トウキの注意に合わせて、一緒に馬車に乗り込んでいるスニヤがマイラの帯を咥えて窓から引き剥がした。
「女がいると知って襲ってくるとも限らん」
宿泊予定地まで、まだ少しだけ距離がある。未だ捕えられぬ賊のことを案じての発言だ。
窓を閉めておとなしくトウキの隣に腰を下ろしたマイラは、目の前にちょこんと座って撫でるように頭を差し出すスニヤの額を掻くようにさすってやりながら夫の顔を窺った。
「そういえば、旦那様」
「ん」
「『気になることがある』と仰っていました」
「……ああ、それは……いや、うん」
考え込んでしまった。言いにくいことなのだろうか。しかし聞きたい。
どう言えば話してくれるだろうかと考えながら、じ、と見ていると、視線に気付いたトウキは、
「な、んだ」
戸惑いながら、合った目を逸らした。声を出さずに言葉を選ぶ口が、僅かに動いている。
照れるときによく出る仕草だとマイラが気付いたのは最近のことだ。最初は火傷痕のこともあるし顔をあまり見られたくないのかと思っていたが、考えてみれば誰だって凝視されれば何故だか恥ずかしくなる。それはまぁ当たり前だろうこととして、マイラはトウキが照れる顔を見ると胸の中心のあたりがほわっとあたたかくなるのを感じるのだった。
「教えて下さらないのですか?」
優しいこのひとは、きっと応えてくれる。信じて駄目押ししてみると、
「……どうせ聞き出すまで諦めるつもりがないだろう」
案の定あっさり折れた。溜め息をつきながら苦笑する。
「これから一泊させてもらう館の主──チェグル領主、名をツトゥ・エンインというが、おそらくは、」
それまで穏やかだった表情が、一転する。
「アデンどのを襲った賊と繋がりがある」
まさかの発言に、マイラは一瞬言葉を失った。
父アデンが襲撃された賊。それが、嫁ぎ先の隣の領主が関与している可能性があるという。
「……何か、わかったのですか」
「一昨日の夜に詰所で聞いた。三日前にあの橋の付近で怪しい男を目撃した者がいてな。後をつけたらチェグルとの境あたりで馬を捨てて、貴族のものらしい馬車に乗り込んだ、と」
「でも、それだけではチェグルの領主と組んでいるとは」
“怪しい男”というだけでは決定打に欠ける。しかしトウキは続けた。
「エンイン邸の敷地内にその馬車が入っていったんだそうだ」
「……それは、怪しい、ですね」
「アデンどのが襲われたのが四ヶ月程前。その後三度、それらしい集団がウェイダ領内に出没しているが、家屋や店が荒らされた程度で盗難は全くなかった。おかしいと思わないか。物盗りをするならチェグルの方が豊かな家が多い。それなのに、ウェイダのものを少し壊した程度で何も盗らない、民も殺さない。命を狙われたのは、通りかかった異国の使者──アデンどのだけ」
「父上だけが、ですか?」
「アデンどのを襲った理由そのものがまだわからんが、その後賊が姿を見せたのはお前が嫁いできてから。……もしかした、ら、……」
そこまで話して、ふと気付いた──マイラが大きな円い目で注視していることに。
ゆっくり、顔を逸らす。
「…………なん、で、そんなに、見る……」
「旦那様が、たくさんお話されているので」
そういえば、先日「仕事のことだと饒舌になる」と指摘されたばかりだ。
またつまらない話をしてしまったのではないか。しかし聞きたがったのはマイラの方だ。こういう話をしてもきっとつまらないとは思わない、寧ろ大事なことだと耳を傾けてくれるだろうし、理解もするだろう。とはいえもう少し簡潔に、手短に話すべきではなかったか。
僅かな間に激流の如く思考を巡らせた挙げ句、
「……すまない」
つい謝ってしまう。するとマイラは少し困ったように笑った。
「どうして謝るのです。私と、私の父にも関係があること。詳しく話して下さった方が嬉しいです」
「そう、か」
「都から戻り次第、父に会いに行ってみます。何かわかればお力になれるかもしれません」
「一緒に行くと言いたいところだが頼めるか。護衛を何人かつけよう」
「旦那様はウェイダに戻ったらお忙しくなりますものね。お任せ下さい!」
そう請け合った瞬間、馬車が大きく揺れた。
「ひゃっ」
「わっ」
マイラが座席から転げ落ちそうになったところを、トウキが抱きかかえるように支えた。驚いたスニヤも毛を逆立てて立ち上がり、身構える。
「スニヤ、落ち着け、揺れただけだ。……だい、じょうぶ、か…………」
はっとする。
顔がとても近い。
マイラは「美女」といわれるような類の貌ではない。くりっと円い目は大きいが、どこか小動物のような趣があり、眉もほっそりとはしていないし、天気のいい日に陽差しも気にせず外に出ているせいか、肌も白くはない。婚礼の宴に出席していたマイラの腹違いの弟がよく似た顔立ちだった。長い髪を切ってしまえばそっくりになるだろう。
少年のようだが、少女らしくもある。よく動き、よく笑う彼女には、生命力に満ち溢れた美しさがある、とトウキは思ってはいるのだが、やはり──十以上も年下の、若く愛らしい娘、しかもそれが自分の妻なのだと改めて考えると、どうにも緊張してしまう。
「や、その、す、すまないっ、あ、あっ」
慌てて離れたトウキの顔から、左半面を覆う金属製の仮面がずるりと落ちる。
「あ、あっ、あぁっ」
「旦那様も落ち着いて下さい、スニヤがまた驚いちゃってるじゃないですか」
思わず笑ってしまいながらも、マイラは仮面を拾い上げて座席の上に膝立ちし、丁寧に再装着させる。
「紐、緩んでたんでしょうか。そういえばお屋敷を出てから一回も直してなかったですね。……きつくないですか?」
「あ、いや……すっ、ま、ない……」
「旦那様はすぐ私に謝ってしまいますね」
座り直してくすくす笑った。やわらかい空気を纏う笑顔だ。以前アデン・シェウから娘は気が強いと聞いていたが、決して責めることなく笑って流してしまうマイラは気が強いのではなく、芯が強いのではないかとトウキは思う。
「…………嫌じゃ、ない、か」
「何がですか?」
「その、…………触れようとした、縁談相手を、捻り倒したとアデンどのが……いや、以前に、つい抱き締めてしまったこともあったがっ、そ、その、さっきのも、咄嗟のことでっ、あっ、す、スニヤに乗ったときも、そのっ、」
ひどく狼狽している。そんなことを気にしていたのかとマイラは吹き出した。腕を取ってぎゅうと抱き込む。トウキがびくりとしたが、それを宥めるように、優しく腕を撫でさする。
「もうふた月も同じ寝所で休んでいるではないですか」
「まだ、初めて会ってから、半年も経っていない」
「成程、確かに日は浅いですね。……旦那様は、何故、私を妻にしようと思ったのですか?」
マイラの問いに、トウキは俯いた。
照れというよりも、申し訳なさそうな顔。
「……誰でも、よかった。何年も、前から……妻を娶れと……」
「ええ。そういう身分ですものね」
「……ここ数年は……シウルを迎えろと、言われて……」
「シウルさんを?」
やはり彼女との間にそういう話は上がっていたのか、と納得しかけたところに、
「違う!」
焦ったように、トウキが顔を上げた。
「別にっ、俺はシウルに対してそんな気はっ!」
「ないのですか」
ひとつ、深呼吸をしたトウキの口から、言葉は零れ出した。
「……シウルは、想われている、そして、想っている、……そういう相手が、いる」
その言い方から、その相手が誰であるのか、マイラは察した。
「それは、……お迎えできませんね」
彼は、近くで見守ってくれている姉のような人を、遠くで見守ってくれている兄のような人を、大事にしているのだ。そして彼がこうだからこそ、シウルもかの人物もよくしてくれているのだろう。
「でも、それなら、私でなくともよかったのではないですか? 父から私のことは聞いていたのでしょう?」
と、トウキはどう返そうか少し考えたが──笑いを堪えるような顔になった。
「随分な、お転婆だと……縁談が全部破談になった、ことも……聞いて……ふっ」
我慢しきれずに失笑。マイラは膨れた。
「私は悪くないです!」
「ああ、お前を侮っていた相手が悪い。……だから、少し、興味を持った。自ら学び、それを楽しむことができる娘なら、表面上の婚姻でもきっと苦にはならないだろうと、思った。隣の領地なら、実家にも気軽に帰れる。…………そう、思って、いたん、だが」
徐々に声が小さくなっていったかと思うと、黙り込んでしまう。言うのを迷っているのか。
「だんなさま?」
触れた指先が握られる。
「……いや、その。退屈せずに、過ごせているのなら、よかった」
「旦那様の、お陰です」
ことん、と頭がもたれかかる。
「旦那様が、私のわがままを聞いて下さって、くだらない話も、聞いて下さって。あと、その……嬉しいのです。私を美しいと言って下さるのは、旦那様だけ、ですから……」
急に静かになったのを不思議に思って覗き込んでみると、マイラは寝息を立てていた。流石に疲れが出たのだろう。警戒心の欠片もなく、ぴったりとくっついて眠る妻からそっと腕を引き抜いて、代わりにまた激しく揺れて転げたりしないように肩を抱く。
「……お互い様だ。初対面で臆せず近付いてきて、声を掛けて。俺が誰かをわかっていてそんなことをしたのは、お前だけだ」
アデンを屋敷の前まで送り届けたときに、駆け寄ってきた姿を思い出す。
「……一目惚れだった、と言ったら、どんな顔で、何を言うかな」
もう間もなく到着であるが、これから泊まるのは疑惑の館。できるだけ休ませてやろうと、トウキはそのまま妻を寝かせておくことにした。
◎ ◎ ◎
トウキが言っていた通り、チェグルは都から少し離れた地の割に栄えていた。領主の館からすぐのところに町ができており、日が落ちて時間が経っているというのに明るい。工場の夜勤だろうか、パンや惣菜や汁物を、持参した持ち運びしやすい容器に入れて買っていく者の姿もある。
「活気がありますね」
半刻ほど寝てすっきりした顔のマイラは、懲りずに小窓から外を眺める。しかし市街地であるからか、今度はトウキも咎めない。
「帰りに少し立ち寄ろう。女衆への土産物は都の菓子もいいがチェグルの布や糸も人気がある。実家に帰るのなら、姉君にも何か買っていってやるといい」
「はい、ありがとうございます! 姉は針仕事が大好きですからきっと喜びます! ……あ、」
高い石積みの塀に囲まれた、大きな箱のような建物が見えてきた。
全部白い石でできているのか、周囲の灯りに照らされてほのかに輝いているようだ。
「立派な、お宅ですね」
「エンインは貴族の中でも指折りの富裕層。一昨年先代が死んで代替わりしたから、今の当主は俺とそう変わらん年齢だが……」
立ち上がったトウキが、ゆっくり窓を閉める。撫でてもらえると思ったかスニヤが傍に来て座ったので、ふわふわとやわらかい鬣を揉みほぐすようにすると、スニヤは満足そうに目を細めた。
「あまり仲良くはできない人物と思った方がいい。今夜はできるだけ俺から離れるな」
「はい」
チェグル領主ツトゥ・エンインは、奥方と共に館の玄関に迎え出ていた。トウキより少し背が低いようだが、浅黒い肌に細身で、袖周りや帯がすっきりとした衣を纏ってるせいか、長身に見える。
特徴的なのは、表情だった。
あまり大きく見開かない目は、暗い色なのか光を宿さない。口元も微笑んでいるのに、そういう部品を貼り付けたようだ。
その笑顔に違和感があった。
トウキが挨拶をしている間、マイラはツトゥ・エンインをじっと見ていた。髪の色も、マイラのものよりも暗い。夜の闇に融けてしまいそうだ。
「マイラ」
小さな声で呼び掛けられて、我に返る。夫を見上げると頷かれたので、エンイン夫妻の方に向き直り、左胸に右手を当てて軽く頭を下げる。
「マイラ・シェウ・アヴィロです。このたびは、急に押し掛けるような形になってしまって申し訳ありません。ですがここしばらくは賊が出ているとのこと、エンイン様のお宅であれば夜も一安心です。大変ありがたく存じます。よろしくお願い致します」
「まぁ、まぁ、お噂はかねがね。こんなに可愛らしい奥様でしたなんて。初めまして、エンインの妻ユーイと申します。お隣同士、仲良くして下さいませね」
奥方は領主とは違い明るい色彩だ。紅を引いた唇が映える浮かび上がるかのような白い肌に、やや波打った蜜色の髪。シウルとは違う部類の華やかな美人である。
「さ、どうぞお入りになって。お食事とお湯を用意してありますわ。今夜はゆっくりお休みになって下さい」
こちらは裏表がない人間のように見える。しかしやはり油断はしない方がいいだろう。
「お気遣い痛み入ります、ユーイ様」
アヴィロ夫妻は、顔を見合わせた。
「参りましょう、旦那様」
「ああ」
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南雲遊火
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南雲遊火
2020年3月5日 1時37分
半井 幸矢
2020年3月5日 1時47分
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半井 幸矢
2020年3月5日 1時47分
富士見永人
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富士見永人
2020年3月11日 8時06分
半井 幸矢
2020年3月11日 8時30分
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半井 幸矢
2020年3月11日 8時30分
芥生夢子@書籍発売中
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芥生夢子@書籍発売中
2020年3月9日 11時40分
半井 幸矢
2020年3月9日 19時45分
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半井 幸矢
2020年3月9日 19時45分
服部匠
ああーーとっても!とっても!なんと可愛らしい!!お二人!! みるからに怪しそうなお屋敷でこれからどうなるか…楽しみです!
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服部匠
2020年3月5日 15時05分
半井 幸矢
2020年3月5日 18時05分
初っ端からなつき度MAXの嫁に旦那はデレているのだった! 爆発しろ! さてさて、どんな一夜に なりますかな???
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半井 幸矢
2020年3月5日 18時05分
ritka
トウキさんがマイラさんを選んだ理由がわかって大変ニヤニヤしました……誰でもよかったはずが一目惚れ✨一目惚れですか( ´艸`)ニヤニヤ 奥さま意識すると途端にしどろもどろになってしまうとこ本当に微笑ましいです。いつも尊みをありがとございます(*´ω`*)続きも楽しみにしております~
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ritka
2020年3月5日 7時56分
半井 幸矢
2020年3月5日 12時25分
ホッホッホ……実はそうだったのじゃよ……人生何が起きるかわかりませんねえ……そしてもういい歳なんだから落ち着いていただきたい ( ˘ω˘) こちらこそありがとうございます頑張ってもっとイチャイチャさせますウフフ
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半井 幸矢
2020年3月5日 12時25分
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