「近衛隊や陸軍は動いてないのかい?」
「動いてはいるんだろうけど、なにしろモクがなあ。カリュベス連隊や代官所の中にも、モク中は結構いるらしいからな」
「モク中」
「モクが病みつきになったやつらだよ。例の店を締め上げればモクも手に入らなくなる。だから……」
「情けないな」
男が哄笑している。
「俺たちに心配されるようになったら、陸軍や近衛隊も立つ瀬がねえな」
たしかに。思わず元軍人の本音が出てしまったが、ここは取り締まられる側の人間が集う場所なのである。男が舌打ちして立ち上がった。
「あーあ、湿気てやがる。まだモクが出回ってないんなら、チェレクかキュシェルあたりに移るかなあ……」
遠ざかってゆく男の気配。イェビ=ジェミも立ち上がる。考えるべきことは多い。
思い返すと、三年間のラファル駐留から戻って来たチェレクの「中庭」でも、煙草は増えていた。そしてラツモの動き。ブレニ人の犯罪組織の手は確実にチェレクの「中庭」まで伸びている。早めにチェレク連隊に知らせた方が良いかもしれない。
ただ、まだわからないことは残っている。何故、ラツモは「山の兄弟」にアレバ山のことを聞いたのか。単にカリュベスでブレニ人の犯罪組織に加わるだけならば、アレバ山は関係無いはずだ。アレバ山がブレニからの密輸の経路上にあるのか。それとも、スキーブリやブレイが心配しているように、「中庭」あるいはブレニ人組織がアレバ山の何かを狙っているのか。そこまでわかると、イェビ=ジェミとブレイがこれからすべきことも、明確になる。
イェビ=ジェミはカレヴィの祭壇を離れ、主堂の正面出口から外に出た。神殿の前は石畳が敷かれた広場になっていて、何軒もの屋台が燈火を灯して焼き肉や麺包を売っていた。人々は帽子を被っておらず、覆面もしていない。煙草の臭いも無い。この広場にいるのは「中庭の連中」ではないらしい。これは特に不思議なことではなかった。チェレクでもそうだが、神殿や教会の前は開けすぎているので、胡散臭い連中は寄り付かないのである。しかしながら、道を一本入ればいきなり胡散臭い連中ばかりの場所になるというのも、チェレクでよく見かけた光景だ。
イェビ=ジェミは広場を左に歩き、神殿の正面に並ぶ列柱が切れたところから、先程の路地へと入っていった。不思議なことに、路地に人の気配は無かった。壁龕の灯りだけが黄色く揺れている。どこまで行っても誰もいない。
先程、イェビ=ジェミが左翼の回廊に入った場所まで来た。扉は閉じられている。更に進む。黒尽くめの男の屋台があった場所まで戻ってきた。やはり、誰もいない。イェビ=ジェミは片膝をついてかがみ込み、地面に顔を近づけた。煙草の吸い殻が数え切れないほど落ちている。少なくともあれは幻ではなかったらしい。では、何があったのか? おそらく、夜警が現れたのだろう。「中庭の連中」は市兵や近衛隊には逆らわない。ただ、逃げ出すだけだ。
イェビ=ジェミはカリュベス宮の前の広場の方へと路地を戻っていった。神殿の横を通り過ぎると壁龕の灯りも無くなり、闇はいっそう深くなる。道は少しずつ上りながら右に曲がっていく。路地をまたぐ弧梁に吊るされた油燈の光が遠くに見えている。あそこまで行けば広場が見えてくるはずだ。その手前には例の蜂亭があるが、さすがに今夜は潜入する気になれなかった。
イェビ=ジェミは足音を立てずに路地を進む。これは作戦行動なのだ。弧梁の下まで来たとき、先の方から男の声が聞こえた。怒号だ。それも一人ではない。数人が言い争っている。そして剣戟の音。一体何事だろう?
イェビ=ジェミは路地の左端に寄り、剣と短剣が鞘から抜けるかを確かめた。次に手甲と帽子を一旦脱いで、鉢金を締め直す。そしてもう一度、帽子を被る。手甲を着け直す。左右を見回す。弧梁の少しだけ先、右側に建物の切れ目があった。たしか、あそこから隣の路地に抜けられるはずだ。場合によってはあの路地から脱出することになる。
改めて装備と逃げ道を確認してから、イェビ=ジェミは更に路地を進んだ。今度は路地は左に向かって曲がっている。これを抜ければ蜂亭の前。
見えた。
やはり蜂亭だ。男が一〇人ばかり、乱闘を繰り広げている。狭い場所での乱闘だ。避けて通ることも出来ない。引き返した方が良さそうである。イェビ=ジェミがそっと後ずさりしたその瞬間だった。乱闘に参加している男の何人かの腕に、白いものが見えた。腕章である。イェビ=ジェミもよく知っているものだ。連隊の兵士が警邏に出る時に、目印として身につける白の腕章である。ということは、あれは警邏隊とブレニ人組織がやりあっているのか! しかも警邏隊が形勢不利だ。なんてざまだ。
いつの間にかイェビ=ジェミは剣と短剣を抜いて走り出していた。石畳を革靴で走っていてもなお、イェビ=ジェミは足音を立てない。刀身の灰色の渦巻きの間に赤い光が浮かび上がっているようにも見えるが、気のせいだろうか。だが、立ち止まって確かめている暇はない。そのまま一番手近なところにいるゴロツキに長剣で斬りつける。不意をつかれたゴロツキは何も出来ないまま、右肘の先をえぐられて剣を落とした。相手が前かがみになった瞬間、顔を右足の裏で思い切り蹴り倒す。これでこいつはしばらく動けないだろう。
そのままの勢いで、うずくまったゴロツキの向こうにいた敵に斬りかかる。突然現れた新手に驚いた敵は、闇雲に剣を振り回した。敵は明らかに混乱している。イェビ=ジェミはつま先立ちで半歩下がって一呼吸入れ、わざと右手の剣を下げて相手の打ち込みを誘った。敵はまんまと釣られて、剣を大振りに振り下ろす。勝負は付いた。左手の短剣で敵の切っ先を外側に弾き飛ばす。敵の上半身が、がら開きになる。どこでも狙い放題だ。その瞬間、イェビ=ジェミは自分の右半身が何かに支配されるような感覚に襲われた。長剣の刀身がまるで意思を持っているかのようにして敵の右脇腹に向かう。
灰色の鋼が仄かな赤い光に包まれながら敵の胴着を断ち割って肉に食い込み、骨に当たった。なんともいえない感触が右の掌に伝わる。敵は剣を落として膝をついた。
これで二人潰した。形勢は完全に逆転している。イェビ=ジェミは更に前進し、三人目の敵の右側から細かく剣を突き出して注意を引きつけた。やはり見間違いではない。刀身が光っている。それに気づいた敵の顔が恐怖でひきつった。その隙きに警邏隊の一人が反対側から脇腹に斬りつける。また一人潰した。残った敵は広場の方に逃げ出した。
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エスティ
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エスティ
2023年4月15日 21時10分
akiwoK
2023年4月15日 22時19分
ありがとうございます。だんだんファンタジーみが
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akiwoK
2023年4月15日 22時19分
ムルコラカ
警邏隊が不利と分かって即座に応援に駆けつけるイェビ=ジェミがカッコよかったです! そして例の双剣も、いよいよ本格的に力を発揮しだしましたね!
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ムルコラカ
2022年7月9日 13時26分
akiwoK
2022年7月9日 13時54分
この人、単独行動のときは結構その場の勢いで動くんですよねー。指揮官として部下を率いているときはすごく冷静なんですが(続編で軍務に復帰したエピソードがあります)。
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akiwoK
2022年7月9日 13時54分
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装備と逃げ道の確認、大切ですね。命懸けですもの。
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2022年8月31日 19時22分
akiwoK
2022年8月31日 21時33分
この辺の冷静なところが彼のキャラとしての弱みです(笑)
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akiwoK
2022年8月31日 21時33分
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