ロバを引いて城門を出ると、イェビ=ジェミは城壁に沿って南北に走る「兵隊通り」を北に向かい、城壁が切れたところで左に折れた。軽い上り坂を進み、十字路を二つ超えると市庁舎前広場に出る。広場は食事を出す屋台や、郊外からやってきた野菜売りでごった返していた。自宅に台所を持っている家は町中では少ないから、皆、広場の屋台で食事を済ませるのである。
市庁舎前広場をまっすぐ突っ切って時計台の下をくぐり、ハザ川へ向かって右にゆるやかに曲がりながら坂を下る。北西の市門を抜けて、長さ半里ほどもあるハザ川大橋を渡り、イェビ=ジェミとロバはマハラビエ街道に入った。このまま街道を北に一〇〇里行けば、連合王国最大の海港であるキュシェル港に至る。
街道は数多くの荷馬車が行き交っていた。チェレク市に向かう荷馬車のほとんどは野菜を積んでいる。市の周辺で栽培された青菜や番茄や茄子、胡瓜の類を売りに行くのだ。牛乳や乾酪、米や麦などの穀物を積んだ馬車も見える。チェレク市から出ていくのは、織物や酒類など、ディエブ川で遠方から運ばれてきた品々だ。こちらの行き先は近郊の村々である。
街道の中央に敷かれた石畳の轍の上を、ガタガタと音を立てながら馬車がひっきりなしに通り過ぎる。イェビ=ジェミとロバが歩くのは、石畳の両脇に続く黒松の並木の下である。真夏の太陽は既に高く上っており、照りつける日差しは旅人たちの体力をじりじりと奪ってゆく。イェビ=ジェミは水を汲める場所では必ず水をたっぷり飲み、ロバにも飲ませ、そして塩を舐めさせるのを忘れなかった。これまでの旅は常に歩兵連隊の仲間たちと一緒だったが、これからは一人なのだ。どれだけ剣が使えようが、体調を崩してしまえば終わりだ。駆け出しの野盗にでも簡単に身ぐるみ剥がされてしまう。
街道の西には雄大な山々が見えていた。これは連合王国の国土の中心部を占める巨大な山脈で、中央山塊と呼ばれている。最高峰のウルシュラク山は高さ三〇〇〇スムートを越えると聞く。中央山塊の山々はあまりにも険しく深いため、その中心部を越える峠道は存在しない。
この山塊の東側に広がるのがアバルサ王国である。アバルサ王国から時計回りにブレル侯爵領、ヤムスクロ王国、マンガルメ王国、モヤンバ王国という五つの領邦が中央山塊を取り囲んでいる。またアバルサ王国の南には中央山塊と同じくらい険しく巨大な南方山脈があり、その大半がクンビア大公国の領土となっている。これらの六つの領邦が統一され、アルソウム連合王国となったのは一三二年前のことだ。それまで六領邦はアルソウム族の伝説の六人の族長たちの名前を冠した別の国であり、別の法律と別の通貨と別の軍隊を持っていた。
イェビ=ジェミが軍人として六年間を過ごしたチェレク市はアバルサ王国の中央やや北寄りに位置している。ここからマンガルメ王国に行く方法は幾つかあった。一つはディエブ川から中央海に出て、連合王国の北の海岸線沿いを西に向かう経路だ。イェビ=ジェミが九年前に故郷を出てチェレク市に来たときもこの経路であった。マハラビエ街道で中央山塊の北側に出て、そこから西に向かう方法もある。マハラビエから西に向かって一二〇里ほどでモヤンバ王国の首都カリュベスに至る。そこからシャルムの森を越えて更に西に行けばマンガルメ王国だ。
だが、今回イェビ=ジェミが選んだのは、このどちらでもなかった。マハラビエ街道を適当なところまで北上し、適当なところで西に向かう。あとは歩いていればいつかは着くだろう。自分でも随分といい加減だなとは思うのだが、軍隊という場でこれまで九年間生きてきて、効率的なやり方は経験し尽くしたような気がしていた。
たしかに最も効率的なやり方ならば、バジェ卿が言うように一ヶ月でチェレクまで戻って来られるに違いない。だが、それでは面白くないと感じる。どうせなら行きあたりばったり、何が起こるかわからない行き方でマンガルメの西の端まで行ってみたい。
何故そうしたいのか。それが一番面白そうだからだ。では何故、一番面白そうなやり方を自分は選ぶのか。そこが、わからなかった。それがわかっていれば、連隊長にも上手く説明出来ただろう。だが、説明出来なかった。だから、やってみるしかないと思ったのかもしれない。そこもまた、よくわからなかった。
「軍隊の外にはわからないことばかりだな、ロバよ」
イェビ=ジェミは傍らで草を食んでいるロバに話しかけた。ロバはイェビ=ジェミの方を見て耳を二回動かしてみせたが、イェビ=ジェミの言いたいことがわかっているようには見えなかった。
街道は、ゆったりと左右にうねりながら水田地帯の中をどこまでも伸びていく。街道沿いには一〇里ほどの間隔で宿場町が置かれ、旅人たちに宿と食事を提供している。町と言っても街道を挟んで一〇軒ほどの店や宿が立ち並んでいる程度だが、それでもあると無いとでは大違いだ。
時折、街道は小川を超える。どの小川も遥か西に見える中央山塊のどこかの谷の奥から流れ出し、田畑を潤しながら最後はディエブ川へと流れ込む。いつしか太陽は真北の空高く輝いていた。前方にはラトガ宿が見えている。チェレクから一〇里と少し。朝、チェレクを出た旅人たちがちょうど昼頃にこの宿場に差し掛かる。街道を歩いている人々の足が、心なしか早くなっているようだ。
イェビ=ジェミは宿場に入って四軒目の店に入った。三軒目までは先客でいっぱいだったからだ。ロバを店先に繋いで荷物を下ろし、床几に座って定食を注文する。ロバは主人より先に水と餌を貰っている。街道沿いの店では人間と家畜の両方に飲食を提供するのが当たり前なのだ。蝉の声を聞きながらイェビ=ジェミが汗を拭っていると、突然、声をかけられた。
「こちら、よろしいですか?」
見ると、麦わら帽子を被った中年男が、にこにこと笑いながらイェビ=ジェミの向かいの席を指さしている。店は混み合っていて、空いている卓は見当たらなかった。断る理由も無かったから、イェビ=ジェミは軽く帽子に手をやって会釈した。
「もちろん、構いませんよ」
「ありがとうございます」
男も帽子を少し持ち上げて見せてから、椅子にどっかりと腰を下ろした。商人か、農民か。遍歴職人や放浪学生には見えないが。
「いやあ、暑いですねえ」
男は脱いだ麦わら帽子で顔を扇ぎながら、イェビ=ジェミに話しかけた。イェビ=ジェミも適当に相槌を打つ。
「チェレクの夏は久しぶりですが、この蒸し暑さは堪えますね」
「おや、お兄さんはどちらからいらしたんですか?」
「私ですか? 生まれはマンガルメなんですが、三年ほどラファル島に仕事で行ってました。それからイグリムを回って帰国したばかりですよ」
「ラファルはチェレクより暑くないですか?」
「夏の暑さはチェレクの方がきついですね。ラファル島は日差しは強いし、雨も凄いのが降るんですが、屋根のあるとこに居れば案外過ごしやすかったですよ」
「ラファル島、良いですねえ。一度は行ってみたいなあ」
「食い物はこちらのが美味いと思いましたけどね」
「お兄さん、ラファル島にはやはり商売で?」
「うーん、商売と言えば……商売ですかねえ……」
イェビ=ジェミの曖昧な返事には理由がある。連隊長のような幹部を除くと、軍人は法律上は職人なのだ。戦闘の専門家すなわち職人という扱いである。軍隊や親方の元で所定の修行期間を終えて試験に合格すると、傭兵の組合で親方の資格を取ることが出来る。この資格があれば軍隊でも給料が上がるし、弟子を取ることも出来る。
だから、イェビ=ジェミの経験した三年間の海外駐留と遠征は、樽作り職人や鍛冶職人が出稼ぎに行っていたのと、同じといえば同じなのである。
「なんですか、歯切れが悪いですね、お兄さん」
男は笑った。
「ちょっと変わった商売なんですよ。別に悪いことをしてるわけじゃないんですけどね」
「ふーむ、気になりますねえ」
「そんなに珍しい仕事でもないですよ。傭兵です」
「傭兵!」
「はい」
「傭兵さんがラファル島に行くんですか」
「陸軍におりましてね。ラファル島には本土の歩兵連隊が輪番で三年ずつ駐留することになってるんですよ」
「へえええ、知らなかったなあ」
「案外知られてないですよね、軍隊が何をしているのかって」
「平和ですからねえ、アルソウムは」
「はい、良いことです」
イェビ=ジェミは笑ってみせたが、少しだけ胸が痛んだ。その平和なアルソウム連合王国の外では、アルソウムの軍隊が戦うこともあるのだ。今、自分の背中のある為替手形も、アルソウムの外で生命を落とした部下に支払われた最後の給料である。
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hagi
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hagi
2023年9月6日 19時40分
エスティ
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エスティ
2022年11月4日 19時03分
ジップ・zip7894
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ジップ・zip7894
2023年8月15日 22時20分
akiwoK
2023年8月16日 11時23分
ありがとうございます。スロースターターですがもうちょっとすると一気に加速します!
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akiwoK
2023年8月16日 11時23分
宇佐美ナナ
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宇佐美ナナ
2023年5月13日 17時51分
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「番茄トマト」「乾酪チーズ」、「ロバに塩を舐めさせる」「宿では人と家畜の両方に飲食を提起する」など細かな描写、表記が、御作のリアリティを増しているのだと、とても勉強になります。異国の風景や、旅の情景が目に浮かんできます。
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2022年6月8日 18時41分
akiwoK
2022年6月8日 18時46分
ありがとうございます。 ほんと細かいディテールにこだわるタイプで、自分でも呆れます(苦笑)
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akiwoK
2022年6月8日 18時46分
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