この日は峠を下りて三つ目の村に差し掛かった頃に日が暮れた。だが、一晩を過ごせるような場所は見つけられなかった。ここまで旅をしてきた尾根道の周りには山の兄弟が建てた小屋があちこちにあって、ブレイといる限りはそこを自由に使うことが出来る。だが、尾根道から下りてしまうと小屋は無い。ブレイの話では、尾根沿いにカリュベスを目指す道もあるというのだが、早さで言えばどうしても里の道に負ける。 旅籠のようなものがあれば、もちろんそこを使うのだが、道ですれ違った農夫たちの話では、宿はもう少し先に行かなければ無いらしい。では、多少の金を払うから泊めてもらえないかと頼んでみても、よそを当たってくれと断られるばかりだ。クレフェからアルカンに抜けるダスティ峠はまだしも商人の行き来があり、谷沿いに住む人々はよそ者が集落の中を通ることにも馴れていたようだが、この谷間を通る道は地元の人間しか使わないらしい。ヤファイ海賊の血を引いて彫りが深い顔立ちのイェビ=ジェミと、見るからに里の人間ではなさそうな服を着たブレイという二人組を泊めてやろうという家は、一軒も無かった。 イェビ=ジェミはブレイの横顔を見た。あまり困っているような顔には見えない。 「さあて、どうしたものかな」 「野宿しかないだろうね」 イェビ=ジェミの言葉に、ブレイはあっさりと答えた。 「野宿はしたことがある?」 「無い。危ないからね。山の兄弟は男でも野宿は滅多にしないよ」 一〇日前のイェビ=ジェミならば、この話を意外に感じただろう。山賊という言葉の響きからすると、いかにも野山を自由に駆け回って、気が向いた場所で野宿をしている連中というように思える。だが、実際には「山の兄弟」はそれぞれの縄張りを持ち、木や薬草や毛皮や鉱石や金属など山で得られるものを里の人間に売り、里の人間から米や布を買い、峠道を手入れし、家族を持って淡々と暮らしている、ごく普通の人々であった。だから、里に住むごく普通の人々が気軽に野宿などしないように、山の兄弟も気軽に野宿などしないのだろう。 一方のイェビ=ジェミは軍人をやっていたから、野宿の経験はそれなりにある。しかし、今までにイェビ=ジェミがやってきたのは、少なくとも一個分隊一〇人はいるような状態での野営ばかりだ。一人で野宿をしたことは無い。若い娘と二人で野宿をしたことも、もちろん無い。 どうするべきか。 まずは、集落から少し離れることにする。 「あそこを曲がると、こちらからは見えなくなる。まずはあそこまで行ってみよう」 「そうだね」 わざわざ説明しなくとも、ブレイにはイェビ=ジェミの提案の理由がわかったらしい。集落から見えるところで野宿の準備を始めれば、集落の住民から追い払われるかもしれないのだ。その上で、水が確保出来る平らな場所。ただし水場に近すぎると蚊が寄って来るから、多少は距離を取らなければならないだろう。 幸い、牧草地と牧草地の間の生け垣の脇のところに、集落と街道から死角になっている具合の良さそうな場所を見つけることが出来た。完全に平らではなかったが、頭の置き場所を工夫すれば眠れるだろう。地面は丈の高い草が生えているが、これは上から帆布を敷けば良い緩衝材になる。大きな石が幾つか転がっていたので、それは取り除く。水は牧草地の端を流れている小川から汲む。 あとはいつも通りである。 イェビ=ジェミが手早く薪を集めている間にブレイが米を研ぎ、適当な野草と干し肉を入れて粥にする。荷物を下ろされたロバは、その辺に生えている牧草を齧っている。イェビ=ジェミは、少し離れたところにある灌木の茂みに入って行って、適当な枝を数本、剣で切り落とした。この剣を使ったのは初めてであったが、イェビ=ジェミがこれまでに使った剣とは別物のような切れ味である。片手で軽く振るだけで、気持ち良いほどに簡単に枝が落ちる。 いつものように長めの枝を三本麻ひもで束ねて鍋を下げる三脚を作ってから、イェビ=ジェミはふと思いついて、それの三倍ほどの高さの三脚を作ってみた。ここから蚊帳を吊れば、寝ている間も蚊に襲われることは無さそうだ。その様子を見ていたブレイがくすりと笑う。 「頭いいね」 「もっと大きな布があれば、これにかけて天幕に出来るかもな」 「また野宿するつもり?」 「……あれ?」 多分、明日の夜はどこかの町の宿に泊まれるだろう。その翌日はカリュベスだ。もう野宿の機会は無い。だが、アレバ山までブレイを送って行くならば、もう少しましな野宿が出来る準備を整えておいても良いのかもしれない。 「でも、面白いな。その中で寝てみたい」 「そのうち作ってみるよ」 「ありがとう」 思わずイェビ=ジェミはブレイを見た。本当にそんなものの中で寝るつもりなのだろうか? ブレイはもうこちらを見ていない。ヒグラシの鳴き声が聞こえる。 この日の夕食もまた、一つの鍋を分け合って食べた。粥の中身も毎日三食、ほとんど変わらない。先を急ぐ旅だから、あるものを食べられる状態にして食べるだけなのだ。だが、そろそろ持ち合わせの食料も底をついてきた。明日にはどこかで食料を調達しなければならないだろう。 食事を終えて鍋を洗い、ついでに口をゆすいで身体を拭くと、ブレイは三脚に吊られた蚊帳の中に潜り込んで、あっという間に寝てしまった。日没からは二時間ほど経っている。東の山の端から現れた満月が、少しずつ北の空へと動いてゆく。今日の夜空には雲一つ無い。 蚊帳がぼんやりと白く見えていた。イェビ=ジェミは武器類を両手に持って、そっと蚊帳の中に入った。ブレイはすやすやと寝息を立てている。短銃に火薬と弾が装填されているのを確認し、撃鉄は起こさないまま銃口を外に向けて、蚊帳の出来るだけ隅に置く。それから剣と短剣と並べて右手の脇にそっと置いた。鍔飾りが触れ合って微かに音を立てた。 突然ブレイが思い切り脚を伸ばし、寝返りをうった。 起こしてしまったのかと思ったが、そうでもないようだ。 ふと、イェビ=ジェミは悪戯心を起こした。今、ブレイの頬に触れたら、ブレイは目を覚ますだろうか。もしもブレイが目を覚ましたならば、何を言うのだろうか。 このままずっとブレイと二人で旅を続けていくのも良いな、とイェビ=ジェミは思った。何故そんなことを思ったのだろうか。自分でも不思議だった。イェビ=ジェミはそのまま横になって目を閉じた。 翌朝は日の出の瞬間に、二人とも目が覚めた。なにしろ日光を遮るものが無い場所で寝ていたから、眩しいのだ。そして、暑い。どちらも山の中での宿泊では経験しなかったものである。そそくさと蚊帳をたたみ、焚き火の跡を始末して街道に出る。朝食は歩きながら、適当に干し肉や果物をかじるだけだ。あまりのんびりしていると牧童が家畜を連れて放牧地に来てしまう。そうなれば揉め事が起こらないとも限らない。今は揉め事に巻き込まれている時間は無い。 イェビ=ジェミがブレイに声をかけた。 「昨日はよく眠れた?」 ブレイは空を見上げながら答える。 「うん。ああいうのも悪くないね」 それだけのやりとりだった。ブレイの横顔からも、口調からも、何の表情も読み取れない。だが、イェビ=ジェミはほっとしていた。屋根のないところで野宿する羽目になったのも、ゆっくり朝食を食べる暇も無く出発したのも、自分のせいのような気がしていたからだ。
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エスティ
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エスティ
2023年3月6日 15時26分
ムルコラカ
イェビ=ジェミとブレイの微笑ましいやり取りも相変わらず良いものですが、いよいよイェビ=ジェミが持ってきた剣に話が及んできましたね。今後の展望が楽しみです。
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ムルコラカ
2022年6月29日 17時59分
akiwoK
2022年6月29日 18時54分
主人公に似て地味で控えめな魔剣なのでなかなか発動しないんです(笑)
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akiwoK
2022年6月29日 18時54分
かぶき六號
ビビッと
877pt
2022年6月29日 16時52分
《ふと、イェビ=ジェミは悪戯心を起こした。今、ブレイの頬に触れたら、ブレイは目を覚ますだろうか。もしもブレイが目を覚ましたならば、何を言うのだろうか。》にビビッとしました!
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かぶき六號
2022年6月29日 16時52分
akiwoK
2022年6月29日 17時07分
ほんとにやったらせくはら!
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akiwoK
2022年6月29日 17時07分
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道具は良いものを使いたいですよね。木を切るのにも抜群の切れ味の剣とか……って、なんとも贅沢な使い方!
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2022年8月2日 19時07分
akiwoK
2022年8月2日 20時57分
これ、イェビ=ジェミは剣は消耗品だと思ってるんですよ
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akiwoK
2022年8月2日 20時57分
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2022年8月2日 19時06分
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