アルソウムの双剣 The Swords of Arthoum

読了目安時間:6分

エピソード:72 / 126

一四一八

 南極星は、ギベオン神話の中ではそこまで重要な神ではない。普通は神殿の中にも単独の祭壇は築かれず、中央の汎神祭壇にまとめて祀られているような神々の一柱だという。この像があるのは王宮前広場の南端だったから、単にこちらが南という目印として置かれているのかとも思ったが、どちらが南かなど、わざわざこんな巨大な銅像を置かなくてもわかるだろう。ブレイは山で育ったから、町のことはよくわからないが、それでもこれはかなり不自然なことに思えた。 「ガイ、南極星像って他の町で見たことはある?」 「いや、無い」 「他の町の広場にはどんな銅像があるの?」 「そうだなあ、カリュベスの広場にあったのは昔の王様の銅像と、イサビスだったかな?」 「イサビスってお酒の女神だっけ?」 「収穫とお酒」 「カリュベスって他にも小さい広場に何か建ってたよね」 「アデュアとオトラルは見たかな」  アデュアは医術の神、オトラルは旅の女神である。どちらも人気がある神様だ。 「何でこんな大きな南極星像があるんだろう? ここ」 「台座に何か書いてあるね」  既に辺りは暗い。  イェビ=ジェミがしゃがみ込んで、台座に顔を近づけた。 「一四一八年、だってさ」 「それだけ?」 「ああ」 「何のことだろう?」 「たしか王宮がゼルワに移ってきたのが一四一八年だったはずだよ」 「なあんだ」 「これはその時に建てられたんだろうね」  二人は改めて南極星像を見上げた。  透き通った花紺青色の空を背景にして、像は黒く沈んでいる。唯一、両手に捧げ持った油燈からの光が青年の顔を鈍く照らしている。 「そろそろ戻ろうか」  イェビ=ジェミがブレイを促し、二人は鋳掛屋通りに向かって歩きだした。  ふと思いついて、ブレイは夫の右腕に自分の左腕を絡めてみた。町の女たちがやっているのは今まで散々見てきたが、自分がやるのは初めてである。これならば、自分から腕を外さない限りはイェビ=ジェミと離れることも無いだろう。  ブレイは少しだけ達成感を感じている。  二人が銀陽亭に戻った頃には、レオン通りにも夜の帳が下りていた。  店は定休日なので、客は居ない。ファイスがフラビアに何か料理を習っているのが見える。ファイスは故郷にいた頃に母を手伝って料理もそれなりにやっていたらしく、包丁の扱いもそつがない。だが、里の魚に苦戦するところはブレイと同じのようだ。店に戻ってきたブレイとイェビ=ジェミに気がついたファイスが、照れたような表情を浮かべた。 「コイを捌いてるんだ」  見ると、昨日まで中庭の水槽で残飯を食べていたコイが首を落とされて二枚におろされている。まな板の周囲には鱗が飛び散り、ファイスの頬にも鱗が一枚ついていた。  ブレイとイェビ=ジェミを見比べたフラビアが、にやりと笑う。 「仲が良さそうだね」 「夫婦だもの」  ブレイが澄ました顔で切り返す。イェビ=ジェミは曖昧な笑顔でしのいだ。 「それにしても、ずいぶん遅かったじゃないか」 「本を買った後、樽屋横丁というところに寄って、そのまま王宮前広場まで行って帰ってきた」 「樽屋横丁? 葡萄棚かい? なんでまたそんな危ないところに」 「人探しに行った。あそこは危ないの?」 「まあ、そこの傭兵さんが一緒なら危なくはないだろうけどさ。綺麗な身なりの若い娘が一人で行くとこじゃないよ」 「あそこはどういうところなの?」  フラビアは微苦笑を浮かべ、一言「貧民街」とだけ答えた。  イェビ=ジェミが尋ねた。 「何であんな場所に貧民街があるんでしょう?」 「それは私にもわからない。とにかくあそこは昔から、ゼルワに流れ着いた文無しが最初に腰を落ち着ける場所なのさ。家賃が安いからね。あそこをねぐらにしてクズ拾いとか日雇いの仕事をやって、そこそこの元手を貯めて、もっとマシなところに移る。私も最初はあそこに世話になったよ」  イェビ=ジェミとブレイは顔を見合わせた。いまやゼルワの下町で知らない者の居ない「魔女の婆さん」にも、そんな時代があったとは。イェビ=ジェミが更に尋ねる。 「俺たちはなんだか警戒されてた感じですが」 「色々な事情を抱えた連中がいるからね。人に見つかりたくないってやつは多いさ。あそこ、表札も番地も無かっただろ?」 「はい」 「あれもわざとなんだよ。どんなやつがどこに住んでいるのかは、誰にもわからないんだ。住んでるやつも二ヶ月か三ヶ月もすればどっか出ていっちゃうしね」 「じゃあ、あそこでの人探しは難しそうですねえ」 「だろうね」  フラビアは厨房の台に頬杖を付きながら呟いた。  昔のことを思い出しているようでもあった。  翌日は雨だった。イェビ=ジェミは朝食の麺餅を昨晩の残りの野菜の煮込みに浸けて手早く流し込むと、蝋を引いた帆布の外套を着込んで出かけていった。腰にはあの双剣がある。仕事なのだ。  ブレイは店の傘を借りて、外に出た。ナツメ書房に行ってみるつもりである。  フラビアはブレイが傘を持っているのを見て一言「気をつけな」と言っただけだった。  レオン通りの石畳の上を濁った雨水が流れてゆく。道の中央部が凹んでいるから、雨水はそこに集まり、小川のような流れをつくる。まるでダスティ峠の峠道のようだなとブレイは思った。  ブレイはカルム大通りではなく城壁に向かった。城壁の上の道を歩いていると、故郷の尾根道を歩いているような気分になれるのだ。増水して溢れそうになっている水路を飛び越え、勢いをつけて土手を駆け上がる。二回ほど濡れた草で足が滑ったが、なんとか転ぶこともなく城壁に上がることが出来た。  ゼルワの南側に地平線まで広がる枯れ田は、あちこちに雨水が溜まって沼のようになっていた。白い大きな鳥が十羽ほどの群れをつくり、そこここで餌をついばんでいる。ブレイは見たことがない鳥だ。鳴き声はカモメほど高くはなく、鴨ほど低くない。寒い地方の鳥なのだろう。きっとダスティ峠までは飛んで来ないのだ。  風は北から吹いている。これが南風ならば雨ではなく雪になっていたはずだ。二ヶ月前に夫とファイスと三人で越えてきた北の高原の道を、ブレイは思い出した。あの銀杏の木には雪が積もっているかもしれない。  城壁の上を歩いているのはブレイだけだった。雨粒が風で揺れているのが見えた。傘に当たる雨粒の音が、まるで森の木の葉に当たる雨粒のように思えた。  アレナ通りまでは半時間ほどで着いた。ナツメ書房は店先の雨覆いを地面すれすれまで下ろしており、中は薄暗かった。ブレイが入っていくと、店主は少しだけ意外そうな顔をした。 「おや、奥さん、一人かい?」 「ガイは仕事に行ったみたい」 「ああ、売れっ子だもんな。こんな日にも仕事かあ。大変だね」 「でも、軍隊の演習より全然マシだって笑ってた」 「雨の中で何をするんだろうねえ、軍隊は」 「泥んこの中で隊列を乱さずに動く練習だって」 「大変なもんだね、軍隊ってのは」 「もう戻りたく無いって」  ブレイの言葉に店主は吹き出した。 「それで、昨日は何かわかったかい?」 「教わった住所に行ってみたんだけど、荒んだ感じの場所だった」 「あの辺は危ないっていうよね。大丈夫だった?」 「うん。でもヤクスさんの家は見つけられなかった」 「やっぱりかあ……」  店主は残念そうな顔をした。傍らには昨日の写本と虫眼鏡、そして倒れないように大きな重りを付けた油燈が置かれている。何かを書きかけの紙も広げられていた。

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  • 男戦士

    ムルコラカ

    ♡1,000pt 2022年8月7日 13時44分

    王宮移転の年に建てられた巨大な南極星像。それほど人気が高くはない神の像をなぜわざわざそんな記念の年に建てたのか。これは何か裏がありそうですね。

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    ムルコラカ

    2022年8月7日 13時44分

    男戦士
  • 男盗賊

    akiwoK

    2022年8月7日 21時07分

    誰がこんなものを建てたのか、というところが謎です。めっちゃお金かかりますから。

    ※ 注意!この返信には
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    akiwoK

    2022年8月7日 21時07分

    男盗賊

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