音がない世界、音しかない世界。

第1話

音ばっかりな世界

 けたたましい金属音を響かせ、電車が停止した。 華音はプラットフォームを歩きながらスマホの音量ボタンを4回押し、付けていたイヤフォンをグッと押し込み、それ以上耳が塞げないのを確認した。 自分の耳だけに流れる音楽は酷い音量だったが、それによって周囲の無数の音が消え、女性シンガーの透き通った美声とピアノ、ドラム、アクセントの管楽器だけが世界に残った ‥というわけではなく、相変わらず半径数メートルの音は聞こえたままである。 テストが散々だったらしい女子高生の話し声、08時10分に到着する電車のアナウンス、通話中の青年がだるそうに声を荒げて、あ、今誰かが軽く悲鳴をあげた。足を踏まれたのだろうか。遠くのものはガヤガヤ、ザワザワという音になって律儀に耳から侵入し、脳を刺激する。 これ以上音量を上げると音楽の方が負担になるので、そのまま歩き続けた。これでも耳が剥き出しの時よりは随分楽だった。 聴覚過敏。 その言葉を知ってる人は、どれだけ居るだろうか。 音が聞こえすぎる。そんな能力を持つキャラクターは物語によく出てきて、得意げに微細な音を聞き分けてなんやかんやと活躍している。 しかし、それは所詮物語の設定である。 全ての微細な音を聞き取れる、それは「常に全ての微細な音を聞いている」ということだ。 音は耳から伝わり脳で処理をする。一分一秒休みなく、他人より莫大な量の情報を脳で処理し続けないといけないなら、まして、音が常に数倍の大きさで不快に聞こえるなら、それを負担に思わない人は居ないだろう。 聴覚過敏とは、そういう人達のことだ。 そして、華音もその1人だった。 *  改札を抜け、青空と巨大パネル付きの高層ビル、活発に行き交う乗り物や人々に溢れた、駅前の景色が視界に飛び込んでくる。華音は大通りで信号待ちをしている人達の群れを横目に、左に逸れて小道を歩いていった。その道を進んでいくと、次第に左右を緑が囲んでいく。右側では車道と歩道を分離する木々が立ち並び、左側は大学の敷地を取り囲む塀が続き、それをツタや低木、様々な植物が彩っている。人通りは少なく、大学の校風にそぐう落ち着いた風体の学生がちらほら歩いているだけだった。  華音はこの小道を気に入っていた。普通の人なら静かだと感じるが、彼女にとってはもちろん静かではなかった。しかしごちゃごちゃせず、落ち着いていて、綺麗な騒がしさだった。虫の音や鳥のさえずり、風が抜ける音、車もたまに通り過ぎていく程度。攻撃性が取り除かれた音達は、緑豊かな景色をより一層綺麗に魅せた。  華音は正門から敷地に入り、すぐそこにある大学図書館へ足を運んだ。ガラス張りの自動ドアが開いて、クーラーの冷気が一気に体を包み込む感覚が気持ちいい。歩きがてら本棚を見渡し、何冊か本を抜きながらいつものように自習室へと向かう。夏休みでも人が少ない訳ではなかったが、みんな静かに自分の作業に没頭していた。  この図書館は吹き抜けの4階建てで、1階の真ん中に広々とした自習スペースが設置されていた。しかし4階にもう1つ、教室の半分ほどの小部屋がひっそりと佇んでいる。大きな机とそれを囲む椅子があるため、元々は予備の自習室として作られたものなのだろう。そこに来る人は滅多に居ないため、華音は静かに勉強できる隠れ家として気に入っていた。 コツコツと厚底サンダルのかかとを鳴らして階段を上がり、書架を抜けて小部屋のドアを開けると、華音は危うく悲鳴をあげそうになった。人が居たのだ。 別に居ても変ではないのだが、ここで自分以外の人を見たことがないために今日も当然無人と考えていたのだ。  一瞬固まり、驚いたままの心臓を落ち着かせ、何事もなかったかのように机へ向かった。 先客の男子生徒の向かいで荷物を下ろすと、彼はハッと顔をあげて、ニコッとお辞儀をして、また机に目を落とした。華音もぺこりと頭を下げ、椅子に座り、ノートを開いた。 ──違和感を感じた。 というのも、その男子生徒は華音が目の前に来て初めて、その存在に気付いたかのように驚いたのだ。 それなりにカチャンという音が響くドアを開け、閉めた時点では気づかなかったのだ。 華音は思考を巡らせながら、何気なく目線を前に向けて、男子生徒をまじまじと見つめた。 綺麗だと感じた。 綺麗な人だ、ではなく、綺麗だと感じた。 彼の容姿が綺麗と言うより、その滑らかな仕草や落ち着いた風体、1点に全ての集中を注いだまっすぐな目。それらが彼の周りの空気に溶け込み、そこだけ世界が凪いでいるようだった。 特別に整っているという訳ではなく、普通の顔立ちだ。耳に少しかかるダークブラウンの髪と、白いTシャツ、茶色いツルツルとした革ベルトの腕時計。シンプルで清潔感のある、女子人気の高そうな風体だ。 そんなことを考えながら見ていると、男が顔を上げ、はたと目が合った。我に帰った華音は、あたふたしながら会話で誤魔化そうとして言った。 「えっと、よくここに来るんですか?」

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