花街妖物語

第六幕 旦という男

 全が店に出なくなっても、太田屋はつつがなく営業を続けた。日頃全の指導に鍛えられた店子達は、万全とは言えないものの、普段通りの営業が出来るまでには店を維持していた。  程無くしてひょっこりと店に戻ってきた旦は、全の様子を知るや否や、普段の放蕩ぶりが嘘のように真面目に主人としての職務に従事した。しかしその雰囲気にはどこか棘があり、それは全の不調の原因が店子や遊女の不始末ではないかと疑っているようでもあった。  心中騒ぎは、不思議な事にあれからぴたりと止んでいた。それでもいつまた心中が起こるやも知れぬ、と吉原の住人達の不安が完全に消え去る事はなかった。  誰もが内に疑心を抱えたまま。今日も吉原の一日は過ぎ去ろうとしていた。 「お茶をお持ちしました、旦様」  仕事部屋の前で、涼一は中に向けてそう声をかけた。いつもは全が使っているこの部屋は、今は旦が代わりに使用していた。 「ご苦労様。入って」 「失礼致します」  涼一が障子を開けると、旦はゆったりとした姿勢で煙管(キセル)を吹かしていた。今は外出は控えている旦だが、遊び人然とした風貌はいつものままだ。  文台に湯呑みを置いて茶を注ぎ、早々に部屋を出ようとした涼一だったが、不意に袖を旦に引かれる。振り返ると、旦は口元に優雅な笑みをたたえて言った。 「そう急がなくてもいいじゃないか。たまには私と話でもしないかい」 「……色々と雑務がありますので」 「そんなものは他の下男にでもやらせておおきよ。それとも全の命令でなければ聞けないとでも?」  仮にもこの太田屋の主人に、そう言われてしまっては断れない。涼一は仕方無く、黙ってその場に座した。  旦はまるで話を始めるのを引き延ばそうとするように、ゆっくりと茶を啜る。その沈黙が、涼一には酷く居心地が悪かった。 「――お前、全が閉じこもるようになった前日、全と外に出たらしいねェ?」  ……来た。背筋に軽い寒気を感じながら、涼一は思った。  この事を追及されないよう、旦が戻ってから涼一はなるべく旦を避けていた。しかし今日は旦に茶を差し入れるのに、手の空いていたのが涼一しかいなかったのだ。 「……はい。相違ありません」 「その時、本当に何もなかったのかい? 例えば……どこかの駄犬が悪さをした、とか」  そう言った旦の目が、すっと細まる。口元は変わらず笑みを浮かべているが、目はけして笑っていない。  元より旦は、半ば全の専属に近い形で働いている涼一を快く思ってはいない。普段は人目があるので涼一にも人当たり良く接するが、こうして二人きりになれば、内なる敵意を隠そうとはしなかった。 「……行きがけに、心中のあった川の(ほとり)を通りました。それ以外は、何も」 「ふゥん……」  涼一の返事に、旦は面白くもなさそうに煙管の煙を吐いた。そして天井へと散っていく煙に視線を移し、呟いた。 「麗羽ねェ……あれもいい女だったけどね」 「……旦様は、麗羽をご存知で?」 「勿論。私は麗羽の客の一人だったからね」  意外な告白に、涼一は思わず旦を凝視してしまう。まさかこんなにも身近に、麗羽と関わりのある者がいたとは思ってもみなかったからだ。 「いい遊女(オンナ)だったよ、麗羽は。うちに引き抜きたいと何度も思ったぐらいさ」 「そう……だったのですか」 「もっとも、生きていたにせよ今頃はもうこの吉原にはいなかっただろうがね。……彼女、身請けが決まっていたんだよ」 「え?」  更に続けられた言葉は、より涼一を驚愕させた。身請け。それは遊女が年季が開ける前に吉原を出る、唯一の方法。  身請けされても元が遊女であれば辿る道は日陰の道が運命(さだめ)だが、それでも遊女は皆、懇意になった男に身請けされる事を願う。どのような形であろうとも、好いた男と添い遂げる。それは遊女となった女の悲願でもあった。  けれども必ず好いた男に身請けされるとは限らない。寧ろ金払いのいいだけの上客の妾として身請けされる方が、実際には遥かに多かった。  身請けの是非を決めるのは遊廓。遊女にその決定権はない。なれば、身請けを前に自ら命を絶った遊女がいるとすれば、それは。 (――麗羽には、他に想う者がいた)  そう考えるのが一番自然だと、涼一は思った。同時に、今までの事が総て腑に落ちてくる。  好いた男と結ばれる道を断たれ、一人川に身を投げた麗羽。しかしその未練は今も現世に残り、自分と同じように浮世では実らぬ恋をした女に取り憑き、己には果たせなかった心中をさせる事で未練を晴らそうとしているのならば。  ならば――今麗羽が(・・・・)取り憑いているのは(・・・・・・・・・)。 「ここに居たのか、涼一」  その結論に辿り着いた時、突然涼一の背後から声が聞こえた。今は――今だけは、涼一がなるべく聞きたくないと思っていた声。 「……全様」  振り返った涼一の視線の先には、自室にいた筈の全がいた。まともに食事も摂っていないのだろう、元々細い手足は更に細く、骨と変わらないまでに見える。 「全? 具合はもういいのかい?」 「ああ。悪いがちょっと涼一を借りてくぜ、大事な話があるんだ」  そう旦に返した全に、涼一は違和感を感じた。正確には、全の目だ。  旦を見つめるその目には、夜の闇よりなお昏い、地の底で蠢くようなどす黒い何か(・・)が渦巻いていた。 「……っ」 「来い、涼一」  全の手が、涼一の手を掴んで引く。それはその細腕に似合わぬ、有無を言わせぬ力であった。 「……畏まりました、全様。旦様、それでは」 「ああ。全にこれ以上何かあれば……解っているね?」 「……はい」  鋭い目で二人を見つめる旦に会釈を返し、涼一は全に連れられ部屋を出た。

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