平凡な学院生活だった。
むしろそれを望んでいた僕にとって、これは好ましいことだ。
安寧の日々は学生時代にしか味わえない特権であり、この場にいるという言語では言い表せない何か、幸福?などのほわほわしたこの感覚は、今でしか味わえないものであることは実感している。
こんなろくでなしの僕にも、友人ができた、幼馴染はたびたびこちらを訪ねてくれる。
ジャックは僕に良く仕えてくれており、ちょっと困った癖以外は彼女のことを不満に思うことは無い。
それなりに充実した毎日、しかしながらやや物足りないような、学生生活に良くありがちと言われる、空虚感を感じる現象。
これに名称は無い、ブッダがこの世界に疑問を持ったように、これもその1つなのだろうか。
かの有名人と私が同じ悩みを持っているとは口が裂けても言えないが、それでも、そんな空気感は私に蔓延していた。
そんな学生生活、しかし不穏な気配は、すぐそこまで来ていたのだ。
それに、学院の誰もが、気づくことは無かった。
僕としても、あれは本当に強烈な体験だったし、あまりにそれはリアリティが無さすぎた。ら
◇◇◇◇
空気が震える。
そんな感覚を知っているだろうか。
人の死に目に会う時、空気が震えるような感覚を味わった経験があるという者もいる。
病院で、身内の、親しい友人の心臓の音が聞こえなくなった瞬間。
あの時空気は震えるのだ。
良くありがちで安っぽい恋愛ドラマで人の死を描くとき、人はそれを『音が止まった』と表現する。
しかしそれは全くの間違いだ、音は止まらないし、むしろ外は騒がしく動き、車のクラクションの音は今でも明確に、脳裏に焼き付いている。
人は強いショックを受けた時、空気は震え、音は、増加するのだ。
ということはだ、大剣を構えた少年が、唐突に学校に侵入して剣で斬りつけて来たら、どれだけの震えが走るだろう。
戦鎚を構えた大男がそれを目の前で振りかぶれば、どれほどの衝撃が走るだろう。
ムチを持った女とそれに着く男達が現れればどれだけ空気が変わるのだろうか?
恐らく、ふつうに暮らしていれば、ともすれば一生経験することが無いと断言できる光景。
ここから先を経験しない方法も簡単だ、回れ右をして逃げれば良い。
無論、できればの話ではあるのだが。
想像したことがあるだろうか?
平凡な日常、そこに乱入してくる犯罪者。
そこに描かれるのは、『それ』を格好良く倒す自分の姿だ。
武術もしたことの無い自分が、が目にも止まらぬ動きで敵を倒していく様子。
犯罪者を全員倒し、クラスのみんなから「実はアイツってすげぇ奴なんだ」と認められるということを妄想する。
それこそが幻想であると、目の前の現実は証明していた。
「イヤァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!!!!!!!!!!」
「だ、誰か!誰か助けてくれぇぇぇぇぇぇ!!」
「先生が!先生が!あいつらに!」
「し、侵入者だと!?そんな馬鹿なことがあるのか!ここは魔術学院だぞ!」
「ええい!警備は何をしているのだ!早く僕を守れぇぇ!」
「あ、あぁ!ニコラス先生は一体何をしているんだ!?」
黒いフードを被った男たちと、止め処なく来る叫び声。
神聖なる学び舎に来た襲来者は、それぞれが気ままに、自分勝手に暴れていた。
だが、それを止めようとする者も当然現れる訳で。
それは、学院の生徒たちが中心だった。
たまたま、教授の知り合いが多いのは、気のせいだろう。
「貴方なに!?今日はせっかく休日で、幼馴染に会いに来たってのに!!!!!!邪魔しないでよ!」
「あらぁ、恋人に会いに来たの!?お姉さんその辺の話は詳しく聞きたいわ〜!」
「聞かせる気はありません!私は王国騎士団の1人!貴方を倒します!」
「ボクは、ボクは君を殺さなきゃいけない!君を守らなきゃいけない!君をグチャグチャにしてあげなきゃいけない。君の髪を綺麗に整えなきゃいけない!君をすり潰さなきゃいけない!君を愛さなきゃならない!」
「なっ、なんですかこの人は!?」
「まったく、この学院には絵の材料としての価値しか無いんだけどねぇ〜退屈しないなぁ。」
「・・・・」
「何も言いませんか、残念です。ですが、ここから先は主の居場所です。私は従者として、ここを通すわけには行きません!!」
そこは、図書室だった。
1人の老婆が、ひっそりとその図書室を滑るように歩いている。それはまるで懐かしむように、それでいて憎むように、老婆は図書室にある本と本の間を歩いていた。
「禁忌の魔術の本、確かこの奥にあるはず!!」
そう言いながら、老婆、いやアルメアは、図書室の更に奥へと入り込んだ。
彼ら3人は囮だ、彼女の、いやガラゾフの真の目的はこの奥にある禁忌の本だった。
人を生贄にして異界の門を開く禁忌の実験、それを記した書物。
永遠の命を求める求道書
悪魔の召喚書。
勇者の召喚方法。
その奥に、アルメアが、組織が求める本があった。
奥の部屋には、厳重な警備と鍵があるが、アルメアの能力の前には関係が無い。
まるで空気のように、ドアをこっそりと空けて中に入り込んでいく。
アルメアの職業は『暗殺者』である。隠密こそ彼女の得意技であり、その正体は長年共に生きたガラゾフしか知らない。
彼女はこの職業のせいで両親に見捨てられ、王国から犯罪者予備軍として殺されかけた過去がある。
それから彼女は死んだふりをして逃げ、その後独学で暗殺を学び、自らを捨てた両親に、自分を迫害した者達全員に復讐を果たした。
その後は顔を変えてガラゾフの野望に協力している。
ガラゾフを除けば、組織最強。その秘密が彼女のその暗殺術にはあった。
だが
「ふむ、ニコラス様に禁忌の本の閲覧を許されたから読んではいるが。いかにも人が不道徳と断ずるようなものばかりだな、くだらない。」
「お主、何者じゃ!?」
アルメアは、次の瞬間己のミスに気づいてしまう。人がいても関係無かったのだ、そのまま隠密を続け、邪魔であれば殺せば良かったのだ。
だが、姿を見られてしまった以上、話しかけてしまい声を知られた以上、王都に住む彼女は彼を生かして帰すわけには行かなくなった。
(禁忌の本の閲覧を許されておるということは彼の相当なお気に入り、実力はあったろうに。可哀想に、お主はここで死ぬ。)
アルメアは反射的に目の前の青年にナイフを投げていた、脳天へ、苦しまずに。殺す。
アルメアの、唯一残った慈悲である。
そんなものは不要わけなのだが。
次の瞬間、彼の脳天に刺さる筈だったナイフは、影も形も無く消え去った。
「殺意もある敵か、仕方ない。読書中だが、哲学の講義を始めよう。」
◇◇◇◇
「キェェェェェェェェェェェェェェイイイイイ!!!」
気合いと共に、老婆の体から複数本のナイフが放たれる。だがそのナイフは一本たりとて教授には届かない。
「ご婦人、貴方は誤解というものを知っているだろうか?」
アルメアは聞かない、すぐさま次に教授を殺す作戦を思いつき、これを実行に移す。
「人間は誤解する、人と人が喋る際には言葉を用いるが、それが近くても遠くても人はそれを誤認する可能性がある。」
それは、聴覚という不確かなものを頼りに人と人がコミュニケーションをとっているからだ。
それは人間が神に似せて生まれたなどという戯言を拒否できる程度にはあまりにも不完全な伝達方法であり、おかげで言い間違いや聞き間違いが元で起こる喧嘩や人殺しは良くあることだ。
雨、空気の不全、これによって言葉というコミュニケーションはあまりに容易く阻害されてしまう。
これによって人は誤解する。
誤解の範疇は、当然のことながら聴覚だけでは無い。触覚だってそうだ。目覚まし時計を探す寝起きの男は、いつまでも時計をもぞもぞと探すだろう。
やっと見つけた時計が全く違うものかも知れない。
それは、教授には関係の無いことだ。
だがそんな誤解という名のなにかは、目の前にいる婦人には多くの影響を残すだろう。
「なっ!なんだいこれは!」
アルメアはふと、自分の体が重くなっていることに気づく。
そして自分の服を探って始めて気づいたのだ、自分が隠していたナイフが全て本に変わっていることに。
「フム、面白い。貴方が持っているのは」
『ある創造主』
『君の名前は』
『天気の子供達』
『マスカレード・ホテランド』
『魔導男子!』
『カルヴァ、学院辞めるってよ。』
『バリー・ボッダーと賢者の石』
『ありがとう』
『朝顔』
「いずれも歴史に名を残す有名な叙述詩、物語たちだ。センスがいいらしいな。」
「ば、馬鹿にするなぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
アルメアは激昂し、教授に飛びかかろうとする。
「誤解だ、それは僕では無い。」
「な、なぁ!?」
アルメアは、そのまま本棚に激突してしまった。
数秒前まで、当たり前のようにこの場にいてアルメアに話しかけていた教授は、アルメアのナイフがあたる数秒前、まるで霧のように消え去っていた。
速さで避けた?否!
技術で避けた!?否!
体全体に伝わる衝撃、今まで殺し屋として、暗殺者として数々の命を消してきた。
その対象は、人間、亜人、魔族。
誰でも構わない、人種や性別で差別など彼女はしない。
やるかどうかは彼女の思惑次第、それと金次第だった。
殺せなかった命など、彼女には存在しなかった。
その自負心が、心が、折れようとしている。
彼女の技は子供扱いだ、これからも永久に教授に届くことは無いだろう。
彼女の体術はナマケモノよりも遅い、これから恐らく、死ぬまで彼女は教授の虚像を蹴ることはできても、真実を蹴ることはできないだろう。
その域に、彼女は才能的にというか、感覚的に絶対に届き得ないということを、彼女はその身に受けた経験からわかってしまっていた。
この感覚は、この恐怖は、戦熊やホブゴブリンが受けたものとは違う。
なまじ彼女がこのような域に近づいているが故に、永遠とも言える距離を悟っただけのことなのだ。
そして、そんなことに耐えられるほど、人間というものは強くは無い。
そんな常識的なことが、アルメアにも当てはまった。
「終わりです、誤解とは、言葉を尽くさなくては解けないものであり、そこにあるのは猜疑心。」
「人は間違える、それから大事なのは、それを認め、修正することができる力だ。自らが誤っている、そう思うだけで今回の僕のまやかしは解けた。」
無知の知、という言葉が哲学には存在する。
それは、古代ギリシャの哲学者であるソクラテスの、「知らないことを自覚する」という哲学の出発点に向かう姿勢を簡略して表現した言葉のことで、別名不知の知とも言う。
何が一番大事な事なのか、何が真理なのか、ということについては、私も、彼らも、ともに分かっていない。
分かっていない、というのは同じである。ところが彼らは、分かったつもりでいる。
しかし私は、分かっていない、という事を自覚している。とすると、私は、自分の“無知”を知っている、という点では彼らよりも知恵者であるらしい。
この考えは、無知の不知の基本的な思想の1つである。
それが、彼女には理解できなかった。
今回の悲劇は、その程度の話なのだ。
「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぐぅぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁ!!!!!!!!!!!」
それは、教授が見てきたどんな声よりも大きい、彼女の叫びだった。
泣き叫ぶように、彼女は教授を殺そうとこちらにかかって来る。
そんな彼女に対して、教授は大した感動を示さずに。
それをまるで当然と言うかのように、手をゆっくりと振った。
次の瞬間、彼女の身体はガラスのように、美しく壊れた。
ピキピキと、まるで水が氷になるようにガラスになった彼女は、そのナイフが教授の肩に触れた時点で、その衝撃で割れてしまったのだ。
「人という存在こそ、神が起こした誤解の産物なのかも知れないな。」
ガラスのように美しく散った彼女の破片をその身に浴びながら、教授は1人、そう言っていた。
一筋のガラス片が教授の頬に当たり、そこに一筋の傷をつける。
それは、彼女の執念だったのだろうか、否、教授の慈悲だった。
教授は、頬にできた血の筋をぬぐいもせず、顔を上げてガラス片を全身に浴び続ける。
それはシャワーのように、そもすれば雪のように、美しく教授の全身を覆っていた。
教授は、このような方法で無くとも彼女を殺せた。
覚悟して来て、自らを殺そうとして来た彼女。頬に傷を負ったのは明らかに教授のミスと言えよう。
だが教授に反省するような心は無い、あるのは、おかしいなという不可解な想いだけである。
また、それとは別に教授にはある感情があった。
怒りである。
女性を殺す羽目になったから怒っているのか?
それは否である、教授は別に男女という区別は無い。
というより草花と人間をイコールで考えるほど教授は人間全てを同価値に見ている。
とはいえ、生命体の集団に属する以上、親愛の情や、家族の愛などを理解していない訳では無いし、教授はむしろそれを愛している側の人間だ。
だからこそ、教授はそれにも戸惑いを見せていた。
なんというか、これを仕掛けた人物がいる気がする。
その人物は、酷く性格が悪い。
教授が思ったのは、その程度のことである。
読みかけの本を閉じ、教授は図書室の扉を空けて外に出た、
図書室という沈黙を尊ぶ場所にはまるでそぐわない悲鳴が、次の瞬間彼の耳に届いた。
ここは既に図書室では無く、そこを出た廊下であった。
「イヤァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!!!!!!!!!!」
「喧しいな。一体、何が起こっているのだ?」
復讐者達、それがこの学院に襲いかかって来たことに教授が気づくのは、もう少し先の話。
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