僕の青。薔薇の青。きみの青。

焼きリンゴの研究

 キッチンに着いたら、すでに下準備ができていた。シナモンにハチミツ、カルダモン、干しぶどう、バター、そしてリンゴ。テーブルの上にそれらの材料がきちんと並び、僕たちを待っていた。 「先生はまずそのりんごを洗って、そこの芯抜きで、芯をくり抜いて」「オッケー」レシピを見ながらのユミパティシエからの指示で、作業に取りかかる。この家のキッチンは広くて使いやすい。  くり抜いたリンゴの芯はスーパーのビニール袋に入れる。作業途中で出る細かなゴミも、その都度そこにまとめておく。面倒だったが、こうしておくとあとの片付けが楽になる。  左手に持ったリンゴのつるんとした表面に、右手のフォークの先で万遍なく穴を開ける。オーブンで焼いている最中に皮が割れにくくなる効果があるらしい。  リンゴの中に詰める具材はユミパティシエの担当だ。オーブンで溶かしたバターと砂糖、ハチミツ、干しぶどうをよく混ぜ、ちょっぴりのカルダモンと多めのシナモンを加え、さらによく混ぜる。  白い耐熱皿に赤いリンゴを並べ、二人でリンゴの芯に具材を詰め込んでゆく。隙間なくぴったりねとの指示なので、割り箸を使ってぎゅうぎゅう詰め込む。上からハチミツをかけてシナモンを振りかけたら作業完了。ここまで約三十分。あとはオーブンで四十五分間焼くだけだ。  僕とユミちゃんが、勉強もせずに、なぜ土曜日の午後にこんなことをしているのかともし聞かれたら、それが彼女の希望であり、二人で十分な討議と検討を重ねた末に達した結論だからである。  家庭教師を始めてまだ間もない頃、日々の勉強の中での疑問点の質疑応答や進行状況の確認、テストがあれば成果の確認など、それらが済むといつも時間が余ってしまった。   初めのうちは、学校であったことや、彼女が在籍している演劇部のことや、僕の大学生活のことなど、そんな他愛のないお喋りに余った時間を費やしていた。  でも彼女も僕も、話し上手でも聞き上手でもないから、お喋りはつまらなくはないけれど盛り上がらない。だいたい僕は話すより聞くほうが好きであり、十七歳に話題性と巧みな話術を求めるのは無理な注文であり、それらの状況を鑑みて、もっと建設的に時間を使おうと二人の間で合意が成されたのだ。  例えばそれは、最近読んだ本の論評であったり、テレビニュースで取り上げられた事件や出来事などへの感想と意見であったり、たまには僕が持ち込んだテレビゲームをしたり、一緒にシューベルトの歌曲を聴いたり、要するに彼女にとって本来は両親としてみたかったこと、そしてもしも兄弟がいたらやってみたかったことを僕を相手に実行した。  しかし生徒があまりにも優秀なので家庭教師には勉強以外の役割が与えられたなんて、いくらなんでもご両親には言えないし、悟られるのもよろしくない。だからその計画を実行するうえで彼女のご両親が留守がちだったことは、皮肉にも都合が良かったのだ。  ある時、お菓子を作ってみたいという希望がユミちゃんから提案された。僕はスイーツなど作ったことがないと異議を申し立てたが、あらかじめ密かに彼女がレシピを手に入れておき、その指示に従って実行すれば良いとの回答を得て合意に達した。  以来、二人でクッキーを焼いたり、シュークリームを作ったり、簡単なケースにチャレンジしてみたり、次第にステップアップを繰り返し、今回の焼きリンゴ企画に達した次第である。  しかしこのスイーツプロジェクトには少々問題があった。それは残せないということだ。残したら勉強していないことがばれてしまう。だから、二人で食べ切れる量しか作らない、終わったら痕跡を残さないようにキッチンと使用した調理器具を綺麗にして現状復帰する、ゴミは僕が持ち帰る、などの対策を講じた。  ユミちゃんはもしかしたら両親に食べてもらいたいと思ったかもしれない。そう思って当然だろう。留守が多いと言っても別に両親と仲が悪かったわけではないからだ。でもそれについては彼女は何も言わなかった。  でも・・・彼女のご両親は気づいていると僕は薄々感じていた。気づいていて何も言わない。少なくとも母親は気づいていない振りをしていると。  証拠はない。しかし子供のことに関して、ましてや自宅内での出来事は、例え自分がその場にいなくても感じるものがあるのはないか、と思うのだ。  もしもご両親から今までの建設的な息抜き行為(ユミちゃんにとっての)を糾弾された暁には、素直に非を認めようと思っている。  二人でセットアップしたリンゴをオーブンに入れてしまうと、あとは出来上がりを待つだけになった。手持ち無沙汰なので、我々のあいだで留保されている懸案事項について論議することにした。 「ユミちゃん。そろそろ"先生"という呼び方はやめたらどうかな」「う。うん」煮え切らない返事はいつものことだ。彼女はこの話題が苦手なのだ。 「ユミちゃんはお兄さんが欲しかったと前に言ったよね。だからご両親の前では先生でいいけど、二人きりの時は僕のことをお兄さんとかお兄ちゃんと呼んでいいよ」「それはそうなんだけど。やっぱり恥ずかしくて」  まあ、"お兄ちゃん"は僕も恥ずかしい。でもそれらしい業績を上げていないのに、いつも先生と呼ばれて気恥ずかしく感じていたのも事実だ。 「だから今までどおり、先生でいいよ」「試してみないか?」「ええっ?」「ほら、試しに、お兄ちゃんって言ってみたらどうだろう」「ううう」頬杖をついた困り顔の十七歳が、異議ありと手を挙げた。 「実際の兄妹は、兄に向かってお兄さんとかお兄ちゃんと呼びかけるのかな」「呼ぶんじゃないか」「まだ幼い頃ならともかく、高校生になっても、そんな呼び方する?」「うーん」  今度は僕が考え込む番だった。兄弟がいないから実際のと言われてしまったら、実際のところ、わからないし断言できない。でも(にい)さんとかいうんじゃないだろうか? 「兄は妹を呼ぶ時に、"おい妹"なんて呼ばないよね」「呼ばないだろうね」それはそうだ。それは変だ。妹は名前で呼ぶのじゃないか。しかし続けて出された動議にはちょっと困ってしまった。「だとしたら兄だけ、"お兄さん"と呼ぶのは、何というかバランスが悪いと思う」  それは・・・そうかもしれないけれど、でも元はといえばお兄さんが欲しいと言ったのはユミちゃんなのだ。それにそんなバランスの問題を指摘されても返答に困ってしまう。しかしさりげない擬似妹の次のたたみかけに、僕は固まってしまった。 「それから先生は、彼女さんとかいるの?」「えっ」「かのじょです。恋人ともいう」"それから"の文法的使用方法が間違っていると指摘しつつ、腕を組んでしばし考える。  考えたのはもちろん早希のこと。星野早希(ほしのさき)。僕を虜にした早希。考えるまでもなく、考えていない時も、早希はいつも僕の中にいた。でも早希は、いわゆる"彼女"なのだろうか?恋人?違う気がする。好きというのも違うと思う。早希は僕にとって、そんな言葉の意味を通り越した向こう側の存在なのだ。  言葉ではとても言い表せない魅力と憧れのかたまり。彼女を考える時の痺れるような感覚。それを人に説明することは、僕の言語能力をはるかに超えた難問だった。だから僕は、「好きな人はいる」とだけ答えた 「ということは、好きだけど彼女じゃないという意味かな。質問に対する回答が捻れているよ」「まあ、そうかな」冷静に指摘されてしまい憮然とした気持ちになった。 「片思いなの?」「うーん」「違うのか。それじゃあ付き合ってはいる?」「うーん」「うーんじゃわからないよ!先生!恋人がいるなら、そういう人生経験のない妹に教えてよ!先生!」好奇心で目を輝かせながらたたみかけてくる妹について行けなくなり、思考がフリーズした。  早希と付き合っているのかと聞かれたら、胸を張ってイエスとは言えない。片思いなのかと聞かれたら・・・違うと信じたい。早希と一緒の時の彼女の態度や印象から僕への好意を感じてはいた。でもそれをはっきり確かめたことはない。早希の気持ちを確かめるなどという考えは、僕の世界の限界を超えている。  唐突な「チーン」という音により、世界の限界に唸る兄と責める妹のハーフタイムが終わりを迎え、僕は密かにホッとため息をついた。  オーブンの扉を開ける。沸騰しているようなふつふつという小さな音が聞こえる。キャラメル色に仕上がった熱々のリンゴを取り出す。「熱いから気をつけて。お兄ちゃん」「大丈夫だよ」と言いながらも、鍋つかみを通してじわじわ伝わってくる熱がやばい。  二重に敷いた鍋敷の上に、熱々のそれを注意深くそっと載せる。部屋中に甘い香りが充満している。「本当はね。冷ましてから冷蔵庫で一晩寝かせたほうが美味しいらしいよ。そう書いてある」「そうなんだ。でもちょっとそれは無理だよね」「だよね」  あらかじめ用意しておいた皿に、リンゴを取り分ける。二つあるうちのどっちがいいかはジャンケンで決めた。負けた僕は小さいほうになったが、どちらでも良かったのでなんとも思わない。どっちみちユミちゃんには美味しそうな出来栄えのリンゴをあげようと思っていた。 「美味しい!ねえお兄ちゃん」「うん。初めてにはしてはなかなかじゃないかな」「熱っ!あっ、そうだった。アイスクリームを載せなきゃ」「おお、熱々の焼きリンゴに冷たいアイスクリームなんて素敵なアイデアだね」「でしょう。お兄ちゃん」  そこでやっと、会話の中にさりげなく"お兄ちゃん"が登場していることに、はたと気がついた。冷凍庫から取り出したバニラアイスクリームをそれぞれのリンゴにかいがいしく載せている妹の顔を盗み見る。ほっぺたが少し赤い。僕は気づいていない振りをすることにした。  美味な焼きリンゴを食しながらの会話に、さっきの話題の続きが出なかったので、再び僕はホッとする。しかしそれに代わって今度は、どこかに行きたいと言い出した妹に困惑してしまう。 「どこかってなんだよ」「今度どこかへ連れてって先生」「・・・それは例えば遊園地とかのこと?」「もっと普通のがいい」  また"先生"に戻ってしまった。つかの間のお兄ちゃんだったけれど、初めてにしては上出来だ。でも、はたしてこの場合の普通とはなんだ。  "普通"の定義に悩む。「どこでもいい?」「うん。のんびりお散歩がしたい」それなら・・・「谷中はどうかな」「知ってる。谷中墓地」「そうだけど、そのあたり一体感は谷根千と言ってね。古い街並みが残っているんだよ。雑貨屋とか美味しいお店もいっぱいあるんだ」  谷中はJR日暮里駅から歩いてすぐの距離にある。僕が所属している「街角研究会」という、主旨のよくわからないサークルのメンバーと一緒に、そのあたりを散策したことがあった。もっとも、グループ行動が苦手なため、最近はほとんど顔を出していない。 「よく知ってるね先生」「その辺を歩いたことがあるから。それから、朝倉彫塑館という、有名な彫刻家が住んでいた屋敷を・・・」ユミちゃんは僕の話を目をキラキラさせながら聞いている。ただ問題もある。   出かけるとなると、きちんとご両親の了解を得なければならない。焼きリンゴのようなわけには行かないのだ。家庭教師と生徒が勉強以外の目的で一緒に出かけることを認めてくれるだろうか。  しかし僕の杞憂は、ユミちゃんの「親戚なんだから大丈夫だよ」の一言であっけなく粉砕された。 「親戚のお兄ちゃんと気分転換の息抜きで出かけてくるって言えばいい。本当のことだし別に変じゃないでしょう」「ああ、それはそうだね」お母さんが帰宅した頃を見計らって、僕から電話することにした。  その前に話が通りやすいように根回しをしておくからと、まるで世馴れた大人のようなセリフの妹が僕にウインクしてみせた。"お兄ちゃん"のしたたかな使い分けが気になるところではある。  皿を洗い、綺麗に拭いてから元の場所にしまう。オーブンも同じくピカピカになるまで綺麗にする。片付け終えたら匂い消しの消臭剤を撒いて完了。あとは撤収するのみだ。  外へ出ると日が傾いていた。見送りのユミちゃんと門まで来たところで、大事な用事を思い出して引き返す。バラの匂いを確かめなくては。  蛍光オレンジの剣弁高芯咲きの花は、フルーツの顔がした。バラの花形はもちろん早希から教えてもらった。ユミちゃんに聞いたが名前はわからない。スマートフォンで何枚か写真を撮る。あとで早希に見せてみよう。

コメント

コメント投稿

スタンプ投稿


このエピソードには、
まだコメントがありません。

読者のおすすめ作品

もっと見る

  • アウトローな場で繰り広げられる物語

    ♡23,800

    〇110

    現代/青春ドラマ・連載中・30話

    2020年7月8日更新

    歓楽街の一角で 交際トラブルから 刺されかけた原川 静香(中学生)は、チビの少年に助けられる。 その少年が 同級生、佐藤 剛であると気づいた彼女は「格闘技でも習っているの? 」と問いかけたが、佐藤は何も答えずに立ち去ってしまう。 翌日、佐藤に興味を持った原川がとった行動により、彼女はアウトローの世界へと足を踏み入れる。そんな世界に身を置く佐藤の目的とは? ※「修羅の焔」の続きは、2020年に4月頃公開予定しています! ※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・事件等にはいっさい関係ありません。また、作中における犯罪行為、暴力行為等の反社会的行為を推奨する意図は全くありません。 ※2020年4月1日改稿 タイトルの焔は「ほむら」と読みます。カクヨムにも掲載しています

  • R15の限界を目指した恋愛ファンタジー

    ♡376,150

    〇1,080

    異世界ファンタジー・完結済・225話 駿河防人

    2020年6月24日更新

    「ちょっと運命的かもとか無駄にときめいたこのあたしの感動は見事に粉砕よッ」 琥珀の瞳に涙を浮かべて言い放つ少女の声が、彼の鼓膜を打つ。 彼は剣士であり傭兵だ。名はダーンという。 アテネ王国の傭兵隊に所属し、現在は、国王陛下の勅命を受けて任務中だった。その任務の一つ、『消息を絶った同盟国要人の発見保護』を、ここで達成しようとしているのだが……。 ここに至るまで紆余曲折あって、出発時にいた仲間達と別れてダーンの単独行動となった矢先に、それは起こった。 魔物に襲われているところを咄嗟に助けたと思った対象がまさか、探していた人物とは……というよりも、女とは思わなかった。 後悔と右頬に残るヒリヒリした痛みよりも、重厚な存在感として左手に残るあり得ない程の柔らな感覚。 目の前には、視線を向けるだけでも気恥ずかしくなる程の美しさ。 ――というか凄く柔らかかった。 女性の機微は全く通じず、いつもどこか冷めているような男、アテネ一の朴念仁と謳われた剣士、ダーン。 世界最大の王国の至宝と謳われるが、その可憐さとは裏腹にどこか素直になれない少女ステフ。 理力文明の最盛期、二人が出会ったその日から、彼らの世界は大きく変化し、あらゆる世界の思惑と絡んで時代の濁流に呑み込まれていく。 時折、ちょっとエッチな恋愛ファンタジー。

同じジャンルの新着・更新作品

もっと見る