記憶探偵と忘却のマリア

水葬楽探偵事務所

新宿駅の地下道には、難民状態となった記憶喪失者たちがおおくたむろしている。 金をせびってくる彼らをやり過ごして西新宿にたどり着くのには、いつも一苦労だった。 手入れが行き届かずひび割れたコンクリートを代表に、平らとはまったく無関係な不自然で不連続の凹凸を進んでいく。 新宿駅から遠ざかるにつれ人間の影も比較的すくなくなっていき、やがて西新宿の新築された三階建ての長方形をした住居にたどり着く。 門戸には『水葬楽探偵事務所』と金文字で刻まれたプレート。いつ見ても豪壮だ。 「入るぞ」 水葬楽探偵事務所のドアをくぐると、広い事務所にひとり、ぼつんとアリアの姿があった。 眼前のアリアは天然な性格とは裏腹に、きれいなスーツを乱れなく着こなしており、身だしなみも美しい。 襟首でまっすぐ揃えられた髪は一本の枝毛も存在しないほどに整えられていて、まるで美術品のように本革の椅子に鎮座している。 俺がアリアの弟分じゃなければ、惚れていたかもしれないくらいの美人だ。 アリアは俺が入ってきたのに気付いたのか、「もう着いたのね〜?」と大げさに驚いてみせた。 「で、保護した女の子ってのはどこにいるんだ?」 「うふふ。お風呂ちゅう。覗いちゃ駄目よ〜?」 「誰が覗くかよ」 「あら? 健全な男子は女の子のシャワーを見たいものじゃない? ドラ●もんで見たわよ?」 「ドラ●もんを一般化するな」 どういう偏見だ。 いくら国民的アニメといっても勘違いがすぎる。 アリアの事務所にシャワーが備え付けられているのは、ネカフェ暮らしの俺にはありがたかった。 ネカフェのシャワーは本当に『浴びる』だけの空間で、『くつろぐ』ことを目的としていないからだ。 他にも、この事務所にはアリアが居住しているのをあって、ひとが寝泊まりできるような設備が整っている。 例の記憶喪失の少女が風呂に入っているというのも、その設備を利用したのだろう。 事実、記憶喪失者が放浪生活によって衣食住をじゅうぶんに供給されていないというのは、よくある話だ。 『記憶さがし』の間に依頼者が逃げ出したりしないように、部屋に囲っておく役割も果たしている。 あまりに便利な……まるでひみつ道具みたいだ。 ……いやいや! 俺もドラ●もんの思考に染まってるぞ! 頭がホンワカパッパしそうだったので、俺は話題を変える。 「それより、右手を怪我してるんだ。手当てしてもらえるか?」 「あぁ、そうだったわね。今回の依頼を引き受ける条件だったかしら」 アリアは椅子から立ち上がると、事務所の壁に立てかけられている棚から救急箱を取り出す。 俺は怪我した右手を見せると、アリアは眉を下げてため息を漏らした。 「うわぁ。ひどい怪我ね……皮膚がめくれちゃってる。ほんと、身体は大事にしてほしいものね」 「んなことアリアが気にする必要ないだろ」 「するわよ〜。シキ君はあたしの弟みたいなものなんだから」 口を尖らせるアリア。 茶化しているわけじゃないのに、心が痒くなった気がしてついつい口を出してしまう。 「アリアは黙ってろ」 「怖いわね〜? そんなのじゃ、女の子にモテないわよ〜?」 アリアは俺のことを哀れみの目で見て、それから俺の右手を取って言った。 「染みるからすこし我慢してね」 「別に、一思いにやってくれ。どうせ痛いもんは痛いし」 「強がっちゃって〜。ま、シキ君のそういう若いところ、嫌いじゃないけど〜?」 「なんだよ、その上から目線は」 「うふふ。かわいい子を見ると、ついついいじめたくなっちゃう」 「この性悪め」 困ったように頬に手を当てて、微笑むアリア。 手際よく消毒液を塗布し、防水のバンドエイドをいくつか肌にぴったりとくっつけると、「はい終わり」と俺の肩に触れた。 「早く治るといいね」 「…………」 俺はばつが悪くなって、ポケットに手を入れたまま、来客用のソファに腰掛けた。 「それよりも、報酬の前払いはまだ終わってないだろ」 「あぁ、そうだったわね……って、しまったわ……」 言いながら、アリアは口に手を当てて何かに気づいたようにオーバーに驚く。 「……なんだ?」 「シキ君の要求って、食事とシャワーと、傷の治療だったわよね」 「ああ、そうだけど……」 「しまった〜! 開口一番、『ご飯にする? お風呂にする? それとも手・当・て……?』って聞くべきだったわ……!」 「は?」 わりとナチュラルに殺意が湧いた。 なんというか、アリアは良くも悪くも生きている世界観が違う。 ----------- その後、アリアが食事を用意してくれたので、俺はクライアント用のソファに座ってぼーっと時間を潰していた。 事務所を見回すと、やはり、同業者といえ俺とはまったくちがう世界の住人だと感じさせられる。 彼女の容姿も整っているが、事務所の備品も使うのがはばかられるくらいに高級なものがそろえられている。 ものの価値を知らない俺でもかなりの値段するものだと直感で理解できるような代物だ。 ほかの内装にもかなり意匠が凝らされている。 ひとたび開放すれば外の新鮮な空気を嫌と言うほどに取り入れられる大きな窓、待っている依頼者を退屈させないための高級ソファに山ほどの本を収容できる書棚といったものが目にとまる。 これらはすべて、彼女ひとりの力によって得られたものだ。稼ぎの額が一桁も二桁もちがうだろう。 そもそも、水葬楽アリアのスペックは俺とは比較にならない。 水葬楽探偵事務所という一丁前な事務所を構えている『記憶探偵』水葬楽アリアは業界でも有名なやり手で、俺のように行動力ばかり先走って案件を逃したりぶっつぶしてしまう奴とは一線を画している。 なにより彼女のやりかたは、徹底的なまでにクリーンなものだ。 暴力なし、恫喝なし、知性と情報だけで『記憶さがし』を遂行するのが特徴で、そのため、おおくの依頼者や同業者からの信頼を勝ち得ていた。 この東京では情報と記憶はもっとも価値の高いものである。だからこそ、その両方を得ることのできるアリアは、相応の立場にあると言っていい。 それでいて、まだ二十六歳なのだから怖ろしい。 俺と十歳も離れていないのに、この差はなんなんだ? 考えてはみるものの、答えは出なかった。 高級なものに囲まれてあたりを見渡している俺に、アリアが戻ってきてのんびりとした語調で話しかけてくる。 「なんだか落ち着かない様子ね〜?」 俺の貧乏症を見抜かれたような気がして、反駁する。 「疲れててちょっと眠たいだけだ」 「それならいいのだけど。ところでチョコレートケーキとショートケーキ、どっちがいい?」 「子供扱いするな。……果物が食べたいからショートケーキで頼む」 「ふふ。じゃあそうさせてもらうわね」 アリアは口に手を当てて笑い、奥のキッチンに戻っていく。 それから数秒も立たないうちに再びドアが開いたので、俺は反射的に問い質した。 「なんだ。また質問か、アリア――」 しかし、そこにいたのはアリアではなく。 銀髪を濡らした、全裸の、幼女だった。 「――おにーさん、誰?」

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