正義のヒーロー

忘れもしない。 二〇二五年の東京の、ある冬の日。 俺は、世界の誰からも忘れ去られた小部屋を探し出した。 その六帖ほどの小部屋は、俗に言う単身者向けのワンルームマンションの一室で、室内はピンクのネオンライトに満たされており、夜盗でも忍びこんだみたいに化粧箱や家具がぶちまけられ、口紅やチーク、雑誌、ティッシュ箱、ペットボトルといった生活用品が乱雑に床に転がっていた。 住人のいい加減さがにじみ出ているようだった。 京王線沿いのある駅から徒歩三分の場所に位置しており、閑静な住宅街に紛れたアパートの白壁からは部屋の中身まで幻視することはできないだろう。そんな部屋。 俺——雅楽川(うたがわ)シキは、その小部屋の床に座っていた。 正確に言うと、『床に座っている』というより、『床に倒れた小部屋の住人に馬乗りになっている』という表現が正しい。 俺はここの住人だった女を押さえつけなくてはならなかったのだ。そうしなくてはならない正当な理由があったから。 小部屋の住人である女を、物品の散らばった床に組み敷いて詰問する。 「むかしの記憶——思い出せたか?」 かつてこの部屋に住んでいた女は首を横に振る。 「お、思い出せないです……」 彼女が否定するたびに、俺は彼女を殴る。 殴ると小部屋の薄い壁が震えるが、隣人がいないのはすでに確認済みだ。俺は臆せず殴る。 「どうして、殴るんですか……!」 「うるさい。はやく思い出せ」 一発殴るたびに目の前にいる女、(かさね)イクエは甲高い叫び声をあげてヒステリックに手足をばたつかせた。 彼女の四肢の骨はすでに折ってあるので可動域はせまく、反撃の拳がこちらに届くことはない。 殴るときは、硬くなったパン生地を無理やりほぐすように拳に力を入れて、体重をかけて下方に撃ちこむのを意識している。 そうすることで、拳からの衝撃がクリアに伝わり、衝突したときの音が空気を通過して鼓膜へと届く。 音がこだますることで聴覚を刺激し、殴られている側の反抗する気力を奪うのだ。 五感で相手を屈服させなくてはいけない。 視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚…… ……あ、いや嗅覚と味覚はそんなにいらないな。三感くらいでオッケー。 なんて内心なごやかな気分になるものの、俺は累イクエが記憶を取り戻すまでこの問答を続けなくてはならない。 なぜなら彼女はある約束を破ったからだ。大事な大事な約束を。 その約束のことを、世間では『契約』と呼ぶ。 俺と彼女との間での『契約』は至極簡単なものだった。 彼女の『なくしもの』を探す仕事をして、見つけたら報酬としてお金をいただく。 たったそれだけだ。 それだけなのに。 累イクエは『契約』のことをきれいさっぱりと忘れていたのだ。 「わたし、何も悪いことしてませんよね、どうして……」 彼女は涙を流しながら、ぬけぬけと言う。 「どうしてこんなことされないといけないんですか!」 足をじたばたと動かして、彼女は俺から逃れようとするも、まな板の上の魚のごとく状況は変わらない。 質の悪いシャンプーを使っていたためにひどく乾燥した累イクエの長い髪をひっ掴んで、言い聞かせるように言う。 「あのさ。なんで憶えてないんだ? 俺が『思い出させた』よね、あんたの記憶を。それなのに忘れたって言い張るのは、成功報酬を払いたくないからじゃない? それって、詭弁だと思うんだけど」 「ち、ちがいます、ほんとに憶……」 「言い訳は聞きたくない」  反抗するたびに一度殴るきまりなので、俺は彼女の顔面にパンチを入れる。顔はすでに腫れ上がっており原形を留めていない。 「や、やめてくだ……」 かすれて語尾の聞き取れなくなった女のうめき声が、部屋につめたく響いた。 彼女にも人権はあるだろう。 しかし、俺はそいつのことをパン生地だと思って意に介さずに、ひたすらに重力のかかるほうへ向けて拳をはなった。 「ごポッ」 累イクエの口腔から血の出る音がする。 血液で赤黒くなった顔面はひしゃげてピカソの絵画のようになっていて爆笑ものだったけれど、笑っても状況は改善しないので無感情のままに殴る。 殴りつづける。 殴打。 「ほんとうに、思い出せな……です。教え……くださ……」 息も絶え絶えだ。 青あざができ、異常なまでに腫れ上がった彼女の眼窩からはとめどなく涙が溢れているが、だからといって感情を揺さぶられることはない。 「……埒があかないな」 本格的に殴り続けたはいいものの、累イクエは『契約』を忘れたふりをやめないので、俺は嘆息して拳に入れた力を抜いた。 俺の拳は殴っているうちに皮が剥げたのかひりひりと痛んで、見ると血の赤のなかに白いものがある。中指の付け根にある骨が露出しているようだった。 痛そうなビジュアルでようやく冷静になって、俺は女にもわかるように恨み節をつぶやいた。 「百歩ゆずって、あんたの記憶が戻らないとしよう」 「……はい」 「だけど、守らなくちゃいけないことが、あるよな。いいからさっさと契約を履行してくれ。でないと、フェアじゃない。それはつまり『正義』らしくないってことでもある」 「……思い出せなブッ」 反抗したので一撃。俺の右手がぶっ壊れてたので、左手で殴った。 「忘れたとは言わせないけど。どうして金が払えないんだ? サービスを受け取るにはちゃんと代価が必要だって、小学校のころに習わなかった?」 「お、おぼえ、ない……」 女の顔が俺の左フックでさらに醜くなる。俺は眉をハの字にして困ったようにつづけた。 「そりゃ『正義』に反するだろ……そもそも俺、『探偵(メモライザー)』として、あんたの『記憶さがし』をしたんだからさ。これは俺とあんたの間で交わした契約だったんだ、タダ働きってわけにはいかない」 「『記憶さがし』……して、もらったのもおぼえてない……なんにも思い出せないんです」 「契約書にサインしたよね、あんたの記憶にまつわる物品は集める。かわりに、記憶を取り戻さなくても報酬はいただく——そういう内容だったはずだけど……俺はあんたが住んでた部屋まで見つけたんだ。どうして思い出せない?」 「わからない、おぼえてないんです……」 女は顔面にべっとりとついた血糊を洗い流すように涙した。 涙を流しても事態は収拾しない。だけど、興が削がれた。俺は両の腕から力を抜いて、だらりとおろす。 興奮からか感覚が麻痺していたのだろう、自分の右手をふたたび握ることすらおぼつかないことに気づき、徒労感にがっくりとうなだれた。 「報酬を支払いたくないからって、しらばっくれてるんじゃないかと思ったけど。まさか『記憶さがし』の依頼をしたことすら忘れてるとはね……」 不運だ。 となるとこの女——累イクエは、まだ二十歳にも満たないのに『記憶の大渦巻(メモリシュトローム)』に二度も巻き込まれたってことになる。 もはや元の記憶は跡形もないくらいにぐちゃぐちゃになっていて、思い出せるものも思い出せなくなってしまったのだろう。 同情心はなかったけれど、ある意味この女も被害者なのだ。 だけど約束を守らないのは、正義に反するだろう? 『正義』。それが俺の仕事に対する美学なのだ。 だから俺は、同業者からこう呼ばれている。 『正義のヒーロー』と。 しかし、いくら拳を振るったところで懐は暖まらない。ヒーローだって慈善事業というわけにはいかない。 困って肩をすくめ、累イクエの部屋を眺めるものの、高価なものは見当たらなかった。 化粧品はドラッグストアで購入されたものに見えるし、家具も量販店で買ったのだろう、最低限の機能だけしか有しない、意匠を感じさせない出来のものばかりだった。 「それじゃ、この部屋にある金品と、あんたの財布だけでいい。これ、もらっていくからな。それで手打ちだ」 「ま、まってくだ……わたしが、生きられな……コぽっ」 反抗するたび一殴り。せめてもの慈悲心で、左の弱パンチを放ってやる。 「悪いけど、俺の『正義』に反したやつはすべて敵だ。おまえに同情する余裕はない」 そう言うと、衰弱した女を小部屋に放置して立ち上がる。小部屋にある金目のものをいくらか見繕って、上着のポケットに入れる。 部屋のドアを開けて外に一歩踏み出すと、累イクエの住む学生アパートの二階の廊下は吹きさらしになっており、そこからは空が見える。 東京の寒空だ。誰の慈悲も感じられなくなってしまった、よそ者たちのつめたい空だ。 行き交うひとたちは、誰もかも目を合わせないし、合わせたとしても他人として認識しない。 舞台上の役者よろしく人間をカボチャか何かだと思っている。 かろうじて数名の学生グループが視認でき、学生服を着た彼らだけが世界の不幸に気付かないふりをして笑い合っている。十代後半。俺とさほど変わらない年齢のはずだ。 「暢気なやつらだ」 俺はアパートをあとにすると、そんなつめたい街の横断歩道を横切りながら、放置してきた記憶喪失の女——累イクエのことを思い返した。 身元不明であの出血となると、女はすぐに治療を受けられずに死ぬだろう。今では病院がどこもかしこもパンクしているため、医療費も高額なものとなっている。 だけど、ここでほんのすこし慈悲心を見せて、俺の所属する『探偵協会』の提携病院でちゃんとした治療を施したなら、生きながらえることもできるかもしれない。 だけど俺は、彼女を救わない。 どんなに汚いと言われようと、これが俺の『正義』だからだ。俺が救うのは無辜の民草、約束を守り善良に生きる純真なひとびとだけ。 「痛っ……」 刺すような寒さがずたずたになった右手をいたぶる。俺はコートのポケットに血まみれの手を突っ込んで、気休めていどの暖を取った。 そのまま新宿駅付近のネットカフェへと向かう。 そこが俺の居住空間だ。

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