帰り道。
目の前の女子高生は制服のポケットから携帯端末を取り出すと、浮かび上がった画面を眺めて愕然とした。
「やばい、お母さんからめっちゃLINE来てる」
彼女は「後で怒られるよぉ」と嘆きガクン、と項垂れた。俺は苦笑を交えながら「まあまあ」と彼女の肩に軽く手を乗せる。
様々な励ましの言葉を並べながら、俺の頭に浮かんでいたのは全く別のことだった。
ふと、空を見上げた。
真っ黒な夜空に幾つもの小さな瞬きが見えた。
落ち着いてスゥ、と呼吸をすると、夏の夜の匂いがした。
無意識のうちに去来していく思考を頭の隅に押しやるため、俺は心中で「すっかり遅くなったなあ」などと間の抜けた台詞を唱えては、呆けたフリをしてみせた。
頭の中をぬるま湯で満たしていく。
呆けた思考の延長線上で、ふと、俺は驚愕の事実に気がついた。
「やばい。マジでやばいよ未玖」
「……どうしたの、ミタ」
目の前が暗くなっていく。顔からサーッと血の気が引いていく感覚がした。
彼女は項垂れたまま視線だけをジトリとこちらに向けながら、「女子高生みたいな台詞吐くミタの方がヤバいよ」とため息交じりの声を漏らした。
「聞いてくれ、未玖。今日はワロモネアの特番だったのに、録画してくるのすっかり忘れてたんだ……!」
「えぇ。別にいいじゃん、似たようなお笑い番組なんていつでも見られるんだし」
「な、何だと! 全く、君はあの番組の良さを何も分かっていないな?」
未玖が「お笑い番組なんてどれも同じ」と首を横に振るので、俺は呆れのあまりハァ、と肩を落とした。
「いいか、未玖。笑いを堪える姿が滑稽に映るのは、あらゆる世界の共通認識なんだ。俺達の世界では新年になると、絶対に笑ってはいけないという恐ろしい番組が……」
「新年早々暇なんだね」
彼女は口に手をあててクスクスと笑った。
随分と失礼なことを言われたような気がするのに、思わずつられて笑ってしまったのは何故だろうか。自分でもよくわからなかった。
住宅街を抜け商店街に近づくと、周囲の人影が少しずつ増えていった。
こちらに向かってくる人々がチラリと未玖の姿を見ては、特段気に留めることもなく通り過ぎていく。
彼女が一人で話していることは、大して気にならないのだろうか。
ぼんやりとそんな事を考えていたところで、隣から自分を覗き込む栗色の瞳と目が合った。
「……ミタ?」
「ん? ああ、そうそう、天界は暇なんだ……って、そうじゃなくて! 俺は断じて暇じゃないからな? ハハ、何を隠そうエリートの俺の周りには常に仕事が殺到し」
「サボってたから追い出されたんでしょ?」
「そ、れは」
《下界に追い出されたのは向こうの世界で仕事サボってたからで、それはしょうがないにせよ、だ》
ああ。
そういえば、君にはそう言ったんだっけ。
駅近くの商店街は賑やかで、俺は彼女の背中を追って進んだ。
湿った風が肌に纏わりつく。
彼女に掛けるべき上手い話が思いつかなかった。
黙ったまま一人先へ進んでいく彼女を、人混みの中で見失ってしまいそうになった。
「待って」と声を掛けようとした瞬間――頭の中をピリ、と電撃が走り、
俺は思わず、ハッと息を呑んだ。
(――アイツの気配がする)
その場に立ち止まり、両目を閉じる。
すれ違う人間達が自分をすり抜けていくのも気にせず、俺は先の一瞬感じた気配に意識を集中させた。
捉えた気配は、紛れもなく自分が追っている奴の気配そのものだった。
奴が近くにいる。それを理解した瞬間、全身の感覚が鋭敏に研ぎ澄まされていく。
俺は未玖に、嘘をついている。
浮かび上がる雑念を排除し、奴の気配を追うために自らを奮い立たせる。やがて身体の底から湧き上がる使命感は、魂に刻み込まれた使命を思い起こさせた。
それは、必ず果たさなければいけない使命。
俺が下界に来た、本当の理由――
――――――――――――――――――
第二十話 少女を黒く染めたのは
――――――――――――――――――
――それは少し前の天界での出来事。
その日の「宮殿」は、騒がしかった。
《どうだ、そっちにはいたか!》
《いや、こっちには誰もいなかった》
《畜生、あの野郎どこ逃げやがった!》
騒ぎが起こるのも当然のことだった。
その日、牢獄の扉が破壊され、大罪人が脱獄したから。
牢獄警備兵は手練れの死神が任務にあたる。しかし、その日入り口の門の前に倒れていたのは、本来負けるはずのない彼等の方だった。
「あの人」から緊急召令がかかった。
どうやら、大罪人は下界に逃れたとのことだった。
天界と下界はもともと隔絶された世界。そう易々と行き来できる世界ではない。
天界から下界に向かうためには、相当なエネルギーを必要とする。それゆえ、下界と行き来するには大きなリスクが伴う。普通の死神はエネルギーの消耗に耐えることができず、あっという間に消滅してしまうのだ。
俺は「あの人」の元を訪れた。
金色の髪が風になびく。
身に纏った白いローブは眩しく、袖の下でキラリと輝くのは、指に嵌めた金の指輪。
自分に大罪人を追わせてほしい――俺はあの時、そう志願した。
天界において唯一絶対のはずの牢獄から罪人が抜け出した。この事実が明るみになれば、治安を、「あの人」の地位を揺るがす一大事の事件。
「あの人」自身も、一刻も早い事件の解決を望んでいた。
死神に厳戒令が敷かれる中、極秘裏に、「あの人」――総督は俺にこう命じた。
「牢獄を抜け出した大罪人を追え」と。
「ミタ、どうしたの? こんな所で立ち止まって」
後ろを振り返り、戻ってきた未玖が自分に手を差し伸べた。
華奢なその手を取ろうとした瞬間、何かがギュッと胸を締めつけた。
早く、奴を追わなければ。
俺はそのために下界に来たのだから。
だから、早く――
「ごめんね。私がミタの力奪ったりして、こんなに迷惑掛けて。その、サボってるなんて言っちゃったけど、大事な仕事出来なくなっちゃったんだよね」
「それは……」
「私ね、やっと覚悟できた。あのね」
強く風が吹き、一人のか弱い少女の髪をなびかせた。
自分を見つめるガラスの瞳は透き通っていて、少女の真っ直ぐな言葉に俺は、
――言葉を失った。
「私は、受け入れるよ。この力を。この運命を」
ズキリ、と胸が痛んだ。
(全部、嘘なんだ)
君が力を奪ったなんて、嘘なんだ。
本当は――
真実を口に出そうとした瞬間、喉の奥が乾いて言葉が上手く音にならなかった。
気道が何かに締め付けられているような感覚がして、思うように息が出来なかった。
心底、自分の情けなさに辟易する。
「俺。ちょっと、散歩してくるよ」
辛うじて出した声は震えていた。予想外の反応だったのか、未玖は驚きを顔に浮かべていた。
握る掌にじっとりと汗が滲んだ。
「え、どうしたの急に」
「いや、何となく……かな。ハハ」
苦し紛れに浮かべた笑顔はぎこちなくて、いつものように上手く笑うことができなかった。
「さっき言ってたお笑い番組だって、今から帰れば間に合うかもしれないし……」
「あ、ああ。それはいいんだ。もう」
先程捕らえた奴の気配が、時間と共に少しずつ遠ざかっていく。
途端に、焦りと、依然として腹の奥底から込み上げてくるあの感覚が襲い掛かり、息が苦しくなった。
「もし俺の帰りが遅くなっても、気にしないでくれ」
「ミタ……?」
「もし、俺が帰ってこなくても」
握っていた未玖の手を離し、俺は背を向けた。
「待ってるよ、ミタ」
背中の向こうで聞こえた彼女の最後の台詞は、弱々しく震えていた。
空に浮かび上がり、宙を駆ける。
向かい風に逆らい、目標に向かって俺はひたすら進んだ。
掌には僅かに彼女の温もりが残っていて、無意識のうちに歯を食いしばった。
心配そうに自分を見つめる彼女の最後の表情が頭から離れない。
《ごめんね、私がミタの力奪ったりして、こんなに迷惑掛けて》
――違う。全部嘘なんだ。
《私は、受け入れるよ。この力を。この運命を》
――君が苦しんでいるのも、全部、俺の所為なんだ。
君に本当のことを打ち明ければ、この胸の痛みは消えてくれるのだろうか。
君に「本当の仕事」を打ち明ければ、俺の心は楽になるのだろうか。
けれど、君に全てを打ち明ければ、俺の「本当の仕事」に君を巻き込んでしまうかもしれない。
それだけは、あってはならないと思った。
人間なんて、どうでもいいと思っていた。
――はずだった。
でも、君は。君だけは、守りたいと思ってしまったから。
(近くにいる)
屋根の上を伝いながら、目標の気配を辿っていく。
天界の牢獄を抜け出した大罪人がすぐ近くにいる。
自らに課せられた使命を今一度思い起こし、逸れてしまった思考を再び元へと戻した。
大罪人を捕らえ、天界へと転送する。そのために俺は下界まで奴を追って来たのだ。
スゥ、と息を吸い、湿った空気を肺に送り込む。
ゆっくりと息を吐きながら瞼を閉じ、意識を集中させる。
次の瞬間、ピリリと肌を刺すような気配がした。全身の筋肉が引き締まり、強い使命感が自分を突き動かす。
星の瞬く夜空の下、住宅街の屋根の上を駆けて、駆けて、駆けて、
(『鎌』が使えないのは、アイツも同じはず)
奴と対峙した瞬間を想定し、俺は使命を果たす覚悟を決めた。
――はずだった。
《待ってるよ、ミタ》
ふと、彼女の言葉が頭を過ぎった。
(はは。どうして)
定めたはずの覚悟は揺らぎ、再びあの感覚が肺を埋め尽くしていく。
このまま彼女を一人残して俺が居なくなってしまったら、彼女はどうなってしまうのだろう。
彼女を苦しめた元凶は、紛れもなく俺だというのに。
夜空の黒の中で微かに瞬いていた光が、分厚い雲に遮られやがて途絶えていく。
向かい風がやけに冷たく感じた。
屋根の下の家は家族そろって夕食の時を迎えているようだ。子供達の賑やかな声に混じって、お笑い番組の音が聞こえてきた。
気がつけば俺は足を止めていた。
《待ってるよ、ミタ》
(どうして君の家に帰りたい、なんて)
黒々としたあの感覚が去来する。その瞬間、嘘をつき続けた自らの記憶が鮮明に浮かび上がっては、圧し潰されるような強迫観念に囚われた。
すべてはあの日に始まった。
「あの人」に下界に送られた日、俺は大罪人を追っていた。
幽かに感じる気配を辿りながら奴を探し回っていたとき、俺に突然あるものが見えた。
それはあまりに唐突で。
それは俺の目の前に広がった。
それは、少女が追われ、ナイフを持った男に切りつけられ死んでいく「未来」だった。
気がつけば、俺はその少女に力を与えていた。
死ぬはずだった彼女の運命を変えてしまった。
下界がどうなろうと、俺には関係なかった。
人間なんてどうでもいい、と思っていた。
《つ、使えないよ。こんな力》
そんな目で俺を見るな。
《お願い。返せないの? この力……》
折角助けてやったのに、何故辛そうな目で俺を見るんだ。
責めるような目で俺を見るんだ。
《なあ。何か勘違いしてないか? 君》
全部、君の所為だろ。
《俺は、君のことが嫌いだ》
《俺を面倒臭いことに巻き込んだ、君のことが大嫌いだ》
《折角君は、俺の力を奪ったんだから》
君が死神の力を手にして何を感じようが、どう苦しもうが、関係ない。
君の所為なんだよ。
《ごめんね、私がミタの力奪ったりして、こんなに迷惑掛けて》
俺が与えた力で、君がどう苦しもうが。
《私は、受け入れるよ。この力を。この運命を》
俺の所為で、君がどう苦しもうが。
俺の所為で……。
そうだった。
突然「未来」が見えて、咄嗟に君を助けようと思ったのは、この俺だ。
君はあの時、あの場所で死ぬはずだった。
それ捻じ曲げ、君に死神の力を分け与えたのは、この俺だ。
君の運命を捻じ曲げ、心の優しい君を苦しめたのも。
君に嘘をつき、君にすべての罪をなすりつけたのも。
君の手を黒く染めてしまったのは、
初めから全部――この俺だった。
ずっと心の奥底で感じていた焦りを、全部君の所為にしてしまった。
沸き起こっていた得体の知れないあの感覚を誤魔化すために、君に苛立ちをぶつけてしまった。
《それでも、君が死んだら困るんだよ》
《頼むから、死んだ方が良かったなんて、もうそんな事言わないでくれ》
君を苦しめたのは、俺だというのに。
口を突いて出るのはいつも自分を守るための言葉ばかり。
《折角君は、俺の力を奪ったんだから》
俺が与えた力で友人を守った君が泣いていた時、俺はようやく理解した。
腹の底を渦巻いていたあの感覚の正体を。
それが罪悪感なのだと、俺はその時点でようやく気がついた。
人間なんて、どうでもいいと思っていた。
でも、君だけは守りたいと思ったから。
――守らなければいけないと、思ったから。
俺は歯を食いしばり覚悟を定めた。
屋根の下から幸せそうな家族の声が聞こえた。賑やかなテレビの音を背に、俺は再び前へ進む。
《待ってるよ、ミタ》
未玖に本当のことを告げることはできない。
それでも、
(ああ。帰るさ、必ず――)
必ず帰ってみせる。
俺は使命を果たして、そして君を守る。
俺の所為で苦しめてしまった君を、一人にさせないために。
第二章 守る決意 完
―――――――――――――――
次章予告。

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英晴
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英晴
2021年2月14日 9時34分
優月 朔風
2021年2月14日 14時21分
英晴さん、沢山の応援をありがとうございます……! 英晴さんにとって凄く大切なものですよね。貴重なお心、大変励みになりました。大切に使わせていただきます! 第二章までお読みくださりありがとうございました。第三章もお楽しみいただけるよう、引続き試行錯誤しつつ頑張りますね✩.*˚
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優月 朔風
2021年2月14日 14時21分
みんとす。
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みんとす。
2022年3月6日 8時44分
優月 朔風
2022年3月6日 10時00分
みんとす。さん、第二章も読了くださりありがとうございます!! 第三章では警察が出てきたり、死神の使命を掘り下げたりと、物語が少しずつ展開していきます。 またのお越しを心よりお待ちしています✨
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優月 朔風
2022年3月6日 10時00分
Planet_Rana
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Planet_Rana
2021年2月4日 20時47分
優月 朔風
2021年2月4日 23時31分
あああありがとうございます〜。゚(゚´ω`゚)゚。尊敬する御方にお読みいただけるのは嬉しいことです……! というかこのスタンプ良きですね……!
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優月 朔風
2021年2月4日 23時31分
朽縄咲良
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朽縄咲良
2021年8月21日 22時11分
優月 朔風
2021年8月22日 2時44分
朽縄さん、またお越しくださり、第二章読了ありがとうございます! 「尊い」とても励みになります(;;) あらすじの「自分を守る」「誰かを守る」はコンプリートしました。次章から若干ラブコメ要素が入りますが、またお楽しみいただけますように✨
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優月 朔風
2021年8月22日 2時44分
藤しゃわ
ビビッと
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2021年10月10日 22時14分
《君が力を奪ったなんて、嘘なんだ。》にビビッとしました!
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藤しゃわ
2021年10月10日 22時14分
優月 朔風
2021年10月11日 0時12分
藤しゃわさん、ビビっとありがとうございます✨ 丁度最新話でこの部分に関するお話を進めていたのでタイムリーだ! と思いながら。。 お気に召しましたら是非、第三章も遊びにいらしてくださいませ(*´˘`*)♥
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優月 朔風
2021年10月11日 0時12分
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