彼女は周囲を見渡した。
死臭の漂う地下空間を、低い天井につけられた一つの電灯が照らしている。部屋の中央に吊るされた電灯が揺れる度、床に落ちた影がゆらめいた。
足元には無数の白い棒切れが転がっていた。中には丸い形をしたものも紛れており、無造作に鏤められたそれらの意味を理解した彼女は、吐き捨てるように言葉を零した。
「理解不能な趣味ね」
目を閉じて、深く呼吸を一つ。自身の黒鎌を思い浮かべながら右掌に意識を集中させる。やがて周囲に青色の光が集まっていったものの、光の粒は霧散し、彼女の思い描いた黒鎌が現れることは無かった。
「やはりこちらの世界では呼び出せないかしら」
薄汚れた学生服を纏った彼女は「成程ね」と呟いてから微笑を浮かべた。
壁から離れたところに小さなテーブルがあった。白いクロスの掛けられたテーブルの上に、冷え切った紅茶が乗っている。机の下に視線を移すと、血溜まりの中で中高校生くらいの少女が倒れていた。
少女に手を伸ばす。青白く染まったその頬は冷たく、魂が既にここに無いことを悟る。
「可哀想に」
ひび割れた壁の隙間から風の音が鳴る。ぶら下がった電灯が揺れる度、彼女の影が静かに揺らいだ。
見開かれた少女の両目を閉じながら、「蒲田未玖」は淡々と呟いた。
「大丈夫。今、弔ってあげるわ」
―――――――――――――――
第六十六話 悪意、慈愛。
―――――――――――――――
細い階段を上っていく。扉を開くと、暖炉の間が広がっていた。
ローテーブルを挟んで二つのソファが並ぶ。目的の人物は奥側のソファに座っていた。
「どうして、貴女――」
――壊してしまったはずなのに。
長い髪を三つ編みでまとめた少女は驚愕し、ソファを立ち上がった。
嗜んでいた紅茶が手から零れ落ちる。床の上でパリンという音が鳴ると同時に、割れたカップから液体が溢れ出し、絨毯にじわりじわりと染みを描いていく。
「す、素晴らしいわ。なんて素晴らしいの」
暖炉の薪が音を立てて崩れ落ち、火の粉が舞う。
手元の人形を抱き締める少女の腕に無意識のうちに力が籠った。首を縫い付けたばかりの人形がしな垂れる。腕の中でしな垂れた鼠は依然として死んだ動物の目をしていた。
「そう、貴女が。貴女こそが、絶対に壊れない私だけのお友達になってくれるのね」
静かな洋館に時計の秒針の音が響く。
壊したはずの「人形」が自分の元へ帰ってきた。少女は歓喜し、声を震わせた。
「さっきのこと、謝るわ。貴女もいなくなってしまうと思ったら焦ってしまったの。ごめんなさい」
「…………」
「でも私、ようやく見つけたのね」
三つ編みの少女アイは帰ってきた「人形」の元へ歩み寄った。
フリルのついた白黒のドレスが揺れる。少女は黒い瞳に光を宿し、扉から現れた彼女の手を両手で包み込んだ。生きた「人形」の華奢な手首を擦りながら、少女は唇の先から小さく声を漏らした。
「大丈夫。これからは絶対、もっと優しく出来るはずだから」
――だから、また私だけのお友達になってくれるでしょう?
白髪の少女はキラキラと瞳を輝かせた。
少女の頬が暖炉の炎に照らされ赤く染まる。純真な子供の姿をした悪魔は歪な笑みを浮かべていた。
「…………」
少女の願いを聞いた彼女は、作り慣れた微笑みを貼り付け口角を吊り上げた。
☆★☆
明かりの消えた暖炉の間に、コポコポと紅茶を淹れる音が響く。
華やかな茶葉の香りが鼻腔に広がっていく。時折鳴る匙の音。絨毯の上で軽やかに足を遊ばせながら、少女は子供のように声を弾ませた。
「そう! 紅茶は甘いものが好きよ。お砂糖を舌の上で転がせていると何だか幸せな気分になれるもの」
ティースプーンで紅茶をかき混ぜながら、彼女は三つ編みの少女の言葉を聞いていた。
ロッキングチェアが前後に揺れる。
「ねえ、貴女。お人形はどんなのが好きかしら? 白い肌のお姫様? 格好いい王子様? それとも、動物さんの方がいいかしら」
「…………」
「お人形はね、いつも私を支えてくれたのよ。でも貴女は特別ね」
死神アイは瞳を輝かせ、歪んだ笑顔を咲かせた。
「貴女はきっと、壊れないでいてくれるものね」
ギシリ、と少女の腕を縛る縄の音が響く。異臭が充満する部屋の中で、椅子に縛られた死神アイは嬉々とした様子で瞳を輝かせた。
森の奥にポツリと佇む退廃した洋館。周囲に人間の気配はなく、灯りの消えた暖炉の間に窓から月明かりが差し込む。
「最後に教えてあげるわ」
窓の外で強く風が吹き、木々が音を奏でる。
彼女は椅子に縛られた白髪の少女を見下ろし、淡々と告げた。
「死神の力には幾つか種類があるのよ」
手に持った紅茶を一息に飲み干してから、彼女は深く息を吐いた。
ローテーブルに陶器のカップを置く。茶葉の苦みが口内に広がっていく。
「一つは、空間を」
コツン、コツンと革靴の音が響く。
「一つは、時間を」
生温かい空気が少女の肌を撫でる。
「一つは、世界を」
充満する腐卵臭が鼻腔の奥を突く。
言葉を聞いた三つ編みの死神は殊更、瞳を輝かせた。
ロッキングチェアが前後に揺れる。
「ふふ。あはは! 死神、ね」
「…………」
「やっぱり、そう。私ようやく見つけられたのね」
ギシリ、と少女の腕を縛る縄の音が響く。
あるはずのない光を漆黒の瞳に宿しながら、少女は目元を弓なりに曲げ、にんまりと微笑を浮かべた。
「きっと貴女が、あの人の言っていた仔羊なのね」
「……『あの人』?」
「うふふ。うふふふふ」
白髪の死神は歓喜に声を弾ませた。全身に浴びた液体に身体を震わせる。腰まで届く三つ編みに染み込んだそれは徐々に気化し、華やかな茶葉の香りは異臭に掻き消されていく。
薄れゆく思考。霞んでいく視界。時折噎せ返るのも気にせず、少女は絨毯の上で足を遊ばせた。
ロッキングチェアが前後に揺れる。
「私を解放してくれた死神だわ。黒髪の……」
えっと、名前は何て言うのかしら――少女は首を傾げた。
雲が晴れ、窓際から差し込む白い光が足元を照らす。
椅子に縛られた死神を見下ろし、彼女は告げた。
「下界で実体化したあなたの魂はこちらの世界の理から干渉を受ける。無事では済まないかもしれないけれど」
「…………?」
「もし向こうに辿り着けたら、総督様にこう伝えてくれるかしら」
「『あの方』に? 貴女、一体何を言っているの……?」
突如、強く風が吹きガラス窓が音を立てる。
「私はまだ消えていない、と」
ロッキングチェアの動きがピタリ、と止まる。
少女の瞳に映ったのは、彼女の掌の中の箱。側面についた焦げ色の紙やすり。棒切れの先についた濃色の先端。
少女はようやく自らと周囲に漂う異臭の意味を理解した。「貴女、何をするつもりなの」拘束された腕を動かそうとするも、軋んだ縄の音がするのみだった。全身に浴びた液体は徐々に気化していく。暖炉の炎が消えた部屋で、寒さも分からないはずなのに寒気が止まらなかった。
「おかしいわ。だって、あの人は言っていたもの」
静かな洋館に時計の秒針の音が響く。
「貴女は慈愛に満ちた存在だと。きっと私の心の穴を埋めてくれると」
少女の元に帰って来たはずの人形は、黙ったまま少女を見下ろしていた。
視界の端に薄汚れた縫いぐるみの姿が映る。テーブルの上で俯いた鼠は相変わらず死んだ目をしていた。縋るように視線を向けたけれど、継ぎはぎだらけでボロボロになった人形が少女と目を合わせることはなかった。
「愛。愛、ねえ……」
月明りに照らされた「蒲田未玖」の顔に影が落ちる。
「滑稽ね。死神アイ」
あの時からずっと、彼女は暗闇の中にいた。
何十年、何百年。時間の感覚すら分からなくなる程の長い間、血染めの画廊の中で彷徨い、孤独に怯え続けた。
やがて同じ過ちを繰り返す来世の自分を見て、彼女は確信した。
今まで彼女の求めてきた理想は全て、幻に過ぎなかったと。
「愛」の形をした幻の本当の姿は、悉く、醜い「悪意」に過ぎなかったのだ、と。
(私はもう騙されない。そんなものに縋ったりしない)
《なあ。ここから一緒に抜け出すんだよ》
《アンタはちゃんと帰れよ》
――今、弔ってあげるわ。
彼女は心中で呟いた。
掌の中から炎を纏ったマッチが落下していく。
ゆっくり、ゆっくりと炎が残像を描く。やがて発火物は囚われた悪鬼の膝上に着地し、勢いよく燃え広がっていく。悪魔が上げた悲痛な断末魔は、燃え盛る赤に呑まれて掻き消えた。
「さあ、始めましょう」
炎が暖炉の間を、廊下を、館を呑み込んでいく。
燃え盛る炎を背に、彼女は低い声で吐き捨てた。
「この世に蔓延る全ての『悪意』に、復讐を」
☆★☆
外には澄んだ空が広がっていた。
月明かりが地上を照らす。薄汚れた学生服を纏った少女はスゥ、と深く息を吸い込んだ。
「…………」
冷たい空気に混じって森の香りが肺に広がっていく。
それから彼女はゆっくりと白い息を吐いた。誰もいない夜中の丘に冷たい風が吹き、久方振りに感じた寒さに彼女は身体を震わせた。
暫くの間、物言わぬ月を眺めていた。
満月の輝く冬の空は絵画越しに眺める景色とは比べ物にならなくて、思わず感嘆の声を漏らした。
「下界の空はこんなに綺麗なのね」
栗色の髪がふわりと舞う。月明かりが少女の頬を照らす。
少女の背後で、荒廃した洋館が赤い炎に呑まれていく。
「あなただって、本当はずっと解っていたのでしょう?」
視線を下ろすと、傷一つない左掌が映った。
埃で汚れた制服の裾。手首に巻いた腕時計の針は同じところを行ったり来たりしていた。
《もしまた誰かに襲われたりして危ない目にあったとしても、その力は君を守るよ?》
いつの日か、死神の彼が告げた台詞が脳裏を過ぎる。
「皮肉なものね」
友達のため。家族のため。大切な人のため。同じように苦しむ誰かのため。
そんなものは嘘に過ぎなかった。
「結局は全部、何もかもが、自分のために過ぎなかったのだから」
人殺しをどれだけ正当化しようとしたところで、行きつく先は虚しい現実だけ。
それならばもう、止めにした方がいい。
《何度選択を間違えたって、何度それを繰り返したって、いつか私達は前に進めるはずよ》
《だからきっと、その先に『正しい未来』があるのだと、私は信じているわ》
くだらない幻想を追い求めるのは。
難しく考えすぎていた。世界は、このゲームは、思ったより単純だ。
「そんなもの、初めから存在する筈がなかったのだから」
森の中を進む。
塞がった胸の傷跡が時折痛んでは、あの日の光景が脳裏を過ぎる。いつまでもこびりついて消えない鈍い痛みに顔を歪ませ、彼女は胸を強く掴んだ。掌の中で制服のリボンがくしゃ、と縮む。荒い呼吸を抑え、彼女は縋るように頭上を見上げた。
月が黒い雲に隠れていく。
やがて月明かりは消え、薄暗い闇が地上を覆った。
「…………」
何年、何十年。あるいは、何百年だろうか。あの闇に閉じ込められてから一体どれだけの年月が経ったのか、彼女には分からなかった。
長い長い、長過ぎる時間の中で彼女に出来たことは、自分の過去を映した「絵画」を眺めることだけだった。
《助けて、総督様……もう……ここから出して……》
《お願い……ですから……》
自分の記憶を映した「絵画」と向き合ううちに、彼女は絶望を突き付けられた。
《そうよね……。誰も……助けにくるはずないじゃない……》
《だって私は……もう死んでいるのだから……》
自分の死に際を映した「絵画」と向き合ううちに、彼女の心は擦り減っていった。
「何とも愚かで滑稽よね」
《きっと『正義』なんて、『愛』なんて存在しなかった》
《『神』なんて存在しなかった》
「私はもう騙されない。そんな幻に縋ったりしない」
月を覆い隠していた雲が晴れていく。次第に痛みが引いていき、苦しかった呼吸も元へ戻っていく。
道の真ん中で立ち止まり、彼女はギリ、と奥歯を強く噛み締めた。
「私達はもう幻を、その裏にある『悪意』を、見抜くことができるのだから」
『ミツケタ』
どこか遠くの方で、懐かしい声が聞こえた気がした。
―――――――――――――――
次回予告。

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武藤勇城
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武藤勇城
2022年4月15日 8時01分
優月 朔風
2022年4月16日 0時05分
武藤さん、お久し振りです! またお読みいただけて嬉しいです〜!! 続きも頑張ります💪✨
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優月 朔風
2022年4月16日 0時05分
藍ねず
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2022年1月12日 15時15分
《「この世に蔓延る全ての『悪意』に、復讐を」》にビビッとしました!
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藍ねず
2022年1月12日 15時15分
優月 朔風
2022年1月13日 23時17分
数百年分の怨念が籠った言葉ですね。。「『悪意』を見抜くことが出来るようになった」という言葉の意味するところについては、第六章以降でも説明を加える予定です。
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優月 朔風
2022年1月13日 23時17分
seokunchi
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2022年1月6日 14時37分
《少女はようやく自らと周囲に漂う異臭の意味を理解した。「貴女、何をするつもりなの」拘束された腕を動かそうとするも、軋んだ縄の音がするのみだった。全身に浴びた液体は徐々に気化していく。暖炉の炎が消えた部屋…》にビビッとしました!
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seokunchi
2022年1月6日 14時37分
優月 朔風
2022年1月6日 18時30分
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優月 朔風
2022年1月6日 18時30分
希乃
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希乃
2021年12月30日 15時10分
優月 朔風
2021年12月30日 22時37分
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優月 朔風
2021年12月30日 22時37分
白井銀歌
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2022年1月13日 2時24分
《「大丈夫。今、弔ってあげるわ」》にビビッとしました!
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白井銀歌
2022年1月13日 2時24分
優月 朔風
2022年1月13日 15時27分
白銀さん、いつも応援くださりありがとうございます!! 第一話から、ずっと心の支えになっています。 前世の彼女と未玖の行末を、運命に翻弄される第五章の結末を、どうかお時間宜しい時に見届けていただけましたら嬉しいです。
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優月 朔風
2022年1月13日 15時27分
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