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つらいことは忘れられない

「こんなことも出来ないのか!」  ――ごめんなさい。 「お前は本当に役立たずだな!」  ――そんなに怒鳴らないで。 「お前なんか生まれて来なきゃ――」  ――そう、だね。  私だって、こんな世界になんて生きていたくなかったんだ――  ☆ ☆ ☆  過去は過去だと、皆口々に言う。  しかし、私は過去とは現在を形作っている一つであると考える。  過去の出来事があったからこそ、今の自分がいるのだ。  ――そう。  だから、過去の出来事がなければ、私は男性というものにここまで怯えなかったのだと思われる。 「ご、めん……なさ……」 「え!? いや、こっちこそごめんね。怪我はないかな?」  街中で男性とぶつかってしまい、私はひどく怯える。  視界が真っ黒になって、頭の中でガンガンと鈍い音が鳴り響く。  差し出された手に、ビクッと肩が震えた。  ――また、叩かれるかもしれない。  そう思った私は、その人の顔を見ることも出来ずに立ち去った。  幼くて、弱くて、脆い自分は、逃げることしか出来なかった。  ――嫌だ嫌だ嫌だ!!  自己嫌悪に苛まれる。  私は、なんてダメな人間なのだろう。  そう思いながら曲がろうとした角で、また誰かとぶつかる。 「いたっ……!」 「いたた……あら、だいじょうぶ?」  優しそうな女の人の声。  私と同い年ぐらいの、少し拙い舌使いで訊いてきた。 「だ、だいじょうぶ……です……」  おそらく、それが私と(ふたば)先輩の初めての出会いだった。  ☆ ☆ ☆  早く、もっと速く!  私は逸る気持ちを抑えられず、足早になる。  ここは、私が通っている乗馬クラブ。  ここには、私にとってのオアシスがある。  オアシスというよりも――その子はメシアだ。 「おはようございます。今日も来ました!」  私が嬉しさを噛み締めながら言うと、その子も嬉しそうに細長い耳をこちらに向けてくれた。  そして、餌おけがある小窓から顔を出してくれる。 『おはよう。今日も来てくれたのね』  そう言っているような様子で、私を歓迎してくれる。  その子は人間ではない。  スラリと長い脚。細長い顔。巨大な体躯。  それらの情報と、乗馬クラブということから察しがつくだろう。  その子はサラブレッド――馬だ。 「シロー! 会いたかったですー!」 『あらあら、相変わらず甘えん坊さんなのね』  私には動物が何を言っているのか、ある程度理解できる。  それは物心ついた時からで、それを疑問に思ったことはない。  むしろ、こういう世界が当たり前だと思っていた。 『今日はどんな話を聞かせてくれるの?』  シロが膝を折りながら促してくる。  私が来るのを心待ちにしてくれていたようだ。  それがとても嬉しくて、私は心を躍らせながらシロの隣に座った。  シロという名は、私がそう呼んでいるだけの――いわゆるあだ名。  本当は『ハクビジン』という美しい名前がついているのだが、幼い私はその名前の良さに気づかず、呼びやすいからとシロと呼んでいた。  シロという呼び名の理由は単純で、シロの身体が白いから。 「でねでね! その時私はそこでこけちゃったんですけど――」 「コラァー! どこ行きやがった!!」  その声が聞こえた途端、私は全身が震え上がったのを覚えている。  あの、野蛮で野太い声が、小さな身体に痺れを起こさせる。  自分にとっての“悪魔”が、近づいてくる証拠だった。  私が竦んで声も出せずにいると、シロがおもむろに立ち上がる。 「……シロ?」  その様子に、なぜか言いようのない不安が込み上げてくる。  まるで、何かに立ち向かおうとしているような様子にかっこいいと思いつつ、同時に恐怖も芽生えた。  ――それはダメ。 『沙織(さおり)。下がっていなさい』  ――そんなことしたら…… 『あなたと出会えてよかったわ』  ――もう二度と、あなたに会えなくなる! 「いや……いやだよぉ……」 「ここにいたか、高宮(たかみや)沙織(さおり)。さあ来い。お前をちゃんと()()してやるから」  先生(あくま)に見つかり、私は無意識に後退した。  ちょうど立ち上がったシロに隠れる形になる。  私の腰まで伸びた黒い髪も、シロの白さに吸い込まれそうなほどだった。 「何してんだ! さっさとこっちに来い!!」  厩舎全体を震わすような大きな声に、私は耳を塞いでうずくまった。  頭の中で、工事をしているようなガンガンという音がする。  その音はどんどん大きくなって、小さな脳みそには耐えられないほどの痛みが頭の中を駆け巡る。  ――大きな音は嫌いだ。  こんな風に、頭が痛くなってしまうから。  目を塞げばある程度は光を遮断できるが、いくら耳を塞いでも音を遮断することは出来ない。  むしろ耳を塞いだ方が、音が反響するような気がしてしまう。 「なんだ……? なんなんだお前! こっちに来るな!」  目も塞いで身体を小さく丸めていたため、声だけしか聞こえなかったが、先生は何かに怯えているようだった。  いつの間にかシロの部屋の扉が開いていたようで、シロの(ひずめ)の音が厩舎の中で鳴り響く。  いつものようなカッポカッポという軽快な音ではなく、ガッガッというコンクリートを削るような鋭い音がした。 「おい……こんなことしたら、お前は――!」  そう言った後、少しの間があって先生は叫んだ。  いつもとは違う悲痛な叫び声で、痛みを必死で抑えているような感じがした。 『さようなら、沙織』  その声だけは、やけにはっきりと聞こえた。  いつもはなんとなくこう言っているのだろうという憶測でしかなかったのに。  私は臆病だから、シロがそう言った時も目を開けることが出来なかった。  そのシロの声を機に、私は動物が何を言っているのか、何もわからなくなってしまった。  ☆ ☆ ☆  私は全力で走った。  もう、私を守ってくれるものはいない。  それがとても寂しくて、とても不安で、とても悲しかった。 「シロ……! シロ……っ!」  もう限界だ。  このままじゃいずれ、私はダメになる。  そう思いながら曲がろうとした角で、誰かとぶつかる。 「いたっ……!」 「いたた……あら、だいじょうぶ?」  優しそうな女の子の声。  私と同い年ぐらいの、少し拙い舌使いで訊いてきた。 「だ、だいじょうぶ……です……」  その女の子はシロと雰囲気が似ていて、思わず見惚れる。  肩にかかるかかからないかぐらいの短い黒髪に、自然を現したような深緑色の瞳。  女の子の姿を見れば見るほど、シロに重なる。  スラリと細長い脚。  目元が少し垂れていて、おっとりしたような印象のある顔立ち。  それらが、よりシロっぽさを強調していた。  そして、何よりも―― 「あらあら、怪我してるじゃない。ちゃんと消毒しておかないとダメよ?」  この口調が、声が。  シロにそっくりだったのだ。  その時から、私はこの女の子しか見れなくなった。 「あ、ああああの……っ!」  人見知りを発動してしまい、上手く喋れなかった。  だけど、その女の子は目を丸くした後、にっこりと笑って。 「何かしら?」  優しく微笑んでくれたのだ。  その笑顔が、私の心臓をきゅっと萎縮させる。  ただでさえ人見知りなのに、こんな調子で上手く話せるのだろうか。 「えと……その……あ、あなたの名前……知りたい……です……」 「名前?」 「は、はい……」 「ふーん……?」  出会ったばかりの人に名前を訊くのは、少しおかしかっただろうか。  いや、少しどころではない。かなりおかしい。  それに気づき、私はひどく後悔した。  でも、女の子は面白そうに笑って、私に名前を教えてくれた。 「私は嫩。渡島(おしま)(ふたば)よ」  その名を聞いて、私はパァーっと目を輝かせる。  私の中で、その名前が特別なものになった。 「私は、高宮沙織です……!」  その出会いは、紛れもなく――運命だった。

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