ノーマディック・スプライサー

読了目安時間:18分

Case.12 パラノイア

 ぼくは、ぼく自身を人質にしてノマドの協力を取り付けた。  そしてチョールヌイは「今からすぐにデュプリケートを試して欲しい」と願い、ぼくはそれを了承した。  記憶の書き出しや接続には被接続者が覚醒していないことが大前提であるため、普段は信頼関係とノマドの催眠波によってクライエントを睡眠状態にさせて行う。  その段になった際にノマドは『わたしが眠らせなければアクセスはできないわね?』と少し気を持ち直したようだったが、チョールヌイが懐から取り出した「夢見る薬」によって打ち砕かれた。  彼女は社会的信用(キャッシュ)のほうでも抵抗を試みたが、売れっ子小説家だった彼には問題にすらならなかった。  そもそも、クライエントとの信頼関係は、記憶の初期アクセスポイントの決定や、トラウマのファクターのあたりを付けるためのもので、「なんでも構わないから負の記憶の復旧を要求してくれ」などと言う狂人には不要なものだ。  彼の記憶の複製の中で適当に行動を起こし、それを追体験して貰うだけである程度は達成されるだろう。  もっとも、そんなデタラメな行為を実際の脳内で行えば、彼の精神がどうなるか分からない。  だが、ぼくはそれも試すつもりだ。  こんな記憶操作の実験に都合の良い相手はもう見つからない。 『彼は廃人になるわ。なればいいと思うけれど』  ぼくたちは試験機とはいえアンドロイドだ。「ヒトのためにあれ」。  見つからないアイデンティティの代替品には心理プログラムにいくつもの「バイアス」を走らせて回避するつもりでいる。  チョールヌイはテロリスト、あるいは影響力のある狂人だから社会のためにならないし、今のぼくらは人間として振る舞っており、彼は他人に過ぎず、肉親であるノマドを悲しませる元凶だから仕方がない。  政府や警察機関も危険思想には消えて貰ったほうが良いと考えるだろう。 『それでも、できればやめてほしい。わたしもやっぱり自信が無いから』 『自信が無いということは、そのぶん成功体験による獲得経験値は多い。それに、キミは情報処理の特機で専門家だ』 『わたしをラベリングしないで。その専門家が自信が無いって言ってるのに』  いくつもの言いわけ、禁止を弾みにするカリギュラ効果。  ノマドが嫌がれば嫌がるほど、ぼくのチョールヌイの記憶への興味が増すようだった。  それもまた感情の経験値であり、負を求めるチョールヌイに共感(シンパシー)正しさ(コレクトネス)を感じていることの証左でもある。    自己観察をすれば、ぼくの行いは「クズ」といえる。本当のパラノイアはチョールヌイ・カラマーゾフなどではなく、ぼくなのかもしれない。  倫理だけでなく、論理的にもいくつかの矛盾を孕んでいるだろう。  だが、それだけのことを強引に突破してまで知りたいものの先に……ひょっとしたら、失われたメモリーに関わる何かを感じていたのだ。 「チョールヌイの服用した薬物は、体調が万全でも二時間は眠り続けられるという話よ。今回は、タイムリミットよりも先にわたしの処理限界が来るのが早いわ」  青年は肘掛け椅子に拘束されて穏やかな寝息を立てている。  いっぽうでノマドは彼の前で仁王立ちして鼻息も荒い。 「脱げばもっと行けるんじゃないか?」 「バカなこと言わないで。様子見のデュプリケートでフル稼働させてどうするの? それに、眠っていようとも、彼の前で肌を晒したくなんてない」  ノマドは身を守るカーディガンの上から自身を抱いた。 「そんなに緊張することもないさ」 「誰のせいだと思ってるの? 着衣状態で十パーセントの情報量をラインに設定にするわ。そこに達したらカット・アウトよ」  口調は〈怒り〉だが、口元や目元は〈心配〉と〈悲しみ〉。  装いでないほうがぼくに向けられているのを感じるとぼくは〈嬉しい〉。やはりパラノイアだ。 「アクセスを開始するわ……」  ノマドは眠る狂人の額へ乱暴に人差し指の爪を喰い込ませた。 「ぼくにはこの拘束も無意味だろうな」  ぼくもまたイスに腰掛けて、ベルトで固定されていた。推定狂人の記憶の世界では何が起こるか分からない。 「いってらっしゃい、兄さん」  ぼくの額には爪ではなく、指の腹がそっと押しあてられた。  感覚がフェードアウトする。電子の娘を通じ、推定狂人は推定狂人の世界へと旅をする。  記憶への突入時お決まりの感覚の津波。クライエントが己の人生で見てきたであろう無数の景色と、聞いたであろうことば。  意味を捉える前に切り替わる世界。  その荒波はチョールヌイの倍を生きていたジェムソン氏のものよりも長く感じた。  ……いや、長過ぎた。  真っ暗な世界の中、つぎはぎの映画が再生され、無音の真空の中で、でたらめな歌がリピートされる。  何気ない日常の断片。コーヒー。腐った果物。何かを注射するシーン。  キーボードを叩くチョールヌイ。核爆発。謎の老人がタイプライターを机から払いのける映像。  柔らかい、硬い、痛い。苦い、甘い、酸っぱい。怒り、悲しみ、笑いと快楽。  そのほか、そのほか……ほか、ほか!  それらは観測不能なほどに加速をし、イチとゼロの無意味な情報へと移り変わる。  脳神経の一本一本が過熱している気がした。回路という回路が融解して、自己が溶けて無くなるような。  電子に全てを委ねているぼくには、助けを求めることすらできない。  ……ホワイト・アウト。  視界が戻れば、そこはどこかの夕暮れの街並みだった。  レンガ舗装の道に、同じくレンガ造りの家々やビルディング。遠くには教会らしき建物が鐘を鳴らしている。 「死ぬかと思った。単独だとアクセスの時点で詰みだったか?」 『安全そうな記憶領域をシークするのに時間が掛かっただけよ』 「彼はやはりパラノイアか?」 『まともとは言えないわね。まだ若いのに破損チャンクがあっちこっちに存在してるの。カフェインやアルコールの中毒者なのかも。でも、それ以上に“宇宙”が多過ぎて』 「宇宙?」 『彼はちょっと、宇宙について考え過ぎなのよ。重力や空気が宇宙空間的な状態の記憶の世界がたくさん見えた』 「興味があるな」 『彼は宇宙物理学は専門じゃないみたいだけど、人間が宇宙空間に放り出されたらどうなるかは理解できてる。入ればどうなるか分からないわ』 「ぼくが人間だと思われてなかったり、超越者と思われているかも」 『あなたに壊れて欲しくなくて苦労してここを探し出したのに』 「すまない。とにかく、少し歩いてみよう」  路上に設置されている灯りは「ガス灯」だ。  ごくごく初期のガソリン以前の自動車が、蒸気を吹いてヒトのために舗装された道を走っている。  道ゆく人はステッキを持ったヨーロッパ紳士であったり……「ちょんまげ」を結ったアジア系民族衣装姿だったり……オールド・カルチャーでも人気の「レトロ・フューチャー」のぴったりしたボディスーツとパーマの女性……それから原始人に……頭と目が異様に大きく背の低い「宇宙人」だった。  静かだ。彼らは会話をしているそぶりをみせていたが、それらの声は聞こえてこなかった。  聞こえている音はふたつ。鐘の音と、歴史資料で耳にしたことがある音……「射影機が回りフィルムを送り出す音」だけが聞こえる。 「映画の世界だろうか。なんとなく景色に違和感を感じるが、これならルネの楽器やぬいぐるみの世界よりはまともじゃないか?」 『……あの子もまともだったとは言い難いと思うけど。景色の遠近感が狂ってるのよ。認知が狂うのは精神疾患の一種よ』  ノマドはたっぷりと遅れて返事をしていた。  まだ検証中だが、彼女はルネの話題を出すと不機嫌になる傾向があると思われる。 「散歩を追体験したところで、何も思い出さないだろうな。なにかアクションを起こさないと。部屋や保管庫的なものは無いだろうか」  建物のドアノブに手を掛けるも、手応えが無い。ロックが掛かっているというよりは、ドアを模した壁という感じだ。  ビルディングのショーウィンドウに何か飾ってないかと思い、近づいてみる。 「あれ? カラッポだな。何かが置いてあったように見えたんだが」 『えっ? わたしからは西洋の甲冑が飾ってあるように見えるわ』  ノマドが言うも、ぼくには何も見えない。ほかのショーウィンドウを見ると、何かが飾ってるように見えた。  接近するが、どいうことだかカラッポだ。しかしノマドには「初期型のカメラ」が飾ってあるように見えるという。 『ハリボテの世界かしら』 「ひょっとしたら、彼は狂人でも思想家でもないかもしれないな。それ未満だ」 『ただの虚勢だったってこと? だとしたらわたしたち、バカみたいじゃない』 「そうかもな。見ろよ、鹿がソリを引いて空を飛んでいるぞ。赤い服の老人が乗っている」 『何かのオールド・カルチャーで見た気がする。あれは鹿でなくて、トナカイじゃないかしら?』 「地上からじゃ区別がつかないな。あっちの馬車にはカウボーイが乗ってるぞ。ここは西暦前期のヨーロッパらしい景色なのに」 『向こうの婦人が差している傘は現代のものだわ。小道具が手抜きね』  ナビの声は幾分か弾み始めていた。  だが、その声が着地する間も無く、傘を差した夫人が建物ごと吹き飛んだ。骨組み(クリノリン)の入ったスカートの中身は真っ黒な空洞だ。 「なんだ!?」  視界を「黒い何か」が高速で通り過ぎて行く。 『上から見たら分かる。町中に突然、蒸気機関車が現れたのよ!』  蒸気機関車。ぼくはその雄姿に興味があった。それが走り去る前に視界に納めようと距離を取る。  しかし残念ながら、機関車は家々を破壊しながら走り去ってしまった。 『また来たわ!』 「幸運だな」 『違う! 正面!』  遠景の教会の塔が崩れた。聞こえる鐘の音は変わらず。  続いて正面のビルが粉々に砕け散った。だがそれはレンガを飛び散らせるのではなく、無数の黒いブロック・ノイズを作り出した。  まるで空間そのものが壊れたみたいだ。 「ポッポーーーーーーーーーーーーーー!!」  汽笛? 違う、「声」だ。 「シュシュ、ポポ、シュシュ、ポポ、ポッポーーーーーーーー!!」 「は?」『え?』  レンガの町を吹き飛ばしながら現れたのは、蒸気機関車のイカしたフェイスではなく、ヒゲヅラ時代のチョールヌイの巨大な顔面だった。  彼は鼻から黒い煙を吐きながら急接近し、ぼくはその口の中へと呑み込まれた。  ……。  汽車の走る音がする。汽笛の音。チョールヌイの声で模したものではなく、本物のだ。  風を感じる。顔を上げれば、ぼくは荒野を走る蒸気機関車の客車の屋根の上に立っていた。 「場面転換か。ついていけないな」 『わたしはまだ処理が出来てるわ。それより、その子は誰?』  少し棘のある質問。  ぼくは腰のあたりに誰かがかじりついているのに気付く。  ピンクのドレス。カールしたゴールドの髪に宝石をちりばめたシルバーのクラウンを乗せて。 「お姫様ってやつか?」 「わたくしは姫でありませんわ! 悪い人に追われているのよ。助けて下さいまし!」  映画の世界はまだ続いているらしい。白い手袋にヒールの高い靴。どう見てもお姫様だが、彼女は大まじめに否定している。 『プリンセスは彼にとって何か意味のあるメタファーだったりしないか? キミのことも姫って呼んでただろ』 『……鳥肌が立つわ』 『とにかく、世界のほうがアクションを仕掛けてきたんだ。注意しないとな』 「キミは誰に追われてるんだ?」 「誰って、あれが見えませんの?」  白い手袋が指差す先には「巨大な白い座薬」にまたがる全裸のチョールヌイが居た。それは宙を浮き、列車と並走していた。 「こんにちは。私は作家なんですが、ずっと座ってタイプするというのは、意外とつらいんですよ」  全裸のチョールヌイは悲しげだった。 「あなたは痔ですの?」  お姫様が尋ねた。 「痔は人々がイスに座って思考するようになってからの永遠のテーマですよ。旧文明で使われていたという思考出力装置があればいいのに」 「うちのセバスチャンもお尻にバラを挿して痔になりましたわ」  お姫様がチョールヌイに手を差し出す。白かったはずの手袋の先のほうが赤く染まっていた。 「世界の変革を急がないと。明日を知りえない人類は誰かが導かねばならない」  座薬にまたがったチョールヌイは加速して飛び去って行った。座薬は虹色の軌跡を残している。 「さようなら。お尻の悪い人」  血まみれの手袋が黄色いハンカチをヒラヒラと振った。  ……頭が痛い。  いっぽうでこの状況を解析しているナビからは押し殺した笑いが届いている。 「もう助ける必要はないか?」 「いいえ、まだ助けが必要なかたがいるわ。セバスチャンよ」 「セバスチャンは執事か? どこに居る?」  まさか「彼のバラを引き抜け」なんて言われるんじゃないだろうな。 「セバスチャンはわたくしのお兄様ですわ」  急に頭の中でゴムボールをぶちまけられたような感覚に襲われた。 『あはは! お兄様ですって!』  ノマドが爆笑しているせいだ。  ぼくのAIがバラを「大嫌い」にカテゴライズしようとする。だが、妹のヘアカラーのことを考え、却下された。 「お兄様はすぐそこに居るのよ!」  プリンセスの指さす先に、またもチョールヌイが現れた。今度は赤いプロペラ飛行機に乗っていた。 「知識においては誰しもが双生児になってしまった。それでも思考や思想がヒトの成長と老化に差異を作る。  私は兄なんですよ。早く産まれ過ぎたということです。  世界は委縮している最中だから、つまるところ、ずっと昔に生まれているべきだったわけです。  汽車が終着点につく前に、折り返す手段を考えないと……」  彼は苦し気に頭を抱えた。操縦桿から手を離したからか、プロペラ機はバランスを失って荒野に墜落し、爆発炎上した。 「お大事に~」  お姫様は今度は赤いハンカチを振っている。なぜかその手首から先は異様に大きくなっていた。 『チョールヌイに妹はいたか?』 『いないわ。弟だけね。ちなみに、わたしにもお兄様がいるわ』  ノマドはまだ笑っている。 「あな……も、わたくしのお兄様になっ……ただけるの?」  姫はぼくを見上げて、途切れ途切れの言葉を掛けた。  屈託のない少女の笑顔。その瞳はノマドと同じエメラルドグリーンだったが……瞳孔の位置に「黒い四角形の何か」が張り付いていた。  それはレンガの町が砕けた時と同じもの、つまりはブロックノイズだ。 『ノイズが走ってる。笑い過ぎて演算に支障をきたしてるんじゃないだろうな?』  ノマドの笑い声はまだ頭の中で響いている。 『もう、笑ってなんていないけど……』 「わーい!」  唐突に視界が影に覆われた。  見上げれば、プリンセスの巨大な顔。彼女は頭部だけを巨大にして、それをフラフラさせている。  彼女の姿はところどころ、ブロックノイズにより「抜け落ちて」いた。 「わーい! お兄様が帰ってきたわ!」  汽車に並行して虹の軌跡がまた見えた。続いて、デスクチェアーに腰掛けたチョールヌイが現れて汽車と並走を始めた。  続いて、トナカイに引っ張られたソリが後方より現れ、操縦者である赤いコートの老人が追い抜きざまにチェアーに向かって、黒くてつやつやした丸い物体を投げた。  視界が弾け、音が消える。  景色が戻るとチョールヌイが黒焦げになって口から黒煙を吐き出していた。 「芸術は、爆発だ!」  創作家の宣言と共に、荒野のあちこちで無数のキノコ雲が吹きあがった。 『ノマド、これ以上はここに居ても無意味な気がする』 『そうね。それに、この汽車の行き先は破損クラスタの領域に当たるらしいの。データチャンクの狭間に落ち込む前に、引き上げましょう』  今回のアクセスはくたびれ損だったように思える。  目の前にいるお姫様は風船のように膨らんだ頭をフラフラさせながら「わーい!」を続けている。  なんとなくそれは、人類の最初の飛行手段である「気球」に似ていた。 『兄さん、あなたのお尻のところに穴が開いているわ』  ノマドが何か言った。 『さっきの続きか? そういう冗談は帰ってからにしてくれ』 『そうじゃない。ブロックノイズよ。引き上げる時、それを持ち帰ったらダメ』  彼女の声は緊迫していた。どういうことだ?  次の瞬間、視界が未完成のスライドパズルのように変じてフリーズした。  視覚はその映像を焼き付けたまま、前後左右上下の耳が激しい音の応酬を聞く。  爆発音、蒸発音、悲鳴、旧式のキャタピラ音、オールドの戦闘機と、どこかで見た……。 「俺はいったい、どうして、何と戦っていたんだ!?」 「チクショウ! 勝っても負けても不自由だ!」 「ファッカのために!」  戦争か? これは兵士たちの声だろうか。  ぼくはそれをもっとよく聞きたかったが、ブツリと世界から切断(カット)されるのを感じた。 「兄さん、しっかりして!」  現実に帰ってきたらしいが、右手首と腰から下に感覚がない。 「何が起こった? 身体が動かない」  ベルトのテープが剥がされる音。だが、肉体の大部分は返事をしなかった。 「破損データがあなたのデータを参照してアクセス違反を起こしたのよ。わたしが分かる?」 「キミは妹のノマドだ。だが、ぼくのお尻にバラを挿すなんてことはやめてくれよ?」 「……頭のほうは無事みたいね。神経の短期記憶が持っていかれてエンプティになっていない? ソフトリセットを掛ければ動くようになるはずよ」 「つまりは、昼寝をしろということか」  ぼくは天井を見て深く息をついた。  記憶の世界なんてものは、他者から見ればもともと荒唐無稽だ。だが今回は、いつもの十倍は疲労が溜まっていた。 「クソ映画を見せられた気分だよ」 「普通の人間の記憶の世界は部屋や通路を含むものなのに、彼の場合は違ったわ。汽車での移動中も、次々と世界を作り出していたの。決めておいた処理量を少し上回ってしまった」  ノマドはまぶたを伏せてこめかみを押さえている。  ぼくはなんとなくその合わさったまつ毛に焦点を当てる。彼女はフラついた。 「大丈夫か?」  咄嗟にイスから立ち上がろうとするも、痺れの感覚と共に床へ転倒してしまった。 「神経回路をリセットして。わたしも、早く情報の整理がしたい」  ノマドはあくびをした。 「複製データを渡して、彼にはいったん帰ってもらおう」  ぼくはテーブルを支えに立ち上がる。神経回路のコントロールは戻り始めていたが、生まれたての小鹿のようになってしまっている。 「ごめんなさい、記憶は書き出しに失敗したわ」  テーブルの上のノート端末はチョールヌイの記憶と同じように、いくつものブロックノイズを張り付けてフリーズしていた。 「バグってたから仕方がないな。ともかく、彼を起こして帰ってもらおう」 「ダメよ。彼はまだ眠りながら夢を見ている。エビングハウス回路も吸出しの負荷で過熱気味だから、今起こせば彼の回路と海馬体にダメージがいくわ」  意識が途切れたか、ノマドは膝を折った。  ぼくは自身の平衡感覚も怪しかったが、なんとか彼女を抱えてイスに座らせてやった。 「どうなってもいいんじゃなかったのか? 彼の世界では、思想の反映が多少見られたが、明確な記憶障害やトラウマの気配も無しにああだと、ただの狂人だと判断してもいいだろう」 「事情が変わったのよ。場面転換時のフラグメントメモリーの中に、気になるものをいくつか見つけたの。彼の世界の書き出しは失敗したけど、わたしが見たものはちゃんと残ってる」  ノマドの白い指は後頭部の毛を掻き分け、その下を忙しなく撫でている。  ぼくもそこに触れると、かなりの熱を感じた。 「オーバーヒートするぞ。休むべきだ」 「眠ると意味データ以外はデリートされてしまう。今のうちにフラグメントの保護をしておかないと」  ノマドの眼は血走っていた。  彼女の態度が一変するような「気になるもの」とはなんなのだろうか。すぐにでも問いただしたかったが、ぼくはそれを押しとどめた。  ノマドは本当に苦しそうだ。  ぼくはとても悲しくなった。それから後悔も。  チョールヌイに感化され、感情プログラムにも振り回された挙句に、彼女に無理をさせてしまっている。  零れたミルクを嘆いても始まらないが、自身の得た経験値を清算してでもこの愚かな行いを無かったことにしたいと思った。   「あなたは先に休んでいて」 「今のキミを放って先に眠るなんてできない」 「わたしのためを思うなら早く寝て。可能なら彼が帰るまでに起きて。あと一時間あるから。わたしが寝てる時には、兄さんには起きていてほしいの」  彼女はビジー気味だったが、「兄さん」の部分だけは人間味を孕ませて言った。  ぼくは承服し、チョールヌイの薬が切れる直前を狙って起きるように自分に設定を命じた。  それを達成するためには、いくつかの記憶の世界の体験をパージしなくてはならなかった。  ノマドは場面転換時の断片データをデフラグメントしているはずだから、ぼくは負荷の高いその部分を諦めることにした。  ……。  目覚めたチョールヌイ・カラマーゾフはご機嫌だった。「とても刺激的で、とても不快な夢を見た」という。  寝落ち掛けていたノマドに代わって、データの書き出しをしくじったことを伝えると、彼は「コンピューターに書き出し不能! それでこそ我が頭脳です!」とかえって喜んだ。  それでも書き損じの記憶媒体を持ち帰ることを強く希望した。  万が一それを再生したり、バーチャル体験でもされると彼の精神がどうなるか分からなかったが、ぼくはノマドを早くベッドへ連れて行きたくて、好きにさせることにした。 「複製の吸出しだけでもあれだけの情動を感じられたんです。まさに感動ポルノですよ! これは、アダプトを万全で体験するために体調を整えておかなければいけません!」  推定狂人にお帰り頂くと、肉体と回路を虚脱感が襲った。嵐のような男だった。  カウンセリング・ルームに戻ると、イスに座ったノマドは舟を漕いでいた。  特定の角度まで傾き、弾かれたように背筋を伸ばす。  「平気か?」と尋ねると「寝てないわ」と返された。  それなのに、くちびるの端から顎にかけては透明な体液が見事に曲線を描いている。  再びまつげが合わさり、鼻腔からは静かな吸気音。  胸から抜けた空気は喉を通るたびに小さな声に変換された。  おあつらえ向きに、窓の外では傾いた日差しの中で遊ぶ小鳥の姿が見えており、見ているこっちもまた眠たくなる。  今のこの場はさしずめ「睡眠ポルノ」といったところだろう。  ノマドを抱き上げ寝室へ行き、空調を設定限界まで下げて、ベッドのシーツの上に彼女を寝かせ、ぼくはその横に静かに腰を掛ける。  規則正しい寝息は、睡眠不足を抱えたぼくにとって酷く扇情的だ。  それを誤魔化すために、ノート端末に未見の特撮ヒーロードラマを再生させて睡魔と戦う。  だが、一話も観終わらないうちにぼくは敗北した。  目覚めれば窓からは心地良く強い光が差し込んでおり、寝室を出てダイニングに向かうと、珍しくノマドが食事の仕度をしていた。  彼女はあいさつよりも先に演技めいたふくれっ面を見せた。 「酷いわ。起きていてって言ったのに」  ぼくの席には一輪のバラを挿した花瓶が置かれていたのだった。 ***

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