ノーマディック・スプライサー

読了目安時間:17分

Case.05 テンション

 玄関先で違法行為についてわめきたてられては困る。ぼくはインターホンには出ないで慌てて玄関のドアを開けた。 「わ、でっかいのが出てきた」  大きな麦わら帽子が言った。見下ろす形なので帽子の下が見えないが、声からして少女だろう。 「何か用事ですか。診療は九時からですよ」  ぼくは彼女が宣っていたことは聞こえないフリをした。 「“記憶繋ぎ屋(スプライサー)”! 知ってるんだから! 私の記憶を繋ぎ合わせてください!」  彼女が見上げると、少し汗ばんだ額にしっかり見開かれたブラウンの目とご対面だ。どこかで見た顔だった。  麦わら帽子を脱げば、ライトブラウンの大きな三つ編みが現れた。 「キミは昨日の昼過ぎにステーションに居た子か」 「えっ!? ……あの時のダサいお兄さん!?」 「ダサいは余計だ。今は無難だろ?」  今朝はラフなTシャツ姿だ。 「無難ならやっぱりダサいでよくない? それはともかく、あなたがスプライサーなの?」 「なんの話かな。うちはただの民間の心理カウンセラーだ。朝食もまだなんだ。九時に出直してくれ。できればいきなり来るんじゃなくて、予約を取るように」  ぼくのAIは感情と経験データから彼女を〈面倒くさい〉にカテゴライズされるパーソナリティだと断じた。  よって、流れるようにドアを閉めることにする。 「いたーい!!」  彼女のサンダル履きの足が玄関の内側へと差し入れられている。 「自分で挟んだろう!?」 「助けて! 大男に連れ込まれる!」  叫んだ彼女は自らぼくの腕を掴んでいた。 「分かったから! 話は聞くから面倒ごとは勘弁してくれ!」  彼女はぼくの降参を聞くと、案内も待たずにカウンセリング・ルームではなくキッチンのほうへ行ってしまった。  ノマドじゃないが旅に出たい気分だ。 「トーストの端、少し焦げてない?」  トースターを覗き込む小娘がなんぞ宣った。 「キミの対応をしていたせいだ。クライエントになりたいのならキッチンじゃなくて、カウンセリング・ルームのほうに行ってくれないか? ぼくらはまだ朝食も済んでなかったのに」 「ぼくら? ほかにも誰か……あっ、昨日一緒に居た綺麗な女のヒトね? 夫婦?」 「妹だ。すまないが、少し落ち着かせてくれないか」  クッキングヒーターのフライパンを覗き込む少女の肩に手を掛けた。 「やめて!」  ヒュッと息を吸い込む音と共にぼくの手が叩かれる。彼女はバランスを崩し、キッチンの隅に尻餅をついた。 「驚かせてすまない。大丈夫か?」 「……」  少女の大きな目は見開かれて更に大きくなっている。  彼女は何やら「金色の物体」を口元へ持っていった。 「プーーーーーーッ!」  不意に部屋中を高音の大音量が駆け巡る。  ぼくはいきなりのことに音の正体の判別もできず、人間らしく顔をしかめて両耳を塞ぐほかなかった。 「はー、いきなり触られたからビックリした」  そう言う少女は金色の物体を口から話した。  ……小型の金管楽器、ラッパだ。 「ビックリしたはこっちのセリフだ。なんで急にそんなことをしたんだ」 「私の感情表現よ。個性的なほうがマージナルに溶け込めそうでしょ?」 「別にマージナル地区は変人の集まりじゃないぞ」 「私も変人じゃない。あなたの服装のほうが変人っぽい。うっすいシャツにギチギチのジャケット! しかもマッチョ!」 「マッチョの何が悪い!」 「ただでさえ身体が大きいのに余計に大きくしてどうするの? 心理カウンセラーなんて格闘家やスポーツ選手と正反対に大人しいものじゃないの?」 「趣味で筋力トレーニングをしているんだ。心身のクリエイトだ」 「ヘンなの! それって私でいうと、演奏する予定も無いのにコルネットを練習したり、磨いたりするようなものじゃない!」 「他人の趣味をとやかく言うな!」 「こわーい! 身体だってでっかいクセに、大声まで出さなくってもいいじゃないっ!」  少女は首を縮め肩を竦めると、大仰に震えて涙目を見せた。 「……何してるの?」  背後から声。振り返れば、バスローブを羽織り、雨上がりの花のように髪に雫を光らせているノマドの姿があった。 「良かった。助けてくれ。厄介なクライエントが来て……」  ぼくはイレギュラーなパーソナリティの少女の行動によってすっかり掻き乱されていた。  あとで吟味する必要のある感情パターンや行動を取ってしまっている。ここはぼくよりも冷静で論理的なノマドにバトンタッチしたい。  彼女の視線はぼくへではなく、その背後に向けられていた。 「朝から少女を拉致監禁?」 「違う!」 「えーん、えーん! 悪い男に食べられちゃうわーっ!」  露骨なウソ泣きが聞こえる。 「ああ、朝食? 少女を使ったレシピなんてあったかしら?」  ノマドは首を傾げた。 「食べるかっ!」 「そういう意味の食べるじゃないのよーっ!」 「えーっと……?」  哀れっぽい声を受けて、我が妹は「いまだかつて見たこともない表情」を示した。だが、カテゴリー的には〈負の感情〉に違いなかった。  ぼくに透視能力はないが、ノマドが自身の通信機能を使って、スキーマ・ネットワークにアクセスして「そういう意味」のバリエーションを検索しているのが見えた気がしたのだ。 「ふう」  ノマドは息を吐くと、テーブルの上のペンを取り、メモ用紙に何か書いて見せてきた。 「兄さんがそんな人間だとは思いませんでした。さようなら、旅に出ます……っておい!」  ぼくはノマドの両肩を掴んで揺さぶる。冷たい雫が跳ねた。 「酷いわ、わたしにはあんなことをしておきながら……」  ノマドは顔を背けて言った。後ろで少女が仰天した「妹に!?」と声を上げた。 「なんだ、あんなことって!」  ぼくが声を上げるとノマドは表情を固めた。 『また検索してるだろ! 意味も分からずに妙なことを言わないでくれ』 『冗談よ。ユーモアがあったでしょう? シャワー中にインターホンが鳴ったらハックして視るようにしてるから、何が起こったかくらいは知ってるわ』  内緒話(ウィスパー)で語り掛けられる。 『勘弁してくれ。ああいうイレギュラーがあると、ぼくは感情プログラムに呑まれて冷静な判断能力に欠けてしまうんだ。まだ何も聞き出せていないが、彼女はぼくらがスプライサーだということを知っていた』 『みたいね。見たところ、児童期とモラトリアム期の境界(マージナル)なお年頃ね。今の時期だと、職業訓練が始まって少し経ったくらいだと思うけど……彼女って昨日のステーションに居た子よね? この時期にこっちに越して来たばかりだというのなら、やっぱり彼女自身が何か問題を抱えていて、それが原因であなたを翻弄するアクションを取ったってところかしらね』 『そこまで分析できてるなら彼女の冗談に乗らないでくれ。危うくぼくはオールド・ホラーの殺人鬼や性犯罪者にされるところだったんだぞ』 『いつもの兄妹ごっことは違って、刺激的だったでしょ?』 『まだ気にしてたのか』 『これはわたしの人間らしさの練習じゃなくって、あなた向けのリアクションのつもりだったんだけど……』  通信会話のクセに哀しげにするノマド。  白い手がバスローブの胸元を強く握った。 「もしもし、おふたりさん? 私を放って見つめ合っちゃって……」  問題の娘がそばに寄って来てぼくらを交互に見上げる。  それから〈不満〉を孕んだ音色でラッパを「プップ!」と鳴らした。 「とりあえず、カウンセリング・ルームに頼むよ。飲み物くらい出すし、必要なら軽食も出せる」 「ありがとう。朝は食べてきたからいいわ。カウンセリング・ルームはあっちね?」  彼女は廊下の向こうを正確に指差した。 「分かってたなら、わざわざキッチンに入って来ないでくれよ」 「昨日一緒に居た男の子がプライベートな付き合いをしてたから、興味が出ちゃって。ところで、あなたたちって本当に兄妹?」  少女はぼくではなく、ノマドのほうを見て尋ねた。 「ベッドルームも覗いていく?」  すまし顔で返すノマド。 「……えっと、遠慮しておくわ。大人しく待ってます」  少女はテーブルに置かれた麦わら帽子を手にすると、三つ編みを跳ねさせて小走りに去って行った。  少女の名前はルネ。グローバルIDはFR001951001267836442。つまりは現在、十六歳だ。  センターの中心に近い地域に両親と共に暮らしていたが、今年からモラトリアム期になり職業訓練に就く予定(・・)だった。  移行期の精密健康診断で精神状態に異常が見られため、センター地区のメンタルヘルスクリニックに通うことになり延期。  つい最近に快復したとして、先日付けでこの町に転居してきている。  希望職種は「楽器演奏家」だったが、ネットワークの記録から察するに現時点では頭角を現しているとは言い難いため、ロボットメンテナンス業者の見習いとして就職しているようだ。 『あの子はぼくのニガテなタイプだ。同性のほうがカウンセリングには都合が良いだろうし、キミに任せていいか?』  食事をしながらウィスパーで情報交換をする。  ぼくらは便利だ。パンを噛みながら会話をしてもマナー違反にならず、ノマドも端末を汚さずにスキーマ・ネットワークにアクセスができる。 『……わたしは今日、ボランティア活動の日なんだけど。コンタクト登録のハンバーガーショップで接客ロボの真似事よ』  “コンタクト登録”をしている店舗では、本来はロボットやアンドロイドの担当する仕事を、あえて人間が行っている。  客層もそれを好む者が訪れる。若い人間も居なくはないが、家族と離れた年寄りや、身寄りのない独り者がおもな利用層だ。 『一日くらい抜けられないか?』 『人間らしさの生育に良いからって、わたしをボランティアに登録したのはあなたでしょ。帰りにマーケットで夕食のメニューに悩む演出もしたいし』 『キミは充分人間らしいよ』  ぼくは懇願した。 『未成年の権限でもアクセスできるスキーマ・ネットワーク上に、わたしたちの情報が漏れてる可能性があるのが引っ掛かるのよね』 『そのうえ、ルネはわざわざ自身の出身都市から離れたこの町の会社に出願してる。過去に受けたセラピーは完了したんじゃないのか?』 『データ上はそうなってるけど。あれがまともに見える? とりあえず、活動の片手間でネットワークをチェックして、それらしいウワサがあったらデリートを仕掛けたいの。政府や軍部に追跡されると困ったことになるわ』 『それはキミにしかできないことだから任せるが、カウンセリングのほうは同席して貰えないのか?』 『あの子のそばで情報処理に集中できる気がしないもの。人間らしく振舞わなくていいって言うなら、そばに居てあげるけど』 『本末転倒だな。人間でない可能性はおくびにも出せない。あの子は特に鋭そうだしな。なんとかやってみるよ』 『じつを言うと、わたしもあの子のこと苦手だし』 『おい、ズルくないか?』 「朝食の片付けはわたしがやっておくわ。頑張ってね、兄さん」  カップから口を離したノマドはニッコリと微笑んだ。 「……というわけで、お互いに自己紹介が済んだところで、本題に入ろう」  クライエントに対してテーブルを挟んで直角の席に座る。これはカウンセリングで推奨されるやりかたのうちのひとつだ。  カウンセラーとしての経験値は少ないが、ノマドが拾ってきたデータで最低限の専門的情報は揃っている。 「単刀直入ね。センターのセラピストさんは私が話し始めるまで黙ってたのに」  ルネは足を揃え、腿にコルネットを乗せ、その上に手を静かに沿えた姿勢で座っている。 「そっちじゃなくって、ぼくらがスプライサーだって話だ。どこで聞いた?」 「ああ、それね。学校でクラスメイトから聞いたの」  ルネはことも無さげに言った。 「クラスメイトはどこからその話を?」 「公園暮らしのファッション・マージナルの人が言ってたって」 「そのファッション・マージナルの人はどこから?」 「知らないわよ。一応、あなたたちのお仕事が法律に触れるってことは理解してるわ。守秘義務は守るし、絶対にウワサを広めたりはしないから」 「当然そうして貰いたいが、ご両親は知っているのか?」 「知らないわ。私がこんな田舎を選んだことは怪しまれたけど。都合良く近所に有名な音楽家が住んでたから、そのヒトのファンだってことにしてね。記憶の問題は個人の問題よ。パパやママは関係ない」 「そうでなく、料金の話だ。ぼくらはまだ信頼関係にはない。信頼が無いなら信用が必要だ。スプライス前提のカウンセリングとなると、リスクに応じた信用を要求しなければならない」 「うーっ、覚悟はしてるんだけど。見て……私の残高。楽器はこの子一本に絞って、頑張って貯めたのよ」  ルネの突き出したノート端末には確かに十六歳にしては頑張った金額が表示されている。  それでも、多くのクライエントに提示する金額の一割にも満たない。  もっとも、要求する金額はあくまで相手が対価として納得できて、こちらが信用するための物差しに過ぎない。  ぼくらの生活自体にはキャッシュデータは不要だ。とりわけノマドのクラックの前では銀行残高も店頭での決済も無意味なのだから。 「そこまでして蘇らせたい記憶があるのか」 「うん。そうじゃないと、私、音楽家にはなれそうもないから」 「最初は驚かされたが、演奏自体はかなり上手だったじゃないか」  ぼくらが食事をしているあいだ、ルネはカウンセリング・ルームでコルネットを演奏していた。  マナー的にはどうかと思うが、その演奏は子供の趣味とは思えない見事なものだった。  ノマドも「難しいとされる高音も問題なく取り扱っている」とコメントしていた。 「プロはね。単に楽器を操れるだけじゃダメなの。要求された曲をポケットから取り出すように演奏できなきゃ。“繰り返されるオールド・カルチャー”って曲は知ってる? 商業施設のリアル・バック・ミュージックとかで聞いたことがあると思うんだけど」 「オールドのジャズジャンルを踏襲した有名な曲だよな?」 「そうなの。コルネットの基本テクニックのひと通りが出てくるから、これができなきゃお話にならない、ってくらいに定番」 「“書道”の“永の字”みたいなものか」 「その例えは分からないけど。とにかく、私はその重要な曲がどうしてだか吹けないのよ」 「定番こそ奥深いものじゃないのか? テクニックもひと通り出てくると言ったし」 「そのあたりは自信があるの。吹けないっていうのは技術的な問題じゃなくって……」  ルネは言葉を詰まらせる。彼女の指が金のバルブから離れ、コルネットを演奏するように自身の後頭部を叩いた。  ぼくはただ静かに待った。 「確か、学校の吹奏楽クラブの活動で……あの曲を……演奏しようとした、はずなの。吹奏楽をやっていてあれをやらないなんてありえないから。それで私は、憶えていないのだけれど、リケットにまた吐いてたよ、大丈夫? って言われて……」  ルネは後頭部を押さえた。エビングハウス回路周辺に負荷が掛っている。 「無理はするな、ゆっくりでいい」 「サビのパートに入ると……コルネットを落としたり、口から離したりするんだって。最初は信じられなかったけど、気になって練習日記をつけるようにしたら、どうもそうらしいって分かったの。実感はないのだけれど、あの曲だけが吹けない……」  彼女は膝の上で運指のみで何かの曲を演奏している。その手は震えていた。 「多分、イヤなことがあったせいで思い出せないのよ。私たちの頭はイヤなことを消してくれるから。でも、それが演奏に関係することなら、私は思い出して、乗り越えなきゃいけない」  少女のブラウンの瞳が翳る。 「経験的にキミの推測は当たっていると考えられる。  演奏家を目指すキミにとってその曲は捨てることのできない記憶だが、M‐No.7が消去すべきと判断した体験や感情に強く関連付けられてしまったのが原因だろう。  キミは、このままだとその曲を完璧に吹きこなすことは叶わない。  拒否反応だけじゃなく、練習した経験までも持っていかれている可能性もある。  無理に習得しようと繰り返し負荷を掛れば、ほかにも忘却の影響が出ないとも言い切れない。  多くのクライエントはそうなってからここへ来るんだ」 「じゃ、私は賢いってわけね。この記憶の正体を暴いてやっつけてしまえば、万事解決」 「勝てなかった場合はどうする? 演奏家どころか、精神病棟送りだぞ」 「カウンセラーのクセしてイヤなこというのね」 「心理カウンセラーは建て前だ。記憶治療は物理的、電子的な手段を介して行うんだ。精神科医がベッドに縛って投薬するよりもハードになるぞ」 「頭をしゅじゅちゅ(・・・)するってこと?」  ルネの声が震えた。 「そういう手段もある。それらとリスクについて話しておく」  ぼくはルネにスプライスで使うふたつの手段を説明した。  ひとつめ、デュプリケート。記憶の複製品を作り出し、その中を探索して原因を探り、無意識の世界を可視化してクライエントに見せることによって記憶のラベルの貼り直しを行う方法。  こちらはリスクは低いが同時に成功率も低い。  ふたつめ、アダプト。クライエントの記憶領域に直接アクセスし、原因の再現を行い、そこへ干渉して問題を解消する方法。  この方法なら改変によって生じたブランクや整合性は脳が自動的に埋めてくれるが、こちら側が彼女のナマの深層にまで干渉することが可能なため、信頼と決断が必要だ。  失敗すれば性格に歪みが出たり、かえって記憶に混乱を招くこともありうる。 「あとは電子的にエビングハウス回路を書き換える方法があるが、基本的には使えない。トラウマ自体は確実に消せるが、ほかへの影響が大き過ぎるから辻褄を合わせようと思ったら人格が大幅に変わってしまう恐れがある。今回のケースではトラウマが原因の可能性が高いから、アダプトによるデリートを推奨する」 「ねえ、アダプトってお兄さんが私の頭の中に入って来るってこと?」  ……ルネは胸を押さえて嘔吐する仕草を見せた。 「妹のほうでも可能だ」 「あのお姉さんも、もうひとつニガテかな……。デュプリケートのほうでなんとかならない?」 「こっちとしても、コピーの記憶が相手なら手違いの心配もなければ、拒否反応に対して強行策も取れるから楽なんだが、デリートが必要なケースはアダプトでなければ解決はできない」 「私が克服できればいいんでしょ?」 「他人事としてデータを見せられることでも記憶のラベルが復活するんだ。プログラムが削除を強制するような内容のことを見せられれば精神や神経にダメージを負う」 「それも寝て起きたら忘れちゃうんじゃ?」 「記憶データを持ち帰ってリプレイすればいい。だが、思い出すたびにダメージが蓄積され続ける。忘れることには意味があるんだ。若いうちにそういうものを抱えれば歪みは大きくなるし、キミが音楽家の道を絶たれる可能性も非常に高い。だから根源の記憶自体を完全に消去して、無かったことにするのを推奨する。ただ、その場合……」 「その場合?」 「クロスレファレンスの行われている記憶、つまりは繰り返されるオールド・カルチャーに関わる技術的な経験値も消去する必要がある」 「それだけ? 原因が消えてしまえば、また練習しても平気なのよね?」 「それは問題ない」 「だったら余裕よ。私はあの曲より難しい曲も沢山マスターしてるんだから! 自作の曲だってたくさん書いてるのよ!」 「だが、多くのテクニックが使われているその曲に関する経験が消えると、それらの演奏にも影響が出るかもしれない。もしもその曲を練習曲としてテクニックを身に着けていた場合……」  ズブの素人に戻ってしまうだろう。 「……」  ルネは両手で後頭部を押さえた。葛藤(コンクリフト)の解決の手段を消えた記憶から探り出そうとするのはナンセンスだ。  膝の上からコルネットが転がり落ちる。ぼくはそれを素早くキャッチし、彼女へと差し出した。 「決めるのはキミだ。アダプトを行うのをどちらにするかもキミが決めてくれていい。ぼくと妹では性格が随分と違うから、場合によっては交代したほうが上手く運ぶケースもあるかもしれないが」 「さっきのは冗談。治せるんだったら、頭に入られるくらい安いもんよ。だけど……」  痛々しいくらいの〈苦悩〉の感情が見える。 「慰めにもならないかもしれないが、演奏やスポーツなどの身体を使う動作の経験は、海馬体やエビングハウス回路だけが憶えるものじゃない。キミの筋肉や神経がそれに則した成長をしているから、一からのやり直しではなく多少有利な条件からスタートだ。それに……」  ぼくはお気に入りのセリフを贈ることにした。 「キミとそのコルネットは心で繋がっているはずだ。そうでなければ三次的な解釈や感動を生む本当の芸術家になんてなれやしない。感情表現にコルネットを使うアイディアを閃いたキミなら、きっと大丈夫だ」  これは正義のロボットを操縦して悪を挫くアニメーション作品の主人公の言葉を改変したものだ。  全くの機械である戦闘用ロボを道具としてではなく、心を通わせた相棒として扱うことで、本当のヒーローになれると彼は言っていた。 「……」  ルネは怪訝そうな顔でこちらを見ている。  カッコイイセリフだと思うのだが、彼女の心には響かなかったのだろうか。 「なるほどね」  ルネは何やら呟くと、ぼくの手からコルネットを受け取り、口に当てて楽曲を奏で始めた。  聞こえてくるのは憶えのあるメロディーだ。  ……いや、憶えのあるどころじゃない!  忘れもしないこの曲は、検索しやすいように短期・長期・永久の記憶領域全てにセーブしている。  ぼくは仕事中だというのに思わず立ち上がってしまった。  なぜならこの曲は……。  ぼくが大ファンである“熱血鳥獣ギガジャスティム”のメインテーマだったからだ! ***

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