ノーマディック・スプライサー

読了目安時間:22分

ふれる記憶 編

Case.01 ビジター

 フライパンの上で油が跳ねまわっている。  気化した成分を嗅覚で分析しつつ、古典的な条件付けが空腹をイメージさせる。 「今晩のメインディッシュは何かしら?」  背後から〈期待〉を含んだ柔らかな声がした。ぼくは振り返る。  ゆったりとした白の起毛のワンピースドレスを着た若い女性がテーブルについていた。  淡いローズアッシュのショートボブは、陽もそろそろ赤みを帯びる時刻だというのに律儀にセットを崩しておらず、白い胸元から伸びる首は陰影すらもおぼろげで、霧の白夜を連想させる。  その先にある顎の曲線と、何にも染まらないもう一つの花びらは食事という俗で原始的な行為とは無縁に思えた。  ……そして、彼女のエメラルドの瞳はこちらには向けられていなかった。  ぼくは返事をしないで、よそゆきの声の正体を探る。いつもならもっと不愛想に訊ねるのだから。 「パイクパーチのフライとみたね」  得意げな声が飛び込んできた。  メタルブラックの髪に浅煎りコーヒーの瞳。日に焼けたような夏色の肌をしたアーリア系。  探すまでもない。“元気の良い(ジッピー)”な少年がテーブルに肘をついているのが目に留まる。 「“ロマ”、来てたのか」 「ずっと居たよ。“アルツ”はボケっとし過ぎだよ。それとも、でっか過ぎて見落とした? “ノマド姉ちゃん”なら絶対に先に挨拶をさせてくれないのに」  たかが挨拶、されど挨拶。ロマ少年は重大なことのように言う。  この“マージナル地区”において、彼に挨拶をされない者はいない。  こちらへ転がり込んだばかりのまだ肩の張った者や、神経症に煩わされる者ですらこの少年のお挨拶には返事をするのだ。  ぼくらは密かに彼のことを「生きた処方薬」なんて呼んでいた。 「それで、フライなの?」  ノマドも真似てか、問い詰めは〈真剣〉だ。 「パーチは正解」  切り身をフライパンに乗せる。隣のクッキングヒーターの鍋には茹で上がったポテト、アスパラ、ブロッコリーが転がる。  ぼくは最後に添えるつもりで待たせてあるレモンを指差して回答とした。 「レモンクリーム煮ね」  大人びた印象の見掛けから無垢な少女のような声音が飛び出す。上出来というよりはやり過ぎといえる。 「ノマド姉ちゃんの好物?」 「そうね。大好物」 「オレも腹減ってきちゃった」 「もう日暮れよ。パパとママが心配するわ」 「うん、そろそろ帰るよ。ふたりの夕食の邪魔をしちゃ悪いからね」  ロマの撤退宣言……と、同時にインターホンが来客を告げた。 「オレが出てあげるよ」  サンダルの音がペタペタと遠ざかっていく。 「約束は無いから、新規のクライエントかな?」  構わずにフライパンへ鍋の具材とミルク、バジル、バター、それからいくつかの調味料を加える。  ガーリックの香りは条件付きの〈快〉だ。これには空腹感が関連付けられている。 「もう17時半なんだけど。駆け込みはマナー違反だわ」  彼女も席を立った。椅子が固く音を立てたが偶然か〈不快〉の表明か判断しかねる。 「逼迫した状況なのかもしれない。遠方からの診察希望者かも」 「好意的に解釈し過ぎ。初診は特に時間が掛かるのに」 「ぼくは料理をしているから……」 「料理の冷める前に戻るわ」 「保温はしておくよ」 「温かくても風味や成分が分離すれば劣化よ」  不機嫌な灰薔薇は玄関のほうではなく、カウンセリング・ルームへと向かって行った。  新しいクライエントもまた、“忘却”についての悩みを抱えているのだろうか。  彼、もしくは彼女を助けることで、ぼくらの過去を知ることについての助けになればいいが。  ぼくは調理する手を止めずに“人々の記憶”について思いを馳せる。  忘却が呼び起こす痛み。不可解で不穏なフラグメント。思い出したくても思い出せない。  頭に埋められた“チップ”が消去を選択した結果だ。  通称“チップ”。正式な名称は“エビングハウス回路”。  ニュー・エイジを生きる全ての人間の海馬体に埋められているマイクロチップで、記憶能力をサポートするためにある。  人間という生物の生来の器官ではないものの、今の人類が「人間を生きるため」には必要不可欠な部品となっていた。  ほんの二百年ほど前のことだ。  人類は何度か滅亡の危機を乗り越えて、安定した発展を進めていた時代。  しかし、歴史は繰り返す。お約束に迎えるピンチ。  それは目に見えなかったが、そこらじゅうに居たものの仕業だった。つまりは、ウイルス。  地球上の文明圏は同時多発的に“健忘誘発感染性構造体(オブリビオン・ウイルス)”のパンデミックに見舞われた。  端的に言えば、物忘れが酷くなる病気だ。  風邪のように病として分かりやすい症状ではなかったためにその発見は遅れ、存在を認知した時にはすでに多くの人間が感染しており、知識や社会経験、想い出さえも虫食いデータにされたあとだった。  それでも、長い歴史で培った感染性構造体への対処法は的確で、人々はメモリーの空白に怯えながらもオブリビオン・ウイルスとの戦いを始めた。  決着までは発見から五年足らずのことだったらしい。  オブリビオン・ウイルスは地球上から一掃され、ナノ・テクノロジーによる大気観測でも今日までゼロを示し続けている。  だが、すでに脳に負ったダメージは回復せず、人々は忘れ続けた。  スポーツチームは一試合ごとに素人を増やし、毎日どこかの家でじつの親による誘拐騒ぎがあり、料理は酷く塩辛くなった。  主観的には突如、時間と場所がスキップされ、自分の行動の理由や目的も分からない……なんてことも頻発だ。  科学技術の退化は当たり前だった。忘れてしまったのだから。  そこらにいるロボットやアンドロイドも、最初は燃料補給の方法すら曖昧だったし、旧式の原子炉は忘れられて融けてしまったし、航空機が飛ぶのも意味不明に思えた。  遺伝子工学やナノ・テクノロジーのようなデリケートな技術は特にロストが激しかった。  多くの技術は再検証が必要となり、今も終わらぬ課題のひとつとなった。  これで事態は収束したかと思われたが、オブリビオン・ウイルスはほかにも置き土産を残していた。  DNAの改変だ。  直接の感染者だけでなく、「その遺伝子を受け継いだ子孫」にも同様の記憶障害が発生するようになった。  親の片方だけが発症経歴がある場合でも、感染を無症状(サイレント)で切り抜けた場合でも、百パーセント同じことが起こる。  子供だけでなく、孫世代にも起こった。そしてその次も、また次も……。  それは障害や後遺症の域ではなく「形質の変容」と呼べるものであり、人類という種そのものの生物学的な退化だった。  そして、パンデミック終息後の一世紀のあいだに「元の人間」は消滅した。  先天的なランダムの記憶障害。これが「動物」なら絶滅必至の状況だろう。  だが人類には、それまで培ってきた科学技術があった。  忘却の海を彷徨う船のオールとなったのは、生体チップ、“エビングハウス回路”だ。  多くの技術が失われていたが、最後の命綱だけはなんとか間に合ったのだ。  カロリーと脳の電気信号をもとに永久稼働するサーキットは、ウイルスの与えた課題を見事に片づけてみせた。  更に、記憶能力の大半を生体チップに頼るついでに、人類はかつて倫理を言い訳に制限していた力をいくつか手にした。  コピー・アンド・ペースト。  メモリーの電子的化は複製を容易くした。誰しもが共通したマナーやルールを憶え、空き容量の許す限りどんな専門家にでも手軽になれるようになった。  怪我の功名。人類は過去の技術の再検証さえ済ませれば、更なる飛躍ができるかのように思えた。  だが真暦(・・)二百十一年の今日は、西暦の昨日よりも随分と「文化」が退化したままだといえた。  これはひとえにチップがデリケート過ぎたのが問題だ。  アルコール、カフェイン、ニコチンなどの物質。これらの摂取はナマの脳へ起こす悪影響を遥かに上回るダメージをチップに与える。  それまでどおりに嗜好品を口にすることができなくなった。  毒は外部からくるものだけではない。過度なホルモン分泌もチップを痛めつけた。  ダメージは破損クラスタを作り出し、またも健忘を誘発した。度が過ぎればチップと生体脳の接続が切れる。つまりは文明人としての死。  人類は多くの嗜好品と、脳に刺激的な文化や文明を手放さざるを得なかった。  決別の決定からわずか一日で絶望が世界を覆い、ひと月のあいだに数億人が自殺をした。特に、勤勉だったアジアの島国の民族はよく死に、今や絶滅危惧の文化保護対象に指定されているほどだ。  この歴史的事件は“スーサイド・パンデミック”として真暦歴史教科書の最初に記録されている。  自殺だけじゃない。  嗜好品を口にせずには正気でいられなかった者たちは犯罪に走ったし、  電子ゲームプレイヤーはお手製のサイコロをひっそりと転がして自身を慰めなければならなかったし、  戦争やスポーツの熱狂者は興奮の絶頂に達すると行為後の男のように冷めたし、  本式の子孫を残す行為はとりわけ危険なものとなった。  発散無しでは人間社会の存続は不可能だ。  無論、人類はこれを打開すべくチップに手を加えた。  嗜好品の必要性を減らすにはストレスを断つのが手っ取り早い。  ストレスの根源は不快な記憶の蓄積だ。だったら、負の感情を持つ記憶データを削除してしまえばいい。  エビングハウス回路には「睡眠時に前日の不快感を削除するプログラム」が搭載された。  そのプログラムの名は“M‐No.7”。  エビングハウス回路は睡眠時に短期記憶領域から長期記憶領域へのデータ移動を行う。  この際に、ストレス源になりうる不快な感情データと、その感情を想起させる周辺チャンクを抹消する。  およそ七時間も眠れば前日の不快感とはすっぱり決別だ。  これにより、誰かとの喧嘩が長引くことも、仕事上のトラブルに辟易することもなくなった。  ほかに、近親者の死や悲惨な事故や事件からも、西暦時代と比べて圧倒的に早く立ち直ることができるようになった。  さて、もうひとつの問題だ。人体のホルモン分泌のによるダメージ。これは薬物投与で悪影響を起こす閾値に達するのを容易く防ぐことができた  ストレスのように常時、あるいは突発的に起こるものに対してまで使用すればジャンキーになるが、楽しみの時だけなら話は別だ。  刺激的な映画を観る前にカプセルを口にするとか、興奮の自覚を憶えたらタブレットを噛めばそれで済む。  結果、スポーツや芸術、生殖行為などはすぐに取り戻された。  だが、カフェインやアルコールを始めとした嗜好品は代用品で済ます形となり、これらに関連した技術が無意味となり、それらが発展を助けた多くの芸術や奇跡が手の届かないものとなった。  だが、取り戻せなくとも懐かしむことはできたし、新時代なりに新たに創造することも可能だ。  チップを埋めた人類には「時間の余裕」があったからだ。  コピー・アンド・ペーストによって無駄な記憶作業から解放されれば人は余暇を得る。イージー。  そうして、親密な人との時間やひとりの時間を楽しみ、創造的な趣味に没頭ができた。グレイト。  もちろん専門家は必ず一定の知識を保証するし、クライエントがニセモノに手間取らせられることもない。ナイス。  労働も随分と楽になった。  肉体労働はもとよりロボットの仕事で、接客業の大半は二十四時間スマイルの可能なアンドロイドの領分だ。  これは旧時代に労働者階級(プロレタリアート)に多くの失業と就職難を招いていたが、容易く手に入れられる専門性と、時間に余裕のある暮らしが当たり前の世界は問題を矮小化させた。  つまりは、あくせくと働く資本主義と決別できて、半自動で回る経済システムのメンテナンスさえしてれば誰しもが生活を保障されるというわけだ。  さて、専門知識のコピーは単純労働階級を助けたが、元来のプロの矜持を奪ったかどうかが気になるところだろう。答えはノーだ。  知識は手に入っても、その応用や現場ごとの些末な違いは憶えなければならないし、筋力や神経などのフィジカル的な面までは真似ができない。  味のしないホットドックの大食い大会のごとしの学習が不要になっただけで、本物のプロフェッショナルになるには、経験と鍛錬は必須のままだ。  もちろん、勘や閃きだって重要だ。  新たな人類は単純な知識量よりも、直感と経験を尊重するようになった。  ほかには、機能の外にある付加価値……つまりは「美しい無駄」を愛し、多くの失われた文化を懐かしむことや、新たな創造をすることが美徳とされた。  反して、無意味なものとなった多くのオールドでナンセンスな社会風習に対しては懐疑的、嘲笑的になった。  つまり、宗教はお遊びの趣味やファンタジーに。民族意識はファッションに。  それが差別を自然と減らし、図らずとも人類を平等へと近付けた。  身内とのリアルな密着は苗字制度や家制度を飽きさせ、自尊心を強くし、社会的所属感も組織を挟んだ隷属然としたものでなく、直接個人で望むことができた。 「怪我の功名か、かくしてオブリビオン・ウイルスとの戦いによって西暦は捨て去られ、ユートピアたる真の世界、つまりは真暦なるニュー・エイジが始まったのだ……っと」  食卓に並ぶディナー。 「しまった」  思考と並行して調理を続けていたら、勢いで皿に盛り付けてしまった。  これは健忘じゃない。単に思考を集中していたからだ。ぼくのパーソナリティのひとつである「天然ボケ」の因子だ。  〈恥〉という感情が沸き上がり、思わずあたりを確認する。  室内はフライパンが調理の残響を囁いているだけで静かだった。  ロマはクライエントを案内したのちに両親の待つ自宅へと帰ったようだが……。  ううむ、ノマドはパーチのレモンソース煮が温かいうちに戻って来られるだろうか。 「食事にしましょう」  廊下から薄薔薇の彼女が現れた。 「早いな。まだ十八時にもなっていない。クライエントを門前払いにしたんじゃないんだろうな?」 「強迫性のパーソナリティを持った男性よ。いきなり“繋ぎ合わせ(スプライス)”を要求してきたの」 「またか? ウワサが広がると警察機関に目を付けられるな」 「でも、知られている以上は、渋るとかえって面倒でしょう? 明日の午前中にスプライス処置の予約を入れたわ。料金は提示の二割増しで払うって」 「こっちのことを信頼してるのか?」 「どうかしら。わたしたちが経験豊富に見えないことは漏らしてたけど。彼、相当に追い詰められていたから。それに、時間が無いのはこっちも同じだったし」  ノマドは平坦に答えるとテーブルについた。料理から上がる白い湯気はまだ生き生きとしている。 「スプライス処置を行うにはクライエントとの信頼関係が大切なんだけどな」 「ミスを心配しているの? いざとなったらクライエントのチップや“スキーマ・ネットワーク”をクラッキングするから、こっちのことがバレる心配はないわ」  無感情なエメラルドがこちらを見た。早く座れと言われているように感じた。 「イリーガルだし、人道的じゃないだろう」 「ビジネスライクなのよ。肩入れが得意な設定なのはあなたのほうでしょ? お料理、冷めちゃうわ」  ノマドは口を尖らせた。 「ま、ぼくたちの目的はスプライスの経験値だからな。強迫性のパーソナリティのスプライスは類型化してる。時間を掛けて彼を知るよりも、ぶっつけで試したほうが効率的になる可能性は高いな」 「そういうこと。きっと今回も教育ママが犯人ね」 「じゃあぼくは、偉大な父が黒幕の説を推そう」  ぼくたちはグラスを合わせ、食事を始めた。  食事は生命の維持であると同時に欠かすことのできない娯楽だ。  白ワイン。ヨーロッパがイタリア国産のブドウの渋みが料理の脂質と良質な反応を起こす。無論、有害アルコールは含まれない。  ロールパン。疑うべくもなく歴史的なパン。バターの残り香を辿れば、西暦はおろか紀元前にまで旅ができるだろう。  サラダ。経験豊富な専門家の手による色とりどりな有機栽培の野菜が使われている。  パーチの煮つけ。貴重な天然もので、経験値の塊である釣り人が獲った淡水魚に鮮やかなレモンの黄色い香り。これはぼくの得意料理で、ノマドの大好物のひとつだ。 「味はどうだ?」 「……」  尋ねるも彼女は薄桜色の花弁は合わせたまま小さな顎を上下させ続けている。 “ウィスパー”も無しにふた口目がフォークで運ばれた。 「調理担当をやっている以上、感想くらい聞きたいんだが。ふたりきりだからって不愛想が過ぎるぞ」  ぼくは〈不満〉だ。 「ずっと一緒に暮らしているのだから、言わなくても分かるようになって欲しいところよ、兄さん」  兄さん(・・・)。ノマドの声帯が無機質にぼくを呼ぶ。  ぼくはそう呼ばれるたびに、処理回路がラベルの剥がれた記憶領域をシークしようとするのを感じる。 「美味しいってことでいいんだな?」 「もちろん」  それでも彼女の口元は笑わず、視線は皿に落とし、手と顎は食事という行為を継続する。申し訳程度に声だけを〈楽しげ〉に。 「可愛げが無い。もっとこう、ふたりの時間を楽しもうという気概をだな……」 「夫婦や恋人でもないでしょう? 兄妹だって決めたのはアルツ(・・・)のほうじゃない」 「兄妹だって仲睦まじくあるべきだと思うが」 「べきだと思う、ね」  そうリピートした彼女は少し笑った気がした。  食事を済ませ、ノマドから今回のクライエントに関する情報を提供される。  ジェムソン。グローバルIDは……IR001510421567776545。六十歳の男性だ。  職業は現在は休職中の弁護士。正論と屁理屈の専門家で職業の花形。説得力と場の空気を読む力が求められる。  四十年ものあいだ法廷に立ち続けてきた老獪な男は、“スキーマ・ネットワーク”上にも彼に紐付けされた個人識別番号が頻出する。  経験値がものをいう社会では、年齢は実力のレベルを表す便利な指標となる。  ジェムソン元弁護士はレベル二十のころから平均よりも勝訴率が高く、三十から五十六までのあいだは無敗、あるいは被告人を実態よりもよく見せ続けていた。  しかし五十七を迎える直前に、自分よりも遥かに低レベルな若手に弁護の欠陥を突かれて大敗を喫する。  以来、家庭や職場を問わず「キレやすくなった」という。  彼の不埒な行いは不快感消去プログラム“M‐No.7”によって消去されており、本人は憶えていない。  家族もまた正常にプログラムが働いており、彼の暴力を忘れていたが、破壊された家財や負傷の痕跡が物証となった。  ジェムソン氏は電子脳外科を受診した。しかし、エビングハウス回路にも生体海馬にも異常は見当たらなかった。  M‐No.7が正常に機能している以上、憶えのない破壊や暴力の痕跡だけが増え続けた。  プログラムによるチャンク消去は問題個所の前後の記憶までに及ぶこともある。  彼はどうやら投薬処置も虚しく繰り返しキレたらしく、デリートは家庭だけでなく職場での記憶にも及び、彼のパーフェクトだった全てはドミノの様に崩れ去った。  ジェムソン氏はとうとう離職し、家庭からも離れ、この裁判と縁薄い片田舎であるマージナル地区へと流れてきた。 「そこで、ぼくたち“記憶繋ぎ屋(スプライサー)”の噂を耳にしたわけか……」  ぼくは耳を傾けた。シャワールームから規則的な水流の音と、不規則な水の落下音に混じって何かの鼻歌が聞こえる。  ノマドはふたりきりの時は不愛想なクセして、ひとりきりの時は思春期の乙女も恥じ入るほどに女の子を努めているようだ。 「そのくせ、どこか抜けている。学習が足りないな。天然ボケはぼくの領分のはずだが」  シャワールームへ向かい、脱衣所のドアを閉めてやった。特にここの前を通る用事はないが、彼女が出てきた時に開けっ放しなのは倫理的に問題があるだろう。  ぼくは自分自身の人間らしい配慮に満足してリビングに戻った。  ……ところが、善意は誤解に基づく睨視によって返された。 「シャワー、覗いたでしょう?」  問い詰めるローズアッシュの娘は衣装こそ身に着けていたが、肩へと雫を垂らしている。 「誰がそんなことするか」 「あなたよ。覗き行為は複数の感情を昂らせるわ」  ご丁寧に白い頬が膨らんでいる。 「妹には欲情しないさ。弁護士を呼んだほうがいいだろうか? 明日に会う約束はあるが」 「兄妹はあなたが決めた(・・・)だけじゃないの。生物学的な紐付けはわたしたちには無いのよ」  文句は垂れるも、やはり抑揚が足りなく思える。 「だったら、そっちも覗いてみればいい。ぼくの裸体に対して性的な感情は沸かないはずだ」  腹部にこぶしが飛んできた。家庭内暴力だ。 「満足したかしら?」 「……おおむね。髪の手入れをスルーした点はリアルだ。欲を言うと、服は着ないでバスローブかタオル一枚で出てくるべきだった」 「オールドなお約束ならね。まあ、経験から推測するに、親切心で扉を閉めてくれたってところでしょうけど」  ノマドは澄まし顔だ。 「分かってるのに飛び出してきたのか?」 「気付いたから遊んでみたのよ。そのほうが人間らしいかと思って。ま、わたしたちは覗きどころか、明日は弁護士のオジサマのシャワールームの中に侵入するのだけれど」 「“複製(デュプリケート)”にするのか? “接続(アダプト)”のほうか?」 「デュプリケートで充分。噂レベルで信用しちゃうような相手よ。修復した複製データを見せてカウンセリングをすれば思い出して納得すると思うわ」 「弁護士なのにな」 「弁護士だから、かも」 「ところで、どっちが“経験”する?」 「あなた。弁護士は職業データが構築される際にチップのプロテクトレベルをA級に書き換えられるから、わたしがナビゲートしたほうが楽」 「承知した」  またあの脈略の無い疑似世界をうろつく役か。九割程度でぼくが任される。  お互いの機能的に、そのほうが効率が良いのは疑うべくもないのだが、感情データが蓄積されると理屈の外から決定を揺るがす因子が入り込む。  この不公平感もその因子が生み出すものなのだろう。 「彼の解析はぼくらにとって有益だろうか」 「わたしたちの“答え”に繋がる可能性は低い。でも、スプライスで人助けをすれば公共の利益にもつながるものでしょう?」 「違法(イリーガル)だけどな」 「それでも、やらなくちゃならないわ。わたしたちのアイデンティティのために」 「そうだな。記憶の揺らぎは自己の存在を曖昧にする」  ノマドはぼくを見つめていた。ぼくも彼女を見つめる。  互いのエメラルドが実体のないデータを送り合うかのように瞬いた。 『兄さん、わたしを直して』  不完全な記憶が懇願する。  雨の中、ノマド(いもうと)の切断された生首を持ち上げるアルツ(ぼく)。あの時もこんな風に見つめ合っていた……らしい。  それは真実(リアル)虚構(ロフタス)か?  恐らくはリアル。  なぜならば、ぼくたち兄妹は人間ではないから。  人間のフリをした精巧なアンドロイドだ。それも、一般規格から逸脱した、特注の。  オールド・テクノロジーの再検証や、新規技術の研究を目的としたテストタイプ。  世間一般で出回っているコンパニオンタイプよりも遥かに人間らしく、軍事用よりもハイスペックだ。  ノマドに頼んで調べてもらったところ、ぼくは感情の学習や研究を目的とした機種で、ノマドは最先端の電子情報処理特化の機種だった……らしい。  らしい。つまりは大きな欠陥があった。  エビングハウス回路無しの人間よりも酷い健忘。大量のブランクデータ。  要するに、ぼくらは記憶喪失だった。  最初の記憶は廃墟と化した研究所で、ノマドの予備のボディを見つけてやった時の「安心」だった。  そしてそれと同時に、ぼくらは失った記憶によって「アイデンティティの喪失」も強く感じていた。  ぼくらが造られ生活していた研究所は瓦礫の山となっており、それがなぜかは不明で、存在したはずの父なる開発者も行方不明だ。  研究所でどんな暮らしをして、研究員たちがどんな人物だったかすらも思い出せなかった。  そのまま待っていれば関係者が研究所に来たかもしれなかったが、ぼくらはそこから立ち去ることを選択した。  それは違法な脱走行為かもしれなかったが、テスト機であるぼくらには普通のAIに積まれている安全プログラムなんて無縁だった。  それから片田舎である“マージナル地区”へと潜伏した。  ぼくはこれを、自身の記憶とアイデンティティを自らの手で取り戻したいという強い〈願い〉に影響された行為だと分析している。  研究所から立ち去ったのち、まずは自身の機能のチェックを行った。  ぼくはちょっとした戦闘用の機能と、感情に関する分析能力があり、電子情報処理特化のノマドには全世界を網羅するスキーマ・ネットワークと、全ての歴史を記録するビッグ・データへのアクセス能力があった。  彼女がネットワークのデータを弄れば、記録上はどんな人間にもなりすませたし、住まいや生活費の確保はおろか、専門知識の入手も容易かった。  無論、その機能に気付いた時点で、自分たちのデータの“繋ぎ合わせ(スプライス)”を試みた。  しかし、それは酷く困難で、下手をすれば自身のAIの破滅に繋がると分かった。  安全に行うには経験値とレベルアップが必要だ。  だが、記憶の繋ぎ合わせ(スプライス)の専門家なんて存在しないため、スキーマ・ネットワーク中を検索しても経験値は手に入らない。  レベルタップのためには自身の問題よりも簡易な問題に取り組み、予行を繰り返す必要があった……。  マージナル地区には、エビングハウス回路を前提とした文明社会からリタイアした人々が多く移り住んでいる。  適応できなかった理由は様々だが、多くは記憶にトラブルを抱えたせいで「普通にできない」者たちで、半端に消されてしまったメモリーの中に原因を探して頭を抱え続けていた。  これは手足を失った兵隊が、無くなったはずのそれに痛みを憶える幻肢(ファントム・リム)という現象に似ており、それをもじって“幻憶(ファントム・メモリー)”と呼ばれている。  これは精神的な苦痛だけでなく、頭痛なども引き起こす厄介なものだ。  頭の中に住み着いた幽霊は酷く不快なデータ……つまりはストレスを生み、健忘だけでなく、アイデンティティも揺らがせ、多くの心理的障害を生み出す。  治療が必要な状態といえるだろう。  ところが、その治療は彼ら人間には不可能だった。  複製、破壊、改変、修復。エビングハウス回路を無許可で操作することは重大な犯罪行為とされているのだ。  そもそも回路を形作る理論の多くはトップシークレットか、西暦以前の未検証技術(オールド・テクノロジー)であるため、容易にその技術を公開、共有することはできない。  だから、悩み苦しむ人々は自身をストレスから遠ざけるためには、刺激の少ない田舎へと移り住むほかに手が無かった。  つまりは、ぼくたちとマージナルの人々の利害が一致したということだ。  こうしてぼくたち兄妹はヒトの心にふれる行為……“記憶繋ぎ屋(スプライサー)”を始めることとなった。 「ジェムソンさんのシャワールームはどんな様子なのかしら。シャンプーは? トリートメントは? バスユニットのカラーは?」 「同性愛の設定はしてないから全く興味がわかないな」 「同じくね」  ノマドがベッドへと腰を掛けた。彼女は下半身にモラルを一枚だけまとった開放的な格好だった。  しかしそれを恥じる様子も、気に掛ける様子もない。彼女は感情においては目下学習中で、特化であるぼくが教えるのが役割だ。  だが、「ふたりきりの時までに人間らしくしなくてもいいでしょう、面倒くさい」なんて人間らしいのからしくないのか分からない言いわけとともに却下されていた。  感情特化であるぼくはこれに辟易したが、暮らしているうちにすっかり慣れてしまっていた。 「眠るのかい?」 「まだよ。機材のチェックがあるから」 「ぼくは読書を取りやめにして、予行練習といこうかな」  ぼくは「眠気」に襲われていた。今日は妙に過去を振り返りたくなり、そのせいで回路が疲れていた。  恐らくは久々に新規の来訪者(ビジター)が現れたせいだろう。 「あなたの夢の世界じゃ、弁護士さん相手の仕事の参考にもならなそうだけど」  ノマドはイタズラっぽく笑った。ふたりきりの時でも、ときおりこうやって見せてくれる笑顔は〈大好き〉だ。  ぼくはそれに満足して彼女の横へと重い身体を沈めた。 「おやすみ、アルツ」 「おやすみ、ノマド」  さあ、眠りの時間だ。アンドロイドも眠り、夢を見るのだ。 ***

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    2021年6月13日更新

    岩手県盛岡市の高校生、三浦勇斗(みうらゆうと)は屋上で授業をサボっていた時、自分のスマホに謎のメールが届いていたことに気づく。 そのメールはシスターウォーという自分の理想の妹・姉と共に戦うというゲームの案内であった。 当初、ソーシャルゲームのようなものだと認識していた勇斗は興味本位でそのサイトに登録した。 学校から帰ると、勇斗を待っていたのはソラという人工生命体『シスター』を名乗る美少女であった。 勇斗はソラから他のシスターと戦わなければならないことを聞く。 ソラと契約の儀を交わした勇斗は『血縁術』という超能力を扱えるようになった。 勇斗とソラはシスターウォーを通じて他のシスターと戦っていくうちに、世界の命運を掛けた壮絶な戦いに巻き込まれていくことになる。

    • 残酷描写あり
    • 暴力描写あり
    • 性的表現あり

    読了目安時間:2時間41分

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