咲夜。人の寿命が見える私と、来年までに死ぬ彼の話。

Part.21『緊迫』

 山頂公園から三枝子さんのアパートまでは、自転車で凡そ十分。目一杯スピードを上げながら、それでも行き違いにだけはならぬよう、歩道を行き交う人の姿を注視しながら進んだ。  アパートに着くころには、額にじんわりと汗をかいていた。キキっと音がする程乱暴に自転車を止め、高橋家の前まで走った私は、そこで一旦足が止まる。  高橋家の部屋の扉が、少し開いていた。  明日香ちゃんは、二人は施錠した上で部屋を出たと言っていた。それなのに扉が開いているという事は、二人は何らかの用事があって一度家に戻った。若しくは、  ──別の誰かが中に居る。  隙間から耳を澄ませてみるが、声や物音は聞こえなかった。怖い。怖くてたまらない。でも、迷ってる暇なんかない。今日、高橋さん親子に死が訪れる運命だとしたら、私がどうにかしなくちゃ……!  ノブに手をかけ静かに扉を引き開けると、直ぐにリビングに立っている男性の背中が見えた。  半開きになった擦りガラスの引き戸の向こう側。ワイシャツにジーンズという服装の男。そしてその向こう、リビングの中央に倒れている女性は──高橋三枝子さんだ。  予想に反して男が居たという事実に、恐怖が強くなり足がガクガクと震え始める。スマホをマナーモードに変更すると、先輩と明日香ちゃんに状況説明のメッセージを送った。  既に死んでいるのだろうか。戦慄を覚えながら三枝子さんの様子を窺うと、気を失ってるのか目を閉じてこそいたが、彼女の寿命は見えた。つまり、まだ息はあるという事なのだけれど、安堵してる訳にもいかなかった。何故ならば彼女の寿命、背景が透けて見えそうな程、色味を失い明滅していたのだから。  間違いない。今、この瞬間こそが彼女の最後の時。三枝子さんはこの男性に殺されるんだ。  躊躇してる暇は無いが、音を立ててもいけない。ドアは開けたままでゆっくりと靴を脱ぐと、足音を殺したままリビングに向かって廊下を進む。  呼吸が苦しい。  恐怖で心臓が飛び出しそうだ。  男性は身動きひとつせずに立ち尽くしている。  じりじりと壁際を移動すると、男性の脇を通り抜けてリビングの真ん中まで進み、倒れてる三枝子さんの傍らに(ひざまず)いた。ちらりと男性の様子を窺ったが、無精髭を生やした中年男性はぼんやりと中空を見つめているだけで目が合わない。  近くに祖母の姿はなかった。今は別室に居るのだろうか。  多少争った形跡がある、とリビングの様子を確認した後に、三枝子さんの肩を揺すって声を掛けた。 「三枝子さん。大丈夫ですか?」  そこでようやく彼女の瞼は開き、顔を上げた。 「……あなたは?」  酷くかすれた声。それでも、彼女が普通に応対できる状態だった事に安堵する。背中に触れてみると彼女の身体は小刻みに震えてこそいたが、頬に殴られたのか痣がある程度で、大きな外傷はなさそうだった。 「大丈夫ですよ」とだけ声を掛け、男性の顔を見上げる。 「中村さん……ですね?」  勇気を振り絞って頭に浮かんだ推論を述べると、彼は答えることなく私の方に胡乱な瞳を向けた。 「お前……誰?」 「あなた達の娘、梓さんの友人です。三枝子さんに……何をしたんですか?」  精神が錯乱している可能性がある。下手に刺激しないように、穏やかな口調で尋ねた。しかし彼はふっと不敵な笑みを零しただけで、興味を失ったように私から視線を外した。  動かないなら、今のうちかもしれない。 「一旦、外に出ましょう」  声を掛け三枝子さんを抱き起こそうとした時、突然、彼が呟いた。 「どうしてだよ」  地を這うような声に驚き顔を上げると、今度はしっかりと目が合った。彼の瞳に強い狂気が宿ってるのに(おのの)き視線を落とすと、彼が握っている物が見えた。  リビングの窓から射しこむ光を反射して輝いたそれは──包丁。 「ヒッ」  全身が粟立つ感覚。反射的に、抱き起こそうとしていた三枝子さんから手を離した。  同時に私の体もガタガタと震え始める。先に通報しておくべきだったと後悔するも時すでに遅し。沸き上がる恐怖を必死に押し留めて、男の顔を見返した。 「元を正せば、全部お前が悪いんだろう? 他所に男を作って、家庭を滅茶苦茶にしたのはお前だろう?」  中村さんは可笑しくて堪らない、というように笑った。向けられた暗く濁った瞳には、強い憎悪と絶望の色が浮かんで見えた。  恐らくは、押しかけて来た中村さんと話をする為一旦自宅に戻ったものの、何らかの理由で話が拗れてカッとなり、台所から包丁を持ち出したという所だろうか。なんて──冷静に分析してる場合でもないが。さて、どうしよう。 「たとえそうだったとしても、もう済んだことでしょう? 暴力では何も解決しません。娘さんが悲しむだけです」  必死に搾り出した声はしかし、中村さんの耳には届かないようだ。ゆっくりと包丁を持ち上げると、切っ先を私達の方に向けた。 「……何が今度は、娘を寄こせだ。虫が良すぎるんだよお前の言ってる事は。俺の人生を滅茶苦茶にした挙句、今度は梓まで奪っていく算段か? そうやって、全部俺のところから奪っていくつもりなんだろう!?」  娘を寄こせ? 言葉の意味が分からず私が困惑していると、それまで黙っていた三枝子さんが声を張った。 「そういうつもりじゃありません。だからお金も準備してるしちゃんと話し合った上で決めましょう、と言ってるじゃないですか。梓は──たった一人の私の娘なんです!」 「そんなもんは俺だって同じ事だ。たとえ血が繋がってなくても、梓は俺の娘でもあるんだよ。滅茶苦茶にしておいて、今更母親面するんじゃねぇよ!」  血が繋がってない?  頭の中に浮かんだ疑問を取り敢えず飲み込んで、興奮しだした彼の声に三枝子さんを抱きしめる。 「帰ってください」  動揺を隠してなんとか口にするけれど、やはり彼の耳には届かない。 「……死ねよ。お前の存在その物が、俺の人生を滅茶苦茶にしてるんだよ」 「ここは一度帰ってください。娘さんの事なら、後でゆっくりと落ち着いてお話しましょう。ね?」 「……おい女……お前も俺を責めるのかよ? みんなで寄ってたかって俺を責めるのかよ!?」   被害妄想にとらわれている。そう思えるほどに、彼の瞳に宿る狂気は強かった。 「違います。誰もあなたを責めてなどいません。三枝子さんはただ、娘さんを愛しているだけです。だから──」 「嘘だ!!」  響きわたった怒声が、部屋中の空気を震わせる。反射的に、両手を広げて三枝子さんを庇った。 「嘘じゃありません!」「ごめんなさい!」  私と三枝子さんの叫びが同時に響いた。しかし、中村さんの動きは止まらない。 「お前も、母親も、みんな纏めて死んでくれよ!」  ゆっくりと中村さんは私の方ににじり寄ると、手に持った包丁を振り上げた。  一切の音が消え去ったような世界の中、振り上げられた包丁の切っ先が鈍い輝きを放つ。 「あ……」  一瞬の後に、自らの結末を想像した。  全身の毛穴が開く。背中を冷たい汗が伝う。手足が小刻みに震えるのを意識しながら、それでも必死に両手を広げて三枝子さんを背中に庇った。襲ってくるであろう痛みに備えて目を瞑ったとき、耳をつんざくような女性の叫び声があがった。 「お父さん、ダメェェェェーーーー!!」  同時に響いた騒々しい足音に目を開けると、包丁を振り(かざ)した中村さんを正面から抱きとめる梓さんの背中が見えた。  黒いワンピースの裾を乱し、慌てて駆け込んで来たのであろう靴を履いたままの彼女は、手に凶器を持った父親を、けれど怯むことなく両手で抱きしめていた。 「ごめんなさい。お父さん! お母さん! 全部あたしが悪いの! 二人が離婚に至ったとき、お母さんがどれだけ追い詰められてたか知ろうとしなかったから。だからお母さんを苦しめた」  長い髪を振り乱し、未だ身じろぎする父親を、それでもギュっと抱きしめる。 「そして今度は、あたしの独断でお母さんと会ったりしたから、お父さんまで不快にさせた。全て元凶はあたしなの。……全部、あたしが悪いんだよ!」 「うう、梓……」  中村さんの低い嘆きと共に、カシャーンと音を立てて包丁が床に落ちた。私は痺れる両脚を叱咤して這うように移動すると、包丁を拾って回収した。 「梓……どうしてここに」  三枝子さんの声に、ようやく両腕の力を緩めた梓さんが答える。 「ごめんね、お母さん。そもそもの発端は、あたしの我が儘にあるの。せめて一言、『お母さんに会わせて欲しい』とお父さんに相談してからお母さんに連絡してれば、こんなに話は拗れなかったのにね」 「……」  三枝子さんは無言で首を振った。 「あたしがお母さんと会うことで、鎮火していたはずの問題が、二人の間で(くすぶ)る可能性も分かってた。……でも、お母さんだけが唯一の肉親だって気付いたら、自分の気持ちが抑えられなくなったんだよ」 「梓……、知ってたの!?」  三枝子さんが息を飲む音が聞こえた。梓さんはコクリと首を縦に揺らした。 「血液型による親子判定で、不一致がでた時に気が付いた。あたしとお父さんの血が繋がっていない事実には」  彼女の言葉に、中村さんは神妙な顔で唇を噛み、項垂れた。 「どういうことなんですか?」私の質問の後に続いた梓さんの説明で、全てが腑に落ちた。  梓さんの本当の父親は、彼女が物心つく前に不幸な交通事故で亡くなっていた。三枝子さんは後に中村さんと再婚をしたが、本当の父親が死んでいる事実を梓さんに隠したまま、それでも彼は、本当の娘と変わらぬ愛を注ぎ育てた。  だが、生活は順風満帆とはいかなかった。中村さんの浪費癖に、家庭内暴力。それらが引き金となって起こった三枝子さんの不貞。様々な問題が絡み合って離婚に至ったのは、私の推測通り。離婚の直接的原因が母親の不貞だと恨んだ梓さんは、何の疑いも持たずに父親に付いていくことを決める。  しかし、後に血液検査の結果が出て真実に気が付くと、母親に会いたいという衝動が抑えられなくなってしまう。そして母親との密会を経て親権問題が再燃すると、娘を奪われる恐怖から、疑心暗鬼を募らせた中村さんと三枝子さんとの間で、話が拗れ始めたようだ。 「本来私は、梓に会えただけで満足しなくてはならなかったのに、親権迄欲しいと主張したものだから、全てがおかしくなり始めた」  母親の懺悔に、今度は梓さんが首を振る。 「そんなことない、嬉しかったよ。むしろあたしの方こそゴメンね。自分から会いたいと言い出しておきながら、その後冷たい態度を取ってしまって」 「梓……」  父親を気遣いながらも、唯一の肉親に寄り添いたかった娘と。例え形は歪でも、娘のことを護りたかった父親と。ただ純粋に、娘を手元に置きたいと欲した母親。  どんなに皮肉な結果を生んだとしても、其々が家族のことを思って行動していたのは事実なんだ。 「本当はね、今日も来ないつもりだった。あたし達の密会を知った時、お父さんは凄く辛そうな顔で、あたしのことを怒鳴ったから。だから、もう二度とお母さんと会わない方がいいだろうと思った。お母さんの事を忘れるため、心を押し殺して冷たい態度に徹した。でも──」  梓さんの言葉で、彼女がずっと本音を隠し続けていたんだと悟る。だからこそ私と接触したあの日も、母親の呼び方が不安定だったんだ。  梓さんは、自身の足元に蹲ってしまった父親に目を向け、次に私の方を見た。 「そこの加護さんに言われたのよ。お母さんは自殺を考えてるかもしれない。だから、力を貸して欲しいってね。まさか、と思った。有り得ないって笑った。でも、一度気になってしまったら、頭から離れなくなったの」 「あ、でも……、よくここに私が居るって分かりましたね? 私は山頂公園に来て欲しい、としか伝えていないのに」  そう、私は梓さんと連絡先の交換を一切していない。今にして思えば、実に浅はかだったと思う。 「今泉君にアパートに行けと教えて貰った。彼、私の友人と知り合いだったから」  彼女の返答で腹落ちする。梓さんの情報を調べていく過程で、直接の連絡手段を先輩は確保してたんだ。弱りましたね。これでは明日から頭が上がりません。 「ありがとう、加護さん。私に一歩を踏み出す勇気をくれて。それからごめんなさい、お父さん。私の身勝手で苦しめてしまって。これ以上にお母さんに関わったら益々お父さんは辛い顔をするって分かってたから、今日も来ないつもりだったんだよ?」  床に手をついて泣き始めた父親を軽く抱きしめた後、梓さんは立ち上がってこちらに向き直った。 「でも、本当に来て良かった。あたしがもう少し逡巡してたら、取り返しのつかない事態になるところだった。ねえ、お母さん」  梓さんの視線が、私から三枝子さんに移る。 「本当に死のうと考えてたの? もしそうだったら……そんなのダメだよ。死んじゃったら何も残らないじゃん。死んじゃったらあたし、お母さんに会えなくなるじゃん。会いたいって言い出しておきながら、後々態度を豹変させたのは確かにあたし。でも、あんなの本心じゃない。あたしはずっと──いつもいつも」  必死に捲し立てる彼女の側に三枝子さんは立つと、両手を背中に回してゆっくりとした動作で抱き寄せる。 「ごめんなさい、娘をこんなに泣かせて。私は母親失格ね。そうね、もしかすると、梓の言う通りなのかもね。私は自身の不貞で離婚に至ったこと。結果として、梓の親権を手放したことを酷く後悔してた。そんな中でも、あなたが私に会いたいと言ってくれたこと、凄く嬉しかったの。それなのに、会うだけで満足できずに、自分の我が儘を通そうとしたから話が拗れてしまって……。娘に会いたくても会えない日々。日に日に、私の顔を忘れていく母親。塞ぎこむ毎日に疲れて、命を絶とうと考えた事も確かにあったわ。……本当に、恥ずかしい母親」  しっかりと抱き合う親子の様子を見ながら、三枝子さんの頭上にそっと目を向ける。──うん。年数は公表しないでおくけれど、少なくとも一年ではなくなった。  私の役目も終わりだな、と立ち上がりかけたその時、パトカーのサイレンの音が聞こえてくる。たぶん、先輩か明日香ちゃんのどちらかが、気を回して通報してくれたのだろう。少しばかり遅かったけれど、これで良かったのかな、とすら私は思う。  こうして高橋家に纏わる一連の騒動は幕を下ろす。  ちょっとした気持ちのすれ違いから起こった、不幸な事件。本当に大変なのは、もしかするとこれからかもしれない。  でも、お互いに気持ちをぶつけ合い痛みを分かち合った今、きっと彼らは何らかの解決策を見つけて前を向けるはず。  思えば散々振り回されて、散々悩んで西に東に奔走し、情報収集を繰り返しては神経をすり減らして、挙句の果てには危うく殺されかけた。それなのに、不思議だな。  こんなにも──清々しい。    梓さんに頭を下げると、駆け込んできた警察官と入れ違いにアパートを後にする。自転車に跨ろうと思ったその時、仲間たちの呼ぶ声が聞こえた。

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