夕食後私は自室に戻ると、ベッドの上に腰を下ろして読み止しの小説から栞を抜き開いた。
ここのところ、ようとして執筆が捗らない文化祭用小説の参考にしつつ、気晴らしになればいいなと、インプットを目的とし購入してきた新刊だった。
ページを捲り、読み進めていく。読めば読むほどに、自分とプロ作家との違いを痛感させられる。
整った文体。
多彩な比喩表現。
何気ない情景描写の中にまで垣間見える、斬新な表現力。
これまで読んできたどの小説と比べても違っているというか、文章力も技法も抜きんでていて、感嘆の溜め息しかでない。
一度本から顔を上げた。
ちょいとばかり、レベルの高い作品を選び過ぎただろうか。過ぎたるは猶及ばざるが如し、とでもいうべきか。ここを目指しても手が届くはずがないという落胆と、では、自分はどんな作風を目指すべきなのか、という困惑が、纏めて押し寄せていた。
目標がよけい見えなくなったこりゃ不味い。前途多難だ。
そんなことを考えている時、チャットアプリの着信音が鳴った。
誰だろう、とスマホを拾い上げる。
明日香【それで、明日は何時?】
咲夜 【十四時、彼女が何時も向かう公園で説得してみる。明日香ちゃんは、アパートから二人が出るところを確認してくれると嬉しい】
明日香【了解。じゃあ、少し早めの時間に出て、真っ直ぐアパートに向かうね】
京 【本当に明日で大丈夫なのか? なにか勝算でもあるの?】
咲夜 【勝算は正直微妙……。でも、色々な可能性を考えた結果、死因はほぼ自殺で間違いないと思うんだよね。そうなってくると、予定を遅らせる理由がない。待てば待つほど、状況が悪くなっていく気がする】
京 【それはまあ、確かに。善は急げか】
その時階下から、「風呂が沸いたから入りなさい」と言う母親の声が聞こえてくる。私は「わかった」と返事をすると、次のメッセージを打った。
咲夜 【親に呼ばれたので、お風呂行ってきます】
明日香【いってらっしゃい】
京 【後でこっそりと、エロい写真送ってね】
咲夜 【グループチャットで、こっそりも何もないでしょう? バカなんですか】
京 【え、こっそりなら送ってくれるの?】
咲夜 【死んで下さい。そもそも、私の裸でエロくなるわけないでしょう?】
普段通りのやり取りに忍び笑いを漏らす。スマホを床に置き、着替え用の下着とパジャマを手に取り立ち上がろうとしたその時、もう一度だけ着信の音が鳴る。何、と疑問に思いつつメッセージを表示させた。
明日香【なるよ】
京 【なるよ】
「あんたらは……」
本気なの、と思った。
湯船に深く身体を沈め、ふう、と心地良いため息を吐き出した。吐いた息は、浴室に立ちこめる湯気と交じり合ってすぐに消えた。お湯の温もりが全身に染み渡ってくると、波立っていた心が凪いできた。
水面に目を落とすと、細い髪の毛が数本絡み合うようにして漂っていた。
私の髪の毛は細くて切れやすいので、ちょっと強めにブラッシングするだけでも、不安を煽るように抜け落ち死んでいくのだ。
瞼を閉じて顔を揉む。そして、明日のことに考えを巡らしていった。
いよいよ明日、高橋三枝子さんを説得すると決めた。
二人の行動パターンを、復習を兼ね思い出してみる。彼女らはアパートを出たあと大きい通りに抜けると、北東の方角にある本牧山頂公園を目指す。そこの散歩道を半周ほどまわったのち、同じルートを辿って帰路に着く。
接触を試みる場所は、高台にある散歩道の中央付近を選定した。
私達三人に加えて娘の梓さんも呼んでいるため、広い場所が望ましいのが理由の一つ目。二つ目は、自宅アパートに押しかけて万が一警戒心を抱かせてしまった場合、施錠して閉じこもられると手も足も出せなくなるからだ。
チャンスは恐らく一度きり。失敗は絶対に許されない。
彼女達が、何時、どんな方法で死ぬのかは、最早大した問題ではない。自殺しようという考えそのものを改めさせない限り、二人を救い出す手立てはないのだから。
三枝子さんは、私の声に耳を傾けてくれるだろうか。成功のカギは、先日声掛けをした梓さんが来てくれるかどうかに、大きく左右されるだろう。
「……」
ふと、冷静になった。私、結構とんでもないことをしているな──。
思えば中学の頃まで、寿命一年の人物を見かけても、見てみぬ振りをして、何もしようとしてこなかった。
深く関わり合いになればなるほど、救えなかった時のショックも相応に大きくなると知っていたから。
それがどうだ。
小学生の命を救い、見ず知らずの高橋さん親子を救おうと帆走している。
全ては、先輩がいるからなんだ。
彼の寿命が一年なのを見かけて屋上まで駆け上がったあの日以降、たびたび行動を共にするようになり、あまつさえ手を貸してもらっている。
本当にお人よしというか──変な人。
明日、三枝子さんに声がけをした時、変な顔をされるだろうか? 本当に死因は自殺でいいんだろうか、ということ含め不安は尽きない。
それなのに、不思議と心は落ち着いていた。大丈夫だと思えるようになっていた。私の『寿命が見える』という能力を理解し、受け入れ、行動を共にしてくれる仲間が今は居るから。
ちゃぽん、と私はお湯の中に半分だけ顔を沈めた。
* * *
翌日の天候は、生憎の曇天。
厚い雲が太陽を覆い隠し、私の胸中に渦巻く不安を煽るように、一筋の光も射しこまない。
身震いしそうなほど肌寒い風が吹きつける中、私と今泉先輩の二人は、本牧山頂公園の散歩道に居た。
高橋さん親子がアパートを出たという連絡が、明日香ちゃんから届いてから既に十分。私の見立てでは、もう間もなく二人の姿が見えてくるはずだった。
ジョギングをしている男性や犬の散歩をしている女性の姿に紛れ、自転車を漕いでいる女の子の姿が見えてきた。
「ごめん、遅くなった」
私達の側までやって来ると、明日香ちゃんは自転車を急停車させる。
「あれ、梓さんは?」
明日香ちゃんの質問に、先輩が首を横に振った。
「残念ながら、まだ来てないね。まだ、というか、そもそも来ないのかもしれないけど」
行き交う人の姿に目を向けながら、先輩の顔が失望の色に染まる。
「しょうがないよ。来てくれたら儲けもの、くらいに考えていたし」
相槌を挟む私も、落胆の思いを隠せない。実の娘が来てくれたなら、どんなに心強かっただろうか。
「そっか」一方で明日香ちゃん声は淡々としている。「あと十分くらいで見えてくる?」
「たぶんね」
私も先輩に倣って、散歩道を歩く人の姿に目を配る。もっとも、車椅子を押して歩く二人の姿は目立つため、万が一にも見逃すとは思えないが。
散歩道の脇に設置された石造りのベンチに腰を下ろして、二人の到着を待ち続ける。不意に肌寒さを感じると、制服の上から着ていたパーカーの前を閉じ、裾をぎゅっと握り締めた。
そのまま暫くの間、誰も口を開かなかった。
続く沈黙が、不安と心細さを加速させる。
五分。
十分。
十二分。
「ねえ」「なあ」
明日香ちゃんと先輩の声が同時に上がった。
「流石にオカしくないか」
明日香ちゃんが譲ったことで、二の句は先輩だけが紡いだ。
確かにおかしい。私はスマホを取り出して、時刻を確認した。
明日香ちゃんから二人がアパートを出た連絡を貰ってからもう二十五分。私の見立てよりも、到着は五分以上遅れていた。寄り道をしているだけだろうか。そう思いたいのに、不安だけがかきたてられる。
「うん、確かにちょっと遅い。でも、もう少し待ってみようよ──」
「それでいいの?」
被せられた声にハッとすると、先輩が食い入るように私の顔を覗きこんでいた。顔、近いです……。
「でも、待つ以外にないじゃないですか」
「例えば、二人が自殺するのが今日だとしたら?」
「え?」
「加護はさ、二人が自殺を決意するのが、今日じゃないという根拠はあるの?」
今日、死ぬ? 先輩の言葉に戦慄が走ると、背筋がぞくりと冷え込んだ。
「根拠なんて、ある訳ないです……まさか? え、どうすればいいのかな?」
天地が引っ繰り返るような感覚。足元が覚束なくなってしゃがみ込んだ私の肩に、先輩がそっと手を置いた。
「落ち着け加護。仮にそうだとしても、俺たちは三人いるんだ。手分けして捜せばまだ間に合う」
「横浜市中区にある橋」
明日香ちゃんがスマホの画面をタップしながら、口を挟んでくる。
「なに、それ」
「自殺の多い場所を調べてる。ホントはこんなの、調べたくないけど……」
整った眉根を寄せつつも、尚も検索を続ける彼女。
「そっか……、この本牧公園も結構スポットあるみたいね。満坂口の階段の上、上りきった所にある広場の茂み、林道、本牧神社口。うわあ、多すぎてこれは絞り込めない」
「中区か、ちょっと遠いな……。でも、彼女らがタクシーを利用すれば、あるいは」シャツの裾を捲り腕時計を確認しながら先輩が言った。「今日だと断定はできないが、可能性は潰した方がいい。じゃあ、その橋は俺がバスを利用して向かってみる。元々俺だけ歩きなんだし、その方がいいだろう」
彼の言葉に、うん、と明日香ちゃんが肯いた。
「じゃあ私は、今スマホで確認した情報を頼りに、公園内を探し回ってみるね。まっかせてー、こう見えても脚力には自信あるからさ」
自転車に跨りながら、明日香ちゃんが不安を吹き飛ばすように拳を握る。
「それと、咲夜」
「あ、うん」
「咲夜は急いで高橋さんのアパートに戻ってみて。彼女らの散歩コース、把握してるんでしょ? 行き違いにならないよう、コースを逆に辿るようにしてさ」
「分かった」
私が自転車に跨ったのを確認してから、今泉先輩が総括した。
「んじゃ、高橋さんらが見付かったら必ず連絡入れる事。それと結果はどうであれ、十六時迄には各自一報を入れる事。おーけー?」
「りょーかい!」「分かりました」
私と明日香ちゃんの返事を合図に、三人は別々の方角に走り始めた。
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白胡麻もち
【なるよ】に噴き出しました、なんだこのコンビネーション(笑) 笑える前半部分からの、緊張感が滲み出る後半。自殺は阻止できるのか、そもそも自殺なのか? 続きが気になります。
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白胡麻もち
2020年10月5日 3時40分
木立 花音
2020年10月5日 20時27分
前フリした上での「なるよ」ですからねw 笑って頂けて嬉しいです。ここは気が利くようで(いや、利くんですけどね)デリカシーに欠けた部分のある京君と、何故か乗っかる明日香による妙に息のあったタッグです。さて、次は二章のクライマックスなので、だいぶ気合い入れた部分ですの。
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木立 花音
2020年10月5日 20時27分
むらもんた
むらもんた【なるよ】
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むらもんた
2020年4月2日 12時53分
木立 花音
2020年4月2日 15時06分
その感想は初めて貰いました。ちょっと笑いました("⌒∇⌒")
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木立 花音
2020年4月2日 15時06分
むらもんた
むらもんた【なるよ】
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むらもんた
2020年4月2日 12時49分
木立 花音
2020年4月2日 15時08分
電波の関係でコメント重複の件、了解しました。ポイント勿体ないので、このままにしておきますね(←浅ましいな)
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木立 花音
2020年4月2日 15時08分
DANDY
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DANDY
2021年1月13日 0時09分
木立 花音
2021年1月13日 22時46分
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木立 花音
2021年1月13日 22時46分
Super3l
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Super3l
2020年8月11日 9時30分
木立 花音
2020年8月11日 17時36分
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木立 花音
2020年8月11日 17時36分
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