難聴の女性と、盗みを働こうとした少年が出会った小さな物語です

さよならの縁、金木犀の薫り

 私は重度の難聴である。  右耳は、子供の頃からほとんど聞こえず、左耳は微かに物音を拾える程度だった。  学生の頃の給食の時間は地獄だった。  人間には、自分が咀嚼する音や手を叩いた時の音――つまり骨が振動して聞こえる音と、他人が話すことを聞いたり音楽を聴いたりする、鼓膜から聞こえる音の二種類に分かれている。  私は、自分の咀嚼音は聞こえるが、食べている時に人の話は一切耳に入ってこなかった。聞こえないのだ。食事中に、私に話しかけられても、私は何も反応が出来なかった。  だから周りからは「私ちゃんに話しかけても無視する!」と言われて、虐めの対象になった。話しかけても答えない冷たい人間には、正義の断罪をしなければならない。私は裁かれ続けた。  辛い学生生活を終えて、私は社会人になった。  幸い、私は手話を覚えていたので、手話通訳者として働くようになった。 『今日はいい天気ですね』 『あなたに会えて、嬉しいと思っています』  ある日、仕事が休みの日にスーパーで買い物をしていた時だった。  黒い学生服を着た、中学生くらいの少年が、パンコーナーの前で、辺りをきょろきょろと見回していた。  妙に気になった私は、遠くから少年を観察した。しばらくすると少年は、一つのパンを、こっそりと自分の鞄の中に入れた。  万引きだ。  その場を離れていく少年を追いかけて、思わず肩を掴んだ。肩を掴まれた少年は、鋭く私を見上げて、口をぱくぱくと動かした。  何か言っているのだろうが、私には聞こえない。 「万引きは、駄目よ!」  大きな声で言うと、少年はあからさまに目を泳がせた。スーパーの従業員が私たちに駆け寄ってくると、口をぱくぱくとさせた。恐らく、どうかなさいましたか、と言ったのだろう。 「この子、未会計のパンを鞄に入れたんです」  そう言うと、少年は項垂れた。  鞄を開き、従業員に中身を見せた。あんぱんが一個、入っていた。  少年は事務室に連れていかれた。なぜか、私も。事務室の椅子に座り、項垂れている少年は、腹を押さえていた。もしかして、お腹が空いているのではないだろうか。  そう思いながら、店長と思わしき男が少年に対して、何か話しかけている様子を黙って聞いていた。  しばらく経ってから、少年と私は開放された。少年の目は赤く、涙がぼろぼろと流れ落ちていて、腹をまだ押さえていた。 「ねぇ、お腹減ってるの?」  少年は、ぱっと顔を上げた。それから、頷いた。 「じゃあ、近くのコンビニに行こう。肉まん、買ってあげるから」  少年の手を引くと、少年は驚いた様子で口をぱくぱくとしていた。言葉は聞こえないが、酷く驚いている音は聞こえた。  肉まんを二つ買って、少年に渡した。  少年は、おずおずと肉まんを受け取って、口にした。がつがつと、無我夢中で食べた。少年の目から再び涙がこぼれた。私は少年の頭を撫でた。  食べ終わり、少年は私に話しかけた。 「ごめんね、何を言ってるか分からないの。私、難聴だから。もう、パンを盗んじゃ駄目よ」  そう言って、私は笑った。少年は鞄を開けて、ノートとシャープペンを取り、ノートに何かを書いて私に見せた。 『ありがとう、ごめんなさい』  綺麗な文字だった。 『僕の名前は隼です。お姉さんはなんて言うんですか』 「佐藤静香よ」 『教えてくれて、ありがとうございます。肉まん、本当に美味しかった。ありがとう』 「もう、暗くなって来たし、帰りなさい」  私は手を降って、隼と名乗った少年と別れた。  あぁ。なぜ、今頃になって、こんな事を思い出したのだろう。  私はあれから長い年月が過ぎて年老いた。体から、力が抜けていく。  あの隼と名乗った少年は、今、どこに居るのだろうなぁ。そう思いながら、そっと目を閉じた。 「おい隼、遺骨を回収するぞ」  黒服の男に呼ばれた隼は、頷いた。隼は、焼かれて骨だけになったもの――遺骨を壺の中に入れていく。黒服の男は、遺骨を壺の中に入れながら、隼を見た。手が止まる。 「ん、どうした隼。泣いてるのか?」 「えぇ、はい」  隼の目から、大粒の涙が零れていた。 「この方は、重度の難聴だったようですね」 「そうみたいだな」  隼は、自分が中学生の頃に、初めてパンを盗んだ記憶を思い返していた。家が貧しく、一日一食だった頃。  あまりの空腹に耐えかね、隼は、あんぱんを盗んだ。誰にもばれていないと思ったが「万引きは駄目よ!」と女性に肩を掴まれた。しかしその後、女性は自分に肉まんを奢ってくれたのだった。  その過去が、今も鮮明に思い出せる程、衝撃的だった。  人の優しさに触れることで、自分が辛い時には、静香を思い出して苦難を乗り越えた。 「この方のお名前は、佐藤静香さんと仰いましたっけ」 「ああ」  間違いない。難聴で、佐藤静香と名乗る女性。  あの時の――。  また会いたいと思って、静香と出会ったスーパーやコンビニに行って探したが、会うことは無かった。もう一度会いたいと思っていたが、まさか葬儀屋として働く中で、再会するとは思わなかった。しかも静香は骨となって――。 (僕の手で、あなたの最後を、看取ります)  そう思いながら、隼は丁寧に遺骨を壺の中へ入れる作業を進めた。  どこからか、金木犀の匂いが漂った。

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