―Fifth World―  若きジーニアスボーイの悩み

Chapter:61 「今日はずっとむつかしい顔してるの」

 浦場家の朝は、厳かに始まる。 「おはようございます」  身支度を完璧に整えた景が食堂に現れた時、すでに大きなテーブルには祖母と父親、それに姉の旭がついていた。口火を切ったのは旭だった。 「おはようございます、景さん」 「おはよう、景」 「おはよう、景さん」 「すみません、遅れました」  本当は父親よりも、もっというなら祖母よりも早く起きて二人よりも早くテーブルにつかなくてはいけない。それが、浦場家のおかしなしきたりのひとつであったのだが、この日は、二人ともそのことについてとがめることはなかった。もう一人、浦場家のしきたりを破っている人間がいるということを、その場の空気が語っていたからである。 「……円華さんはどうしたのです?」  わずかに怒号をふくんだ祖母の声。景は朝食の到着を待ちながら、膝の上で拳を握っていた。お手伝いのとく江が三人に水を配りながら、とりなすように言う。 「あの、奥様はご気分がお悪いとかで、まだお部屋の方でお休みになっておられますが」 「気分が、ですって?」 「ああ……昨夜顔色が悪かったようだから」  父親は静かに水を口に含んだ。祖母はためいきひとつ、ついた。 「だいたい円華さんは体が弱すぎます。それでも浦場家の嫁ですか」 「え……」  景は思わずそうつぶやいてしまったが、祖母に口答えのできる立場では到底ないことは自分がよく知っている。 「なにか?」 「は、いえ……」  まったくもうすぐ八十歳を超えようというのに耳聡い。 「とく江さん! 起こしていらっしゃい!」 「なっ……」  いくらなんでもそれはあんまりだ、景はそう言いかけてやはりやめる。それは彼が心の中で、わずかな期待を持っていたせいでもあった。しかし、その期待は瞬間的に崩れた。 「…………」  父親は黙ってコップの中の水をあけていたのである。景はこの空気に耐えかねて、立ち上がりかけた。それがしきたりにそわないことだと知っていて。だが、その時、 「……申し訳ありません、おはようございます……」  母親がきちんと着物を着込んで、食堂にやってきた。その顔は白く、唇の色は口紅でようやく補われていると解るほどに悪かった。 「遅いですよ、円華さん。清一朗の出勤を見送らないなど嫁として恥ずかしいこと。そうそうに朝ごはんをお食べなさい」 「はい……」  起きたばかりで朝ごはんが入るものですか! 景はそれだけの言葉をやっと飲み込む。  やがて全員の前に朝食が置かれた。五人は話題もなく、一言もしゃべらずに黙々と朝食を口に運んだ。景は心底味がないと感じるその朝食を、静かに咀嚼した。 「………………」  この空気が彼にとっては今一番気持ち悪かった。そうして景は、やっと、さっきからまったく発言していない人物がいることに気がついた。  それは静かに朝食を咀嚼し続けている、彼の姉。 「……姉様。……」  景のつぶやきに、彼女は答えなかった。静かな瞳でおのれの両親祖母を見つめながら、旭は黙って朝食をとっていた。  そういえば、と、景は思った。姉様がこの家で自己主張したことはほとんどない、と――だから今の今まで発言がないのも普通のことだと思えたし、存在感は至極薄かった――だが景は、それさえも一種不可思議な、一種奇妙な面持ちで、第三者的に見つめた。  なぜこの家はこんなに重苦しいのでしょう。  景はため息をつくと、「ごちそうさまでした」とだけ言って、席を立った。母親のことは心配だが、まさかいくら祖母でも母親を追い出すような真似はしないだろう……それよりも早く出ないと、またしても遅刻寸前は免れまい。 「もう行くのですか?」  カバンを持ちかけた景に、祖母が聞く。景は背中になにかがツルッと流れた。 「……ええ、もう行かなくては間に合いませんので……父様、行って参ります……」  これもしきたりのひとつだった。必ず父親には挨拶をし、続けて、 「母様、おばあさま、行って参ります」  と言う。 「うむ、行ってこい」 「行ってらっしゃい」 「行ってらっしゃい、景さん」  景が玄関まで行った時、あとに旭がきているのを、彼は靴を履きかけてやっと知った。 「……姉様?」 「行っていらっしゃい、景さん。そのうち……お話ししましょう」 「え……」 「景坊っちゃま」  景が二の句を継ごうとした時、とく江がパタパタと走ってきた。 「どうかしたんですか?」  彼がそう聞いた時、すでに旭はもう一度食堂に向かっていた。 「いえ、あの、お見送りをと思いまして。今日のお帰りは何時ごろになられますか?」 「……ええと……いつも通りになると思います。遅れるようでしたら連絡しますので」  それもいつものことだ。【伝説の勇士】になってからはなおさら。 「はい、承知しました。行っていらっしゃいませ」  景はまたため息をつくと、五月の家に向かって歩き始めた。  それにしても解らなかったのは……旭の一言だった。  『そのうち……お話ししましょう』  なにを話すのだろう。今までまったくそんな素振りすら見せなかった旭が、自分に、『話をしよう』と言った。  ――浦場景、十五歳。  天才少年と謳われる『聡い』彼にも、解らないことはあった。  いつものように、景は五月の家の前まできた。家の外にある階段をのぼると、玄関がある。景はそっとインターホンを押した。 『はーい』  低めではあるが優しさを帯びた声がする。 「おはようございます、浦場です。五月サンをお迎えにきました」 『どうぞ』  察するに五月サンのお父様ですね、そう、景は思った。ドアをカチャリと開けると、奥の方からパタパタとスリッパの音が聞こえた。 「あ、おはようございます……」  もう一度挨拶をする。予想は当たりで、景の眼前に現れたのは五月の父親の明彦だった。朝食の最中だったらしく、ヒヨコのエプロンをつけている。 「おはよう。いつもすまないね、五月はすぐ来るから、少し、待っていておくれね。――牛乳でも飲むかい?」 「あ、いえ。大丈夫です」 「じゃあ、そこに座っていて」  景がその言に従うのとほぼ同時くらいに、ヒヨコが家の奥に消えた。景はその方向を見つめ、ひとつ、ため息をついた。  なぜだろう、自分でも、ため息が出た理由が解らなかった。 「カーくうん」  本当にすぐに、五月はやってきた。カバンを手に持って、パタパタと走ってくる。景は少し、気をとりなおして立つと、五月の顔を見てくすりと笑った。 「五月サン。今日のジャムはブルーベリーでしたか」 「え? どうして解るの?」 「唇のはし。指でおすくいなさい」  なるほど五月の唇のはしには紫色の物体がほんの少し、くっついている。五月は玄関の鏡を見ながら、指でジャムをすくうと、ぺろんとなめた。 「これでどう?」  とてとてと一回転。 「ええ、よいでしょう。博希サンを迎えに行きましょう」 「うんっ。いってきまあす」 「行っておいで」  父親に見送ってもらって、五月の家を出た二人は、博希の家へ向かった。その間ずっと景は難しい顔をしていた。五月は眉根にシワを寄せっ放しの景が少し、心配になって、聞いた。 「カーくん。どうしたの。むつかしい顔してる」 「え……ああ、いえ、――五月サン、」 「うん?」 「五月サンのお父様は――毎朝、ああでしたっけ――」 「んーとね、ママは月曜と金曜で、それ以外がパパ」 「……ああ……そうでしたかね。すみません、くだらないことを聞きました」  景は素直に頭を垂れたが、その会話がきっかけとなり、五月の口からは今日の朝食のメニューについての話がとうとうと流れてきた。 「今日はね、オムレツとサラダとポタージュと」 「もういいですよ、解りましたから。ほら、博希サンのお宅がもうすぐです」  本当に博希の家はすぐそこだった。二人の目に『まつゐ寿司』の看板が飛び込んでくる。五月は髪をゆらしてとてとてと走りながら、 「カーくんも早くう。ぼく先に行くよう?」  言った。景は柔らかく笑って、お先にどうぞ――と言うと、看板を少し、まぶしそうに見た。  夏の朝は涼しい。景は少しひんやりとする風に当たりながら、五月のあとを追う。ちょうど、五月は玄関先ですう――っ、と、息を吸っていたところだった。そう、セオリーのスタンバイ。 「ヒ――――……」  すぱぁんっ!  店の戸が素早く開けられる。 『ヒ』で発言を完全に遮断された五月は、――景からは見えなかったけれど――呆気にとられた、ほけろんとした顔で、戸を開けた主を見上げた。 「あやあ」  ぴょんぴょんとはねた髪の博希が、脱ぎかけたシャツもそのままに、五月を軽くにらんでいる。どうやら起床はついぞ五分ほど前らしい。 「……すぐ着替えっから、そのまま黙って待ってろっ。上がれよ」  五月、ついで景が玄関をくぐると、奥から、博希の母親の素子がお盆つきで出てきて、自分の部屋に引っ込みかけるおのれの息子の頭をちょいとはたいた。 「あいた」 「さっさと準備しておいでっ。――おはよう、いらっしゃい、二人とも」 「おはようございまぁす」 「おはようございます」  お盆の上には麦茶とひとくちスイカが乗っかっていた。 「博希の支度ができるまで、お食べよ。朝のくだものは金て言うでしょ」 「うわぁい、ぼくスイカ大好き」 「ありがとうございます、いただきます」  はてスイカはくだものでしたかね、という疑問は置いておいた。非常に美味しそうである。景もひとつ、取って、食べることにした。  しゃぐ。  五月ほど小さくはないにしろスイカのはじの方を少し、噛んだ景は、口の中をスイカの水分で満たした――が、 「……うん?」  眉が片方だけ、歪む。スイカにわずかな苦さがあった。景は五月をすぐに見たが、彼は美味しそうにスイカをしゃぐしゃぐとやっている。  ――気のせいでしたか?  景はついで、麦茶にも手を伸ばしたが、麦茶も、少し、苦かった。無論普通の麦茶なら多少の苦さがあって然りなのだろうが、なにか奇妙な苦さを、彼はその麦茶から感じた。 「…………」  この聡い少年には苦さの原因がわかるような気がしていた。腰をかけた畳を、指先でついとなでる。まだスイカを頬張っている五月を見ながら、景は柱にもたれた。  支度の終わった博希がやってきたのは、それからすぐだった。 「悪ィな、待たせて。行こうぜ」 「うん。ごちそうさまあ」 「ごちそうさまでした」  もちろん博希はスイカを頬張るのと自分の喉に麦茶を注ぎこむのを忘れなかった。それでまた、素子にはたかれる。 「ってぇ」 「早くお行きっ。遅れるよッ」  五月と景はそれを見ながら、立ち上がって、戸を開けた。その時に至っても、まだ景の眉は厳しいものだったらしい。五月が少し、戸惑って、彼をちらちらと見ていた。  博希の家を出てしばらく、さすがにしゃべらない景に、博希もわずかな戸惑いを感じたのであろう。本人に言い出せないとでも思ったのか、少し後ろを歩いていた五月の歩調に合わせて歩きながら、博希はコソリとつぶやいた。 「……景、さあ。どうかしたのか?」  その質問を聞いて、頭と一緒に長い髪が左右に揺れた。 「わかんない。今日はずっとむつかしい顔してるの」 「フーン。なんだろうなあ」  腕を組む博希。それを知ることなく、彼らの少し前を歩いていた景は、自分でも解らないうちに、わずかに唇を噛んでいた。  嫉妬とか……そういう感情なんでしょうか、これは……  もとより他人のみにとどまらず、おのれの分析までもしてしまうという、ある意味厄介な性格をもって育った景である。しかし今は、どうやら説明も分析もしがたい感情が、モロに襲ってきているらしかった。それよりも考えなければいけないことがあったことなど、頭の中からはかき消えていた。 「あ」  出席を取りに零一が現れた時、やっと景のコンピュータは回りだした。そうだ、昨日のことを聞かなくてはいけなかった――だが、状況が状況なだけに、今はまずい。  ともかく放課後がよいでしょう、それまで待ちましょう……景は自分にそう言い聞かせて、特講のプログラムをこなしていった。それでも、景はいろいろな意味で落ち着かなかったし、博希と五月は首をかしげるばかりであったことはいうまでもない。  零一が授業を終えるなり帰った、というのを、景が他の教師から聞いたのはそれから約三時間ののちとなる。 「なぜ、そんなに早くお帰りに――」 「さあ。ずいぶん急いでいたみたいだったし、なにか用事でもあったんじゃないのかな」  なにか用事、と聞いて、脳裏に思い浮かぶのはもはやあのパソコンのみである。だが目の前の『零一でない』教師になにを聞いたところで答えが得られるわけではない。景は丁寧に頭を下げて、職員室を出ることにした。  振り返るとすぐそこに、博希と、景のカバンを抱いた五月が立っていた。 「博希サン、五月サン……」 「景。お前、まぁたアドんトコ行ったのか?」 「――ええ。ですがすでにお帰りになった後でしてね――」 「ふうん。――帰ろ? お腹、へったよ」 「すみません」  三人は学校をあとにした。それでも景の釈然としない表情は変わらなかった。無論それは景が悩んでいる事項について博希と五月が何も知らないだけであって。 「どうしたんだよ、景。なんだか今日はおかしいぞ」 「いえ、――なんでも、ないんです」 「お熱があるんじゃないの」 「大丈夫ですよ、五月サン」  景は少し笑ってみせた。笑うだけの余裕はできていたが、それでも、わずかな不安は払拭できなかった。 「――あれでよかったんですか?」  給湯室から出てきた影に、先程、景に対応した教師が聞いた。影の主は、零一。彼は少しだけ笑って、言った。 「いいんですよ。今日はね、少し、忙しいんです」 「でも浦場くんも急ぎの用事のようでしたが――」 「大丈夫。どうせ私は担任ですから、もし、急ぎの用事なら、電話でもしましょう」 「そうですか? それなら、いいんですけど」  教師はとりあえずの納得ののち、自分の仕事に戻っていった。零一は冷静な顔で自分の席に戻ると、きし……と椅子にもたれ、ちらりと、パソコンに目をやった。 「………………」  ここ最近、この三人は寄ると触ると話題が「いつコスポルーダへ行く?」となる。無理もない、形式上はオレンジファイまでを平定してきたのだから、あと少しでホワイトキャッスルのレドルアビデのもとまでたどり着くことができるのだ。そういうわけで、【伝説の勇士】様方三名、とりわけ博希は、多少なりとも、焦っていた。 「それで、いつにしよう?」 「あまり日をあけては向こうで時間が経ちすぎます。そうですね、……まめに時間を見ながら、明日にでも。一、二週間は過ごせるでしょう?」 「OK、明日な」 「うん、解った」  かくして三人は別れた。夏の昼下がりは暑い。景は熱い焙じ茶でも飲むつもりで、家への足を速めた。 「ただいま帰りました」  景は玄関を開けて、すぐにそう言った。そう言えば必ずスリッパの音がする。その音の主がとく江であることを、景は知っていた。  朝のあの調子から察するに、円華は出てくるまいし祖母が出てくることも考えられない。そして恐らく旭は外出中であろう。 「ただいま帰りました」  もう一度、言う。とく江は景のスリッパを出しながら、言った。 「お帰りなさいませ。お茶が入っております」 「ああ……ありがとうございます」  景はスリッパに履き替えると、それだけ言って、パタパタと部屋へ向かった。  説明のしがたい重苦しさが、今、景の胸中を支配していた。

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