Chapter:80 「何を――したのです」

「てめェの得意技は笑うことだけかッ。なんとか言いやがれっ!」  激情の渦をたたえて、博希は憤った。誰が許可せずとも、仕切りの順番が違っていようとも、ここがどこであろうとも、彼がそのとき即鎧装着するつもりであったのには間違いがない。状況証拠はそろっているのだ。自分が誰を倒せばいいのか、全てが正解を語っている。博希はその相手を見据えたまま、まさに【その言葉】を叫ぼうとしていた。 「レジェ――」  が、言いかけた博希の全身に、言い知れない嫌悪感が走った。 「!?」  目の前の零一――で、あろう者――が、博希が鎧装着をしようとしたその一瞬、とても嬉しそうに――――これが本物の零一であったとしても、こんな顔は見たことがないと誰もが言うくらい、鮮やかに――――わらった。  本当なら、いつもなら、何が邪魔しても、博希が鎧装着の声をやめることは、ない。だがこの笑顔に、博希の身体中の血液が、凍った。自分がここへたどり着く前に景の味わった【精神的恐怖】が、推して知れた気がした。博希の喉の奥で、放ちかけた声が、飲み込まれる。  今までどんな状況にもほとんど臆したことのない自分が、脅えている。それも、自分の担任という、身近な存在に。 「くそ――――――」  きりっと唇を噛んだ博希は、もう一度、鎧装着を試みるつもりだった。負けてたまるか、と、弱々しく、しかし力強くつぶやいて。……が、瞬間、彼の背中に、すとんと何かが落ちた。  それは、落ちた、と形容するだけの質量も形ももっていない、言うなれば一種【予感】とか【感覚】のようなものであったのだけれど、ともかく、博希は殺気ともなんともつかない、奇妙な勢いのある気配を背後に捉えた。つぶやくような声が聞こえたのは、その直後だった。 「五月サンを放しなさい」 「――――え、」  博希が何か言う前に、その身体はごくごく自然に動かされた。誰かに押しのけられたのだ、と彼が認識してしまうまでに、たっぷり次の瞬間までかかった。その【押しのけた本人】を認識するのにも、時間は、かかった。  その瞬間の、彼――――景に、そのときのことを聞くと、「実は、」と言う。覚えていないのですよと。  はっきりそうしようと決めたわけでもないのに、自分の拳はただひとりを目指して、まっすぐに伸ばされたのです、と。  がづッ! 「ひか、――――」  博希は、自分が息をのむ瞬間をあきれるほどはっきりと感じ取った。そうして、一度は血の気がひいた身体に、すうと血液がよみがえる感覚。  その場で意識のあった人間の全員が我に返ったとき、すでに事態は一変していた。  倒れこんだ零一。  荒い息で肩を上下させる景。  瞳孔の開ききりそうなほど憔悴した顔の博希の腕の中には、五月。  特に博希など、どうして自分がこんな行動に出たかすら、解っていない。ただ目の前で、景が零一を殴って昏倒させて、それで――――慌てていた。ほんの一瞬だけ騒然としたその場の空気を縫うようにして、博希は五月をひったくるように自分のところに引き寄せていた。 「……無事だぜ。多分、寝てるだけ、だ」  まだドキドキと激しさの止まらない鼓動を左胸に抱えたまま、博希はそう言ってみる。落ち着いて言ったつもりが、声が上ずる。それがリアルに解ってしまうくらい、今、自分は落ち着いていない。落ち着いているフリをしているだけだ。とにかく五月は無事なのだと景に伝えなくては、これ以上の何かが起こったとき、目の前の彼を止める術を自分は知らない。 「無事……」  反芻する景のつぶやきには自主的な響きがなかった。肩を上下させたまま、まだ零一を睨み据えたまま、そこにたたずんでいた。  勢いが許すならもう一度でも二度でも、殴るつもりだ、コイツは。――――博希は下唇を噛んだ。湧き上がる恐怖と、得体の知れない焦燥感を抑え、彼は、五月を守るように立ち上がった。景にだけ殴らせてたまるかよ、そんな思いも、手伝って。  景はというと、博希のそんな思いを知ってか知らずか、ぎり、と歯を食いしばり、見えぬオーラが見えんばかりに怒りを燃やしていた。 「気持ち悪い顔で笑うのは……やめなさい」  景は吐き捨てるようにそう言った。目の前の――かつて零一であった者は、もはや言葉さえしぼり出さず、しゅうしゅうと笑い声ともなんともつかない音をのどの奥から発している。 「五月サンに何をしたのです」  焦燥と騒然と、とにかく何か混乱をない交ぜにしたようなその場に、ぴん……と凍った糸が一本、はるのが解る。糸が、硬く冷ややかな空気を生む。 「何を――したのです」  景はまた言った。怒っている。ただし、博希の思うところの【感情的】というのではなかった。まるで風のない湖のように、その怒りは静かだった。  だが零一は、ふたりの怒りをまったく意に介していない様子だった。博希でさえ、景の怒りには本能的に身体が震えたというのに。  考えている暇はあるか? ない。  博希は景の代わりに、自分が零一を殴り倒そうと思った。これで彼の目が覚めるとは思わないが、こ奴が五月にしでかしたことを考えれば――本当はいったい何をしたのか、そのときははっきりと解らなかったけれど――至極、天秤はつりあうと思った。  だが――――彼の望みは、とりあえずこの場では叶わない。  ヴン!  拳を準備しかけた博希の目の前で、零一の手が陽炎のように揺れた。 「えっ!?」  それは言葉ではうまく説明ができない、揺れ。あえて言うなら、今までここにいた零一は本物ではなくって、何か投影された映像でしたとでもいうような――乱れた映像がブロックのように個を主張する――事実、ほんの少しだけ、博希は迷った。今殴ると、零一の全てがかき消えてしまうのではないかと。それこそ陽炎か、幻のように。  その一瞬の迷いを待っていたかのようだった。零一の姿が――今度は、腕だけでなく、全身、全体的に――ガリガリと乱れる。 「あ……ッ」  まずいと思った。殴るより先に、この手をつかまなくてはいけないと思った。多分、それもかなわない、という考えは、心のどこかにあったけれど。 「待て、アドっ!!」  この場合における想像は、あまり、当たっていてほしくはなかった。つかんだ手は、考えていた以上に、なんともあっさりと指の間をすり抜けた。 「……ッ!!」  説明のしようのない気持ちの悪さに、博希は指先から肩先までをぶるぶるぶるうっと震わせて、無意識にすっと引っ込める。その瞬間、乱れた零一の姿が――――ジュンッ、とゆがんで――――  消えた。 「うっ」  景はその光景に息をのんだ。飲み込む唾さえ冷え切っていた。  それは博希も同じことだった。つかんだ握り拳をどこへ持っていけばいいのか解らないまま、真っ青な顔で、今まで零一のいた所を見つめていた。その場の空気が、今まで以上に冷え切ってゆく。自分たちの身体に流れる汗も、リアルな冷たさを感じずにはいられない。  景の右手は無意識のうちに自分自身の左腕をつかんでいた。――――冷たい。たとえばそれは死体のような。もちろん死体をまともに触ったことはないけれど、触ればきっと、こんな感じなのだろう。  言葉は継げない。何かしゃべろうとすれば、ぱくぱくと口だけが開く。外の喧騒が耳の遠くに聞こえて……  博希が、ようやくほそっと言葉を漏らしたのは、それから何分経ってからだったろうか。 「なあ……」  ゆったりと五月を眠らせたまま、どこにも視点を合わせず、博希がつぶやく。景は一瞬、それが自分に向けられた言葉であることに気がつかない。 「……はい……」  ようやく気がついて、景は時間をかけて返事をした。ただし、彼も、どこにも視点をあわせていなかった。 「五月は……生きてるか……」 「――さっき、博希サン自身がおっしゃったではないですか……寝ているだけだと――」  ふたりとも、それぞれぼんやりとした話し方しかしない。放心している、そういう解釈でいいだろう。 「そう……だろうけどよ……【あんなん】、なってたわけだし……」  【あんなん】、と博希が言ったことで、景は瞬時にさっきの事態を思い出した。そうしてひとしきりだらだらだらだらとイヤな汗をかき真っ赤になって、思考を元に戻そうと努力してみる。 「――先生――は、おっしゃっていました、『お前もその力をよこせ』と。ほとんど消え入りそうな感じの声でしたが、その言葉だけは。『よこせ』という言葉だけは、気持ちの悪いほどはっきりと聞こえました」 「……『も』……? じゃあ何か、五月は力をもってかれたのか? 何の力を? もってかれそうなほどの何の力を!?」  博希の瞳に精気が宿りだした。一気に燃え上がったその気迫に、しかし、景は放心したままだった。 「まさか、勇士の力持っていきやがったんじゃねェだろうな!」 「――解りません。その力が、本当に勇士の力だとしたら、鎧装着とかはどうなるのか……それも……解りませんし……」  いつになく景の言葉は消極的だった。さっきの怒りはどこへ飛んでいってしまったのか、というくらい、彼は今落ち着き払っていた。 「も、絶対許さね。次会ったら俺も一発は殴るぞ?」 「お好きなように」  止めません。景は言って、さあてどうしましょうか、と背伸びをした。五月が回復するまで待つか、それともここから離れるか――――  だが、このあとすぐに、ふたり――くわえて、気を失ったままの五月――には、そんな選択肢のひとつも与えられなくなる。というのは、背伸びの直後、遠くから喧騒と共にこんな会話が聞こえてきたからだった。 「家庭科室のドアが壊されてるぞっ!」 「カギがめちゃめちゃよ、泥棒?」 「いや、取られたものは何もないようだが……」 「じゃイタズラ?」 「生徒の誰かか? 捜せ! シメる」  ……しばし、その場を沈黙が支配した。 「捜しに行ったんですか?」 「行った」 「では?」 「……スマン」  博希は心底申し訳なさそうに頭をかく。 「……ああああなたはこんな時にまたそういうことををををを……!!」 「仕方ないだろっ、五月がどこにいるのか解らなかったし家庭科室はカギかかってたしよー!」  ともかくこの状況は非常にマズイ。景はうまくまわってくれない頭で、必死に考えた。あの喧騒がここまでこないという保障はまったくないし――むしろ、発見される可能性のほうが、大きい――そうなれば、ふたり、それから五月にとって、都合は大変によろしくない。 「逆から逃げますよ、今、僕らがここにいるわけにはいきません」 「五月はどうする」 「あなた以外に担ぐ人がいますか?」  そのしゃべり方は、すっかり、素の景に戻っていた。博希の顔色が安堵に変わって、それから、すぐ、ぎっと真剣なものになった。 「だな。んじゃ、担ぐぜ!」  ぐったりと力の抜けたままの五月を背中におき、きょろきょろと見回して、博希は真剣な目で景に聞いた。 「…………逆って、どっちだ?」 「なんだろうこの不安な気持ちは」  いったい何に不安を覚えているのか、はっきりとは解らないまでも、スカフィードは無意識のうちに胸を押さえた。  おりしもグリーンライでは、夜の帷が下りようとしていた。その日一日を景の通信機修理に費やし、彼はくりくりとコリを覚えた肩を揉みながらベッドに向かおうとしていた。  ちょうど、その瞬間だった。 「…………ッ!」  コリも飛ぶほどの、あまりにも激しい悪寒に、彼の四肢は初めてといってもいいほどの震えをおぼえた。説明のつかない恐怖心と、防衛本能から生まれ出たのであろう焦燥感だけが、今のスカフィードを包んでいた。  この感じは明らかに魔力によるものだ。それも、悪意の固まりのような!  以前五月の魔力を感じ取ったときとは違う。あの時も確かに、似た感じはした。ひりつくような、激しい魔力。だが今回は、なおそれににじみ出て隠しきれていない何か――言ってしまえば、これは、まさに、そのまま、【悪意】だ――が、余りあるほど感じられる。 「これは……」  まさか、と思う。自分が知りうる限り、この魔力の持ち主が博希たちでないのは確かだ。ならば? ……  外に出てみようか、考えて、首を振る。自分の考えが当たっているならば、今、外に出るのは自殺行為だ。だが――  彼は否が応でも、外に出なければならなくなった。魔力のうねりと勢いにあてられたせいもあったが、よく知る叫び声が聞こえたせい、というのが、原因としては最たるものだったろう。  そしてその声の主は―――― 「フォルシーっ!」  タンパク質の焼けるにおいと、じりゃ、という、羽毛の裂かれるような音が、スカフィードの五感を切り裂いた。 「ちょっと博希サン……後ろ、というか、ええと……見えますか、周り?」  逆はこっちです、と教えられて、五月を抱えたまま走り出した博希は、景のそんな言葉に憮然たる表情をもって答えた。 「見えるわけねえだろが……っ! くそ、最近太ったか、コイツ?」 「僕はもっと筋肉をつけるべきと思いますがね、五月サンは」 「お前ね脂肪と筋肉は違うんだよ……周りがどうしたって?」 「ネズミ算状態で増えてます、追っ手が」 「んなにィィィ!?」  もちろんこれは比喩に過ぎないが、状況を的確に表すには十分だった。まだ多分、【家庭科室のドアぶち破り犯人】が博希だということはわれていないだろうが、特講放課後ということもありろくに生徒の残っていない現在、彼らが疑われるであろうことはほぼ間違いないだろう。もちろん怒られたってどうということはないが、問い詰められたときの言い訳はどうすればいい。  ここは逃げるしかないのだ。できればその前に玲花にも電話しておきたい。贅沢な話だが、回転数がややもとに戻ってきた景の頭の中には、色々なことがめぐっていた。  順序だてて考えよう。――まず、博希にしてもらわなければならないことは? 「――とりあえず、全力疾走で温室を目指してください。スカフィードの所へ行きます!」 「なんで」 「今の状況から逃げられるのはそこしかありませんし、なにより五月サンの身体を診てもらわなければいけません。この世界の医者が五月サンを診ても、ちゃんとした診断が下せるわけ、ないでしょうし」 「そうか……そうだな。温室はこっちだな?」 「右です。近道は」  それを聞いた博希は自らの足にいっそうの回転を加え、ともかく温室を目指して走りだした。この先の進む道が間違っているかもしれない、という考えは彼の頭にはない。むろんここは学校であるし、結果たどりつけないわけはないのだけれど。 「僕もあとから行きます!」  ポケットにはいつもテレホンカードが入っている。走り出した博希の背中に呼びかけ、彼とは別行動をとった景は、流れるようなスピードで近場の公衆電話にカードを滑り込ませた。 「浦場です。五月サンのお母様ですね? 五月サンはやはり学校におりました。ちょっと興奮しているようですので、少しばかりこちらで休ませてから、僕らがつれて帰ります。ご心配なさらず、五月サンは元気ですよ」  向こうに返事のスキを与えないこの話しぶり。実に景は立て板に水流すかのごとくつらつらとしゃべると、「え、ええ……」という玲花の返事を待って、静かに受話器を置いた。 「急ぎましょう――――」  そうして景もまた、温室を目指して、走るのだった。  胸騒ぎがした。  今まで味わったことのない、ざわつくものが、それぞれの胸のはしを支配していた。

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