忘却のアイオーン

読了目安時間:4分

元外務省官僚の事情

 工藤元近(くどうもとちか)は自宅のソファに座り、先日起こった高層マンションでの火事の調書に目を通していた。NGO団体の東京支社長とはいえ、一般人である元近が目にすることが出来ない資料だが、元近は知り合いの伝手を辿って入手していた。 (報酬として合コンのセッチングを要求してくるとは……あいつが警察をやっているのが不安になる)  元近は調書を入手してくれた学友を想い、呆れたようなため息をつく。調書の中には火事が放火であることと容疑者について記載されていた。元近は調書をテーブルに置いて先ほど淹れたコーヒーを口にする。都内マンションで一人暮らしをしている元近の部屋は殺風景で装飾品が置いておらず最低限必要な家具だけが置かれていた。唯一キッチンに置かれているコーヒーを入れるサイフォンだけが使い込まれており生活感をにじませていた。   (放火か……もしかしたら今までも同じような行動をした人がいたのかもしれない。耳にするニュースの中で火事のニュースを聞く機会は多い。毎日、報道されないだけでボヤなど程度はあれど火事が発生しているはずだ。そこから私達と同じような人達を見つけだすのはかなり難しいな。調査するきっかけくらいにはなるだろうが……)  元近が飲んでいたコーヒーをテーブルに置くとほぼ同時にスマホが着信を告げて震えた。『デミウルゴス』の探知を知らせる方ではなく、完全に個人用のスマホの着信だった。元近がディスプレイを見ると父親の名前が表示されていた。 「はい、元近です。父さん、どうかしましたか?」 「いや、なに……お前の声が聞きたくなってな」  スマホからは渋く低い男性の声が聞こえてきた。声からは怖さはなく温かさが感じられた。 「まだ子離れは出来ませんか? 寂しいなら春馬兄さんの子供、初孫を可愛がってやってください」 「充分可愛がっているさ。この前もおもちゃをせがまれてな。つい買ってしまって春馬に怒られたばかりだ。甘やかすなと」 「自分も春馬兄さんには怒られましたよ、同じ件でね」 「おまえもか。姪と甥は可愛いと」 「ええ、たまにしか会えない分……ついつい」 「……おまえの方はどうなんだ?」 「どうとは?」  父親が急に歯切れが悪くなった。 「結婚相手だ。付き合っている人くらいはいないのか?」 「……今はいませんよ」 「出会いがないというなら私の方で探しても」 「大丈夫です、父さん。前も言いましたが自分の事は自分でやります。そういう風に貴方に育てられましたから」 「そうは言うが……おまえもいい年だ。いつまでも一人では私も母さんも心配でな」 「私の心配ではなく、孫をもう一人二人見たいだけではないでしょうね」 「そんなことあるか。いや、孫は幾ら居てもいいが……」  元近はスマホを持ったまま立ち上がりベランダ側へと移動する。元近の住む高層階の部屋からは都内の夜景がまぶしく映っていた。 「元近、おまえは優秀だ。父親としての贔屓ではなく、現役の官僚としての評価だ。優秀ではあるが、お前は打たれ弱い。誰の支えが必要だと私は思っている。これは父親としてだ。今後の人生で苦難がお前に降りかかった場合、それを一緒に乗り越えてくれる人が必要だ」 「……父さん、それは別に恋人や妻でなくてもいいでしょう。一緒に仕事をする同僚、親友でもいいはずです。幸い私には親友、悪友が多いので頼りにしている最中ですよ」 「元近……」 「父さんが私を心配してくれるのはありがたく思っています。良い父親を持てて誇りです」 「おだてるな。これ以上何も言えなくなる」 「……父さん、沢渡さんは最近どうですか?」 「沢渡? どうした急に? 夫婦共に元気だが。妻が今日、沢渡の奥さんとランチをしたらしい。沢渡さんの家は子供に恵まれなかったからかお前達を自分の子供のように気にかけてくれているからな。沢渡さんもお前の結婚は何時だとか妻に聞いたらしいぞ」  父親から隣家に住む老夫婦の様子を聞き、元近は安堵したと同時に改めて確認した事実に胸を締め付けられた。 (子供に恵まれなかったか……) 「……そうですか。お元気なようで安心しました」 「お前も沢渡さんの家にはよく遊びに行っていただろう。今度、家に帰ってきた時には顔を見せに行ってやりなさい」 「はい、そうします。では、そろそろ切りますよ」 「ああ、久しぶりに話せて良かったよ」 「私もです。父さん」  通話を終えると元近は夜景から自分の部屋に視線を戻した。殺風景な部屋にかつて存在した装飾品の数々を元近は思い返す。 (花柄のカーテンに観葉植物、ピンク色の戸棚。本当にアレは部屋に合っていなかったな。部屋の家具を決める時に唯一あの子と喧嘩をした家具でしたね。結局私が押し切られて買いましたが……あの戸棚はあの子の物だから消えてしまったのですね)  元近はかつてピンクの戸棚があった場所に立つ。元からそこには何もなかったように床のフローリングには傷一つついていなかった。 (改めて見ると部屋の傷も消えている。あの子に関連する傷だから……消失というのは本当に何もかも消してしまうのですね)  綺麗な壁に手を付いた元近は一緒に暮らしていた婚約者、沢渡葵(さわたりあおい)を想って涙を一筋流した。

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  • マリア&ネロ

    美夕乃由美

    ♡200pt 2021年2月7日 8時50分

    子供に恵まれなかった、ですか。元近もまた恋人を失っていたのですねぇ……

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    美夕乃由美

    2021年2月7日 8時50分

    マリア&ネロ
  • 黒猫ステラ

    枇杷アテル

    2021年2月8日 0時13分

    登場人物はほぼ『デミウルゴス』の被害者ですから。 存在が消えても残った人達の関係がなくなるわけでもないので 元近君は恋人の家族と会う時にはいつも辛い感情を覚えてます。

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    枇杷アテル

    2021年2月8日 0時13分

    黒猫ステラ
  • 刑事

    ぬまちゃん

    ♡100pt 2021年2月3日 14時10分

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    全俺が泣いた

    ぬまちゃん

    2021年2月3日 14時10分

    刑事
  • 黒猫ステラ

    枇杷アテル

    2021年2月3日 21時42分

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    ありがてえありがてえ

    枇杷アテル

    2021年2月3日 21時42分

    黒猫ステラ

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