5=9/5.midnight

第十話

5=9/5.midnight  父親が死んでから僕の心はしばらく混乱に見舞われたけれど、不眠に陥りはしなかった。自室のベッドで毎晩ぐっすりと眠れた。生前に父親が買ってくれたベッドはセミダブルで、一人で寝るには広すぎるほど大きい。自分の寝相の悪さを見越した買い物をされたと気づいたのは父が死んで数年後、初めての恋人と寝た時だった。  父親の死によって、僕は人は死ぬという当たり前を初めて身近に感じた。あのころは——、死の残像とでも呼べるのだろうか、何度も饐えた匂いを嗅いでいた。そして何よりいつも眠たくて仕方なかった。日中は夢うつつの中でまぼろしと会話しているようだったし、夜は抗えない誘惑に吸い込まれるようにベッドに倒れ込んだ。入眠はいつも早い。目を閉じると想像がまぶたの裏の暗闇で形づくられ、夢の入り口となっていった。恋人が「全然起きてくれないから死んでいるみたい」と言っていた。きっとあのころも僕の眠りは深かったのだと思う。  夢の世界が頻繁に日常を侵食していくにつれ、僕はいつしか自室のベッドが巨大な棺桶のように感じられるようになった。死が緩慢な足取りだとしても、確実に近づいてきているという予感。いつかは目覚めなんて訪れずに連れ去られてしまうのだと、ささやかな期待が僕を夢想させた。  一方でそうした欲望が錯覚だというのも理解していた。深い眠りの淵に落ちたとき、こちら側と向こう側との境目には確かな線が惹かれていて、その上に僕は二つの足で立っている。肉体的に押し出されるか精神的に歩み寄るかして線を超えない限り死神は当方まで歩み寄れない。全て奪い去られるまでには時間がまだ残されていて、僕は僕を終えようとしたことは——少なくともこの記述を起こすまでは——なかった。  死という概念は当時の僕にとってただ単に生命活動を終えるのを指すのではなく、周囲に絶対的な影響を与えるものだと考えていた。亡くなった本人の意識がどうなるかだなんて知らないが、しかし残された人間たちは多かれ少なかれ感情を揺さぶられてしまうからだ。——不慮の事故に巻き込まれない限り、「眠り」という小さな死は最低限度の礼節を保ちつつ毎夜ベッドの中で迎えてくれる。  僕は毎日、自室のベッドで眠りそして目覚める。父親の遺体が発見された夜は、夜中の二時に目覚めてしまった。何より、ベッドの中にいる自分という存在に動揺した。もう一度眠ろうと試みるが、不安は心よりも体が敏感に反応するらしくうまく眠れやしない。  寝床から抜け出し、水を飲もうと台所まで歩く。冷蔵庫を開けると上段に母親が用意してくれた食事が手付かずのまま、ラップに包まれて置かれていた。  彼女が作ってくれた夕食だった。結局のところ母と弟と僕の遺族三人で迎える食卓を囲むことはできなかった。  その機会は永遠に失われた。彼ら二人との食事なんて考えられる余裕もなくなっていた。  なぜならその夜、僕は月にいたからだ。 ☆  ピグマリオン・ナンバー7188氏に初めて出会ったのは父親の遺体が発見された日の晩で、母がつくる夕食ができるまでのあいだ時間つぶしにランニングに出かけたときだった。一週間ほど怠けていたためにシューズボックスに入れっぱなしになっていたナイキのランニングシューズを履いて空腹のまま玄関を飛び出したのだった。  ずっと球技が苦手で体育の時間は地獄だったけれど、走ること自体や筋トレのような一人で完結するスポーツは好きだ。徐々に筋肉が育っていく様子や長時間やっても息切れしなくなるのについて密かに喜びを覚えるような、昔からそんな子どもだった。  Tシャツとジャージに着替えて準備運動を終えたのち、いつも通りイヤフォンを耳の穴に差し入れる。携帯プレーヤーを操作して、鈴木茂の音源を再生して走り出した。音楽は叔父の影響だ。ふだん部屋で聴く音楽は毛色の違うものだったけれど、夜の闇は歌詞の言葉を明確に浮かび上がらせる。語の意味が体全体に染み渡るような気がしたから、いつも母国語である邦楽を聴いていた。  国道を横断して階段を上がる。本来ならば硬いアスファルトではなく、土の道を踏みしめていく方が足の負担は少ないだろうけど、土手の上から眺める川沿いの道は魅力があった。川の向こうに公営団地がいくつもそびえ立っているから夜はその灯りと、総武線と交差する高速道路の照明がとても綺麗で、見るたび心が洗われた。だからランニングコースは土手の上に設定していたのだ。車止めがされているから夜でも交通事故への懸念がなく、ひらけており対向のランナーにもすぐ勘付くことが出来る、というのも理由のひとつだった。  さすがに父親の遺体発見場所である駅北側の線路に近い河川敷の階段に近づく勇気はなく、南へと走った。  空には星がちらばり、南東方面に真二つに欠けた上弦の月が出ている。走っているあいだ目線から上にはそれらが混在した藍色の空しかない。耳元ではクランチに歪んだギターが鳴っている。何も見るものもないから月を見ながら僕は走った。頭を真っ白にしたかった。何かを考える余裕がその時の僕には失われていた。  土手の欄干に座って愛を語らうカップルを横目に通り過ぎ、五分ほど走り続けたところで異変が起きた。空に浮かぶ真っ白い半月に小さな赤い点が出現した。点は月をスクリーンにしてぶるぶると震えだし、やがて無軌道に暗い空を駆けめぐる。飛行機にしては不可能な動きで信号灯にしては不自然だ。みるみるうちに赤い点は円となり、やがて楕円形の質量のある物体へと姿を変えていった——そして単純に僕の方へと近づいてきたから目をそらせなかった。物体は地上十五メートルほどの位置でいったん停止し、僕を見下ろしたかたちで動きをぴたりと止める。

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