死体の持つ情報量は膨大だ。その痕跡の一つ一つに、一個人の人生が凝縮されている。遺体が首つり自殺なのか、腹を刺されてから偽装工作がなされたのかは、目視だけでは特定できない。他殺の可能性が捜査線上で濃厚となったため、監察医による検死、また、場合によっては司法解剖の要請が現場の中で高まったのは自然な成り行きだった。 僕ら遺族に検死の陳情がなされたのは、遺体発見の当日月曜日の午後で、父親の死を知らされたのも同じタイミングだった。 風邪をひいて休んでいた僕と専業主婦の母親、学校から呼び戻された弟の三人で自宅リビングに集まり、捜査員からの説明を受ける。先に遺体確認を終えて呆然としていた母へ、事務的に検死をしたい、と伝えた捜査員の顔を僕は生涯忘れないだろう。酒の飲み過ぎか異常に顔色が悪く、太った五十がらみの男だった。 もちろん彼には悪意などかけらもなく、憎まれ役である職務を忠実に果たそうとしていただけと、頭では理解している。沈痛な面持ちは逆に僕ら家族を緊張させた。きっと彼にも家族があり、息子には優しい表情を見せたりするのかもしれない。でも、そのときに感じた嫌悪感から生じる記憶に僕は嘘がつけない。記憶はこちらが望むと望まないのに関係なく、襟首を掴んで確固たる存在を示そうとする。 「必要ならそうしてください」母が沈黙を破った。 普段のおっとりした言葉遣いではなく、また凛とした声質だったから、正座してうなだれているだけだった僕と弟は驚いて母親を見やった。先ほどまで気が抜けていたはずだった母は背筋をぴんと伸ばし、対面の捜査員を見つめている。 誰からもか弱く見える母が放った強い意志に、その捜査員も戸惑ったのだろう。「しかしながら」と言い淀み、テーブルに用意された湯呑みを取って茶を啜った。 検死により遺体を検分するというのは、つまり父親の身体をもう一度切り刻むことだとは、僕も理解していた。 母は躊躇する捜査員を察し、 「構いません、それで本当のことがわかるなら。 刑事さん、お願いします」 彼女は捜査員の手を取り、身を寄せた。声をすこし荒げて瞳を潤ませている母に男は目を泳がせる。伴侶が死んだならば、あるいは無理もないだろう。それでも母の様子は明らかに普段とは異なっていた。息遣いは弾み、吐息は朱色の感情を示している。捜査員はひとつ咳払いをし、母親の両肩を押さえて、落ち着くように言った。 捜査員は今後の流れを説明してくれた。遺体の状況から死因が外傷によるものとの見込みが強く、(より切り刻まれてしまう)司法解剖となる可能性は薄いこと、遺体の返却を通夜までに間に合わせること、検死にかかる費用が遺族負担だということ、など諸々の要件を母に伝えたのち、彼は場を辞去した。 「これからが大変だと思います、気を確かに持ってください」と僕たち遺族に告げて。 僕はといえば、父の死についてゆっくりと、静かに心を動かされていた。本当に起こってしまったことなのだ、と、納得せざるを得ないのが不可解だった。弟もそうだったのだろう、警察が帰るとすぐに自分の部屋に籠もってしまった。 台所のシンクで急に現れた客に用意した緑茶の湯呑みと急須を洗う。現実感がなかった。その当時の僕は、人が死ぬ、ということはフィクションの中の出来事だと、どこかで思い込んでいた。僕は親戚や兄弟、友人といった近しい人の死を経験してはおらず、はじめて僕が認識した死は実の父親によってもたらされたのだ。蛇口をひねり、手に流れる水の冷たさがその事実をいっそう意識させる。胸がざわついた。この気分も全て洗い流されればいいのに。そう思った。T 母は縁側に置かれた藤椅子に座り、外を眺めていた。縁側は畳敷きの居間に面してあり、そこには彼女が手入れしている庭がある。それを愛でるでもなく、慈しむようでもなく、中年太りの傾向が見えるお腹をさすりながら、ただぼんやりとしているように見えた。いつの間にか外は暗くなっており、星が目立ち始めている。その変化も意に介さず、母の顔は無表情を保ったままだ。 僕は母の好きな茶葉で紅茶を淹れ、トレイにのせて彼女のもとへ運んだ。 放心していた母は、僕と差し出されたティーカップを視界にみつけて顔をあげた。じっと僕をみつめ、やがてにっこりと笑う。 「ありがとう」紅茶を受け取った母は、ひとくち飲んで顔をしかめる。 「ちょっとぬるいね」。それから、僕がこの家で何度も聞いた小言を繰り返される。紅茶は沸騰してすぐに淹れるのが一番おいしいのよ、と。くちびるの動きを僕はただ見ていた。 「うるさく言ってごめんね。……なに? 変な顔して」。 僕はどんな表情をしていたのだろうか。母みたいに笑っていたのか、それとも悲しい顔をしていたのだろうか。 「なんでもないよ」と僕は言った。知らずに涙は僕の頬を伝っていた。 母は少しだけ驚いた様子だったけれど、やがて微笑み、立ち上がり僕を抱きしめる。暖かだった。奥歯を噛みしめ、それでも泣く声は出さなかった。感情を露わにするのは、僕にとり恥ずべきことだから。自分に許したのは、母の胸に抱かれたのは何年ぶりだろうと、そう思うことだけ。僕は母の肩を涙で濡らし続けた。彼女は抱きしめたままで僕の背中をさすり、大丈夫よと頭を撫でてくれる。 「私はあなたから見てずいぶん冷たくみえるかもしれない。だけどね、こうするのが一番だと思うの」 それから、お腹が空いたわね、ご飯にしましょうと僕を誘った。 台所に向かう母の背中を見て、僕の中で食欲という概念がすっかり消え失せていると気がついた。
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