花泥棒と秘密の猿たち

読了目安時間:4分

エピソード:25 / 37

第二十五話

「守さんの件は残念だったな」  彼は独り言をいうような男ではない。誰かそばにいるのだろうかと考えた刹那、知っている気配を感じた。応答は聞き慣れた声だった。 「……でもあの人とは遅かれ早かれ、うまくいかなくなっていたのだと思うの」  母親の声だ。カーテンからかけた手を下ろし、耳をすませる。 「あなたがアメリカに住むって決めた時の方が、わたしにしたらとても大きな衝撃を受けていたかもしれない。わたしが手を引いていかないとあなたがひとりじゃ何もできない、子供みたいに思っていたのね。馬鹿みたい」相部屋の患者への配慮からか、母は小声だった。  半歩うしろに下がってカーテンの隙間から中を覗きこむ。横たわる叔父と、かたわらにはパイプ椅子に座る母がいた。彼女はシーツから投げ出された彼の手を、両手で握りしめていた。  僕にはその場に立ち入る資格がないように感じられた——自宅では感じたことのない、親密な空気がふたりのあいだに流れていた。 「守さんと結婚する、って最初に決めたのは姉さんだろ?」と叔父は言った。 「……そうね。でも、だからアメリカに行ったって訳でもないでしょう?」と母親は困ったように口元を綻ばせている。見覚えがあった。僕が幼い頃に——何か過ちを犯してしまったときに、たしなめていた顔によく似ていた。 「あなたは昔から新しいおもちゃを見つけたとき、いつもじっとしていられなかった」  叔父は少しだけ押し黙り、やがて「そうだったかな」とつぶやいた。傍らの花瓶にはみずみずしい真っ白な花が生けられている。四季薔薇。母親が育てている花だ。生気のない病院の風景とは対照的にみずみずしい色彩を放っている。 「ねえ、もう十年以上前になるかしら? あなたが日本で、バンドのツアーに出ていたとき……。色んな場所に行ったね。北は北海道から、南は福岡まで。とても楽しかった、わたしたちの思い出」  叔父は指折り数えて、 「二十年前だよ。翼が生まれる前だから」と正した。 「そんなにも昔になってしまったのね」母がため息をつく。 「懐かしむようになったら女は終わりね。今朝だって鏡を見ていたら、また小じわが増えているんですもの。そう、こんなふうに知らない間にいつのまにかすっかりしわくちゃのおばあちゃんになるのかもしれない。そうしてみんなから忘れ去られるの。考え出すと怖くてたまらなくなるわ」  院内は静かで、閉じられた窓の外には夜の暗闇がたちこめているはずだった。みんな死んでいた。彼らの発する言葉のみが生きた意味を持ち、僕の耳にこだましていた。 「姉さんは何ひとつ変わっちゃいないよ。子供の頃と一緒で、いまだって俺の手を握ってくれている。俺は目が見えない。姉さんの今の顔を見るってことはできないけれど、手のひらから伝わる温度はわかる。あの頃と何も変わらないさ」  ふたりの間に何度目かの沈黙が訪れる。彼らにとり居心地の悪い時間ではないはずだった。ベッドサイドに置かれた暖色灯のあかりがふたりを優しく照らし出す。天使でも降りてきそうな情景だ。静寂を破ったのは母だった。 「……何があろうと、わたしは生きていくわ。翼や裕喜だけじゃなく、家族が増えるのですもの。もちろん、あなたも一緒よ。ねえ、こんな話を知ってる? 神様は乗り越えられる者にしか試練を与えないって。……二十年前みたいに、またいろんなところへ行きましょう」  母は自分のお腹をさすりながらそう言った。きっと彼女は——自分の境遇を不憫に感じ慰めただけでなく、叔父を勇気づけようとしていたのだ。 「ああ」と叔父は言った。 「わかっている」と。 「でもな、姉さん……。俺はもし神様に会ったら、まずはじめに、くそったれがって言うと思うよ」  母の表情は凍りついた。やがて俯いてしまう。叔父は少し後悔したようだ。彼がみずからの言葉で彼女を傷つけた。彼の手のひらは母に、依然として強く握られたままだ。  叔父はこほんとひとつ咳払いし——小さな、だけどよく通る声でなにか歌うように囁いた。  内容は僕のもとまでは届かない。一瞬、間を空けて母はくすりと吹き出した。きっと言葉の内容と——叔父のあまりにも真剣な顔が不釣り合いだったからだろう。「あなたって本当に馬鹿ね」と笑う母は、いつか見た少女の容貌を取り戻している。叔父は目を閉じたまま、にっこりと笑った。手のひらで感じるぬくもりが、彼女の緊張をほぐしていた。  ——そして彼らは長いくちづけをかわした。  ☆  直視できなくなった僕は踵を返した。病室を出て、早足でバス停まで辿り着いた。時刻表を確認すると運悪く、次のバスが来るまで三〇分は待たなければならない。待っているあいだに用事が済んだ母親が帰ってこないとも限らない。心配した僕は諦めて歩き、駅方面まで向かった。いま母親の顔を直視したら、心乱されないという自信がなかった。  帰りのスーパーマーケットで何を買おうかなんて、落ち着いて考えられやしなかった。胸の鼓動がうるさく、風景が物語るものが何一つ頭の中に入らない。母と叔父の逢瀬を初めて垣間見て、また意図しなかったとはいえ覗き見という卑怯な手段だったのが後ろめたさを加速させる。  僕は知らなかった。  叔父と母親がふたり居ることを目の当たりにして、彼らの関係に嘘がないということに。  僕は知らなかった。  そのときすでに母親の胎内に新しい生命が宿っていただなんて、愚かな僕は何も想像すらできていなかった。

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