花泥棒と秘密の猿たち

読了目安時間:5分

エピソード:31 / 37

15=8/29.afternoon

第三十一話

 ゆるやかな時間の流れる月曜日の午後だった。夏休みの最中でその日なにも予定がなかったから、午後から休みだった叔父の部屋で音楽を聴かせてもらっていた。母と弟は朝から出かけているらしく、父は仙台へ出張していたため、自宅には僕と叔父の二人だけしかいない。彼の部屋にはたくさんのレコードがあったから、ひまなときはいつも僕は叔父の部屋に入り浸っていたのだ。  盲目の人間でも容易に生活できるように、洋服ダンス、レコード棚、レコードプレイヤーと彼が趣味で飼っているミドリガメが棲む水槽は四畳半の部屋の壁一面で配置されている。布団は畳に敷きっぱなしで楽器などの機材は押し入れに収納しているらしく見当たらない。  ジャケットにテプラのようなもので点字がふられたレコードを僕は一枚づつ手に取り、ターンテーブルに設置して針を落とす。音が聴こえてくると、クッションを置いた床に寝転がって文庫本を読んだ。叔父は特に何も言わない。布団に座って手にしたドラムスティックでリズムをとったり首筋をストレッチがてらに伸ばしたりしている。たまに彼が気に入っているフレーズが流れると「ここが良いんだ」なんて解説してくれる。なんら変哲もない日になるはずだった。平常通りの日常の時間の流れをしていたし、滞りなく流れ去るはずだった。  そのときかけていたレコードが終わるころ、叔父に足先で蹴られた。 「痛っ」と反射的に口にすると、叔父は「すまない」とひとことだけ謝る。  叔父は冬眠を終えた熊のようにのそりとレコード棚を探りはじめた。立ち上がった拍子に足がぶつかったのだ。そう思って、すぐに文庫本のページに視線を戻した。  叔父は次のレコードにビートルズの、彼らのキャリアの中でも異色作であるアルバム——通称「白盤」を選んだ。叔父は何度か針を置き直し、やがて軽快なドラムフィルが聴こえてきた。  C面だ。  と認識した瞬間、叔父は僕に覆い被さってきたのだった。  あまりにも突然かつ暴力的な抱擁。驚きと憤りと戸惑いの感情がいちどきに押し寄せてくる。仰向けになった僕は何が起こったのかなんてわからない。叔父は僕の腰にまたがり、押さえつけた手で顔に触ってきた。 「通った鼻筋、凛とした眉、温度さえ感じさせない切長の瞳。本当にお前は姉さんに似てきた」  髪をかきあげられた僕に叔父の顔が近づく。必死に横を向きくちびるを避ける。瞬間、ぬらりとした感触が耳に触れる。吐息がかかり舌で舐められているのだと凍りつく。 「それどころじゃない。姉さんより確実にお前はもっと美しくなるだろう」  どす黒い醜い感情が僕の喉もとを上昇し視界が次第に赤く染まっていく。叫ぼうとした発想が平手打ちによってかき消される。口もとを手で押さえられて呼吸ができない。 「わめくんじゃない!」  激昂した叔父に怯んだ。興奮した彼の息遣いが耳元でうるさい。恐怖は少しばかり自分を冷静にした。  叔父はおそらく——ずっとタイミングを図っていたのだ。僕と叔父が二人きりとなり、他の家族が出払っているこの機会を、ずっと。レコードを入れ替えるときに蹴ったのも、僕の位置を確認するためにちがいない。  舌先が頬を撫でられて僕はからだをびくりと振るわせ、戦慄する。黒目だけを僕は動かし、叔父の様子を確認する。彼の顔に普段浮かべられている優しさの色が消え失せていた。何故——僕の頭の中が疑問符で占め尽くされる。 「どうして、なんて言えないよな。お前は姉さんの子供なんだから」  叔父は僕を組み敷いたまま、かちゃかちゃという金属音を立ててベルトを外そうとしている。でも叔父が何を言っているのか意味がわからない。母がなんだというのだ? 「何を言って……」 「何を言っている、だと? 本気で言っているのか? いいかげんに現実をみつめろ」  髪の毛を掴まれる。ぶちぶちと健康な毛がちぎれていく音と痛みできっと僕の顔は歪んでる。絶叫は許されない。心音が早く、鼓動の一音一音が、頭の隅まで響いている。 「『勉強をみるため』なんて理由で、姉さんが裕喜を縛り付けているのだとでも、本当に思っていたのか?」  わからない。理解の範疇を超えている。引きつった声が連なって奇妙な音を立てていて、陸に上がった魚のように呼吸ができなくなっている。自分の身体の上に乗っているこの男が、何を言っているのかひとつも理解できない。 「俺がこの家に住むと決まったあと、電話もなしに来たときがあるんだ。びっくりする姉さんの顔を見たかったんだよ」  初耳だ。叔父を迎え入れると知った時、家族全員で空港に向かった。誰もが祝福の心持ちだった、はずだ。それとも、と考えて僕は思い当たる。叔父が言っているのは僕が考えているよりずっと過去のことなのか。 「ところが面食らったのは俺の方だった。鍵が空いていたから、遠慮がちに家の中に踏み込んだ。そこで聞こえてきたのは何だったと思う?」  叔父は興奮してまぶたを開け放ってる。白目を剥くその瞳に黒眼の焦点はどんなところも捉えず、遊星のように眼球上をさまよう。 「姉さんの声さ。まるで雌猫のような鳴き声だったから、俺は一歩も動けずじまいだった。続いて聞こえたのは……、男の喘ぎ声だ。思わず息を呑んじまった。なぜなら、それが誰だか、俺にはわかっちまったからだ」  聞きたくない。耳を塞ごうとするが、両腕は叔父によって押さえつけられてしまっている。僕は変貌してしまった叔父を真正面から見上げて、歯を食いしばり演説をそのまま聞いているほか選択肢はなかった。 「でも俺はその音、声、匂いに——たまらない郷愁を感じた。美しいとさえ思った。三十年前もまた、俺と姉さんはそいつと同じことをしていたからだ」  不意に叔父は、僕の左手首をとった。もう片方の自分の手でトランクスを下ろし、ペニスを触らせようとした。必死に抵抗を試みるが、圧倒的な力の差で抗えない。反撃する発想なんて持てるはずがなかった。恐怖で全身が硬直していた。  だが、こわばった手のひらで触れた叔父のペニスは、予想に反してぐんにゃりと萎えていた。 「あのころもこんな感じだった……。わかるか? 本当はこんなはずじゃないんだ」  叔父は憤怒の情がこもった口調を伴いながら、もう片方の手で冷静に僕の頬をぺちぺち叩く。そうして僕は理解した。母が裕喜によって、三十年前から連綿と引き継いだ欲望を満たそうとしたことに。

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