花泥棒と秘密の猿たち

読了目安時間:4分

エピソード:8 / 37

4=9/10 afternoon

第八話

 4=9/10 afternoon  病院の空気は清浄で、リノリウムの床は足裏で冷気を放っている。機材を積んだキャリーケースを手で引いていく。小さなタイヤが廻る音が院内に響き渡った。  目的地の入院病棟に着くためには長い廊下をしばらく歩き続けなければならない。顔見知りの看護師と二人すれ違い会釈を交わした。この建物には週三回の頻度で来ているから、見覚えのある顔が増えていく。  階段近くにあるその病室は六人の患者を収容する大部屋だ。ちょうど時刻は正午で、入り口に患者用の昼食が用意された食事運搬用カートが停まっている。縦に高いそのカートは虫が入らないように扉付きだ。また、保冷と保温できる箇所が分かれており、温かい食べ物はぬくもりをもって提供できるような工夫がなされている。だけどそのカートの中に、僕の見舞い相手のための食事があるはずはなかった。  看護師たちは各自の配膳にいそしんでいる。受け取る相部屋の老患者たちはそれしか楽しみがないというふうに嬉々として自分のベッドへと運ぶ。彼らの邪魔をしないよう、僕は注意して窓際のベッドに横たわる人物のそばへ向かった。  彼は眠っている。長い髪は色が抜け落ちて銀髪のようだが、艶のある光沢を放っている。低い寝息をたてていたけれど、鼻に装着された胃腸まで届く細いチューブが呼吸を妨げているらしく、眉間には苦しげな深い皺が寄せられている。ベッドシーツから露出した右腕には点滴が打たれていて、彼が必要とする栄養分を運んでいる。  僕は家から引いてきたカートを、行き交う看護師たちの邪魔にならないように病室の脇に置く。そして背負ったリュックサックに用意してきた下着類などの着替えとタオルを棚に運んだ。活けられた花がしおれている。花瓶ごと給湯室に運んで花をゴミ箱に捨てた。花瓶を洗い終わり病室に戻ってからも彼はまだ寝ていた。  袋に胃液が溜まってしまったらナースコールを押してくださいね。薄いピンクの制服を着た看護師がそう言って病室を離れた。  僕は彼の鼻から伸びてベッド下に垂れているチューブを手に取る。鼻から五十センチほど離れた部分だ。それから、スポイトの要領で彼の体内の胃液を汲み上げようとした。看病の一環だ。いま彼の腸は塞がれているから、生きている限り溜まっていく胃液を外に出してやるためにはときどきこうしてやるほかない。でなければ溢れてしまう。半透明のチューブから泡立つ黄金色の液体が浮かび、ベッド下に設置された排出袋に落ちていく。 「ああ」と低いうめき声が漏れる。  嗄れた声だった。どうやら目覚めたようだ。彼は目を閉じたまま口を開いた。 「来ていたのか」 「うん」短く応えた。  何も言わずに僕は胃液を汲み上げ続けた。柔らかいプラスチックが軋む音を何度も繰り返し耳にした。  ふと顔をあげると、窓の外の天気は快晴で雲ひとつない残暑の空がある。九月ももうすぐ中旬に入るというのに外の蒸し暑さはたまらない。 「内臓には意識があるそうだ」と彼は言った。 ☆ ☆  病院に向かうために僕が乗り込んだ都営バスは安全運転だった。毎日の仕事に疲れているだろう居眠りをしているスーツ姿の男性を、赤ん坊を抱えた若い母親を、険しい顔つきの老人を乗せて。乗車時に僕は一律料金の二百十円を硬貨四枚で支払い、運転手の真後ろの座席に座った。  外を眺める。どれもこれも見覚えのある景色だ。停車するごとにバス会社の広告主だろう不動産会社や歯医者やらの宣伝文句が耳に入った。雑音が多い。  窓から見える光景がもっと溶けて消え去ってしまえばいい。そのためには速度が必要で、現状の運行ではダイヤの乱れがないために運転手には特段必要ない措置でしかない。得られない願望に、けれど執着はしなかった。  目的地の病院に到着して受付で見舞いだと伝える。入院病棟に移動する前、待合室の椅子に深く座って深く息を吸った。彼に会うのは気が重いことだったから、呼吸を整えなければならなかった。  彼が入院するこの総合病院は近隣からの評判がよく、中には適切な医療を受けるため、都外からも求めて患者が訪れる場所だ。待合室も広々としていて、吹き抜けがある開放的な建築設計がなされている。  僕はこの建物が好きだ。ここにいる人間は僕のような見舞客も含め例外なく、みな痛みや苦しみを感じて足を運んでいる。起こりうる最悪の可能性に怯えて弱り切っている。善人も悪人も関係なく、平等に恐怖を胸に抱えている。苦痛の中では誰もが手を差し伸べてもらいと願っている。誰もが助けを望む。どんな人でもきっと同様に。  あの男だって、例外はなく。  結局のところ土曜日に実施された父親の通夜に僕らきょうだいは参加できなかった。もちろん母や親戚には悪いことをしてしまったと思っている。だけど弟には姿を消すだけの理由があったし、僕には前々から決まっていた先約があった。

コメント

コメント投稿

スタンプ投稿


このエピソードには、
まだコメントがありません。

同じジャンルの新着・更新作品

もっと見る

読者のおすすめ作品

もっと見る

  • 剣と恋と乙女の螺旋模様 ~持たざる者の成り上がり~

    零加護、スキル無なゼン君の波乱万丈な冒険

    407,099

    30,622


    2021年9月27日更新

    笑いあり涙あり感動ありロマンあり笑いありの、一大アクションファンタジー巨編ここで、第一部閉幕、完結となりました!お読み下さった皆様方、ありがとうございました! ★ノベプラでは、何度かジャンル別日刊上位に! 1章と2章の差に戸惑う方も多いみたいですが、生暖かい眼差しで見守ってやってください。最後の章はもっと凄いのでww 第1章 ポーター編 ネタバレ的あらすじ 多くの謎を抱えたスラムの少年ゼンは、そんな事はお構い無しに名付け親であるゴウセル商会長に気に入らると、冒険者になる事を勧められ、新米冒険者パーティー『西風旅団』にポーターとして参加する。そこでもゼンは特異な才能を発揮して旅団の4人(リュウ、ラルク、アリシア、サリサ)に仲間として認められ、冒険者見習いとなる。ゼンを養子にと望むゴウセル、その婚約者のギルマス・レフライアに、4人の仲間達との、今まで得られなかった幸福で暖かな日々。それはいつまでも続くかに……。 ●感想、意見、ご希望、なんでも歓迎中です。誤字報告は特に。 連載は、なろう、カクヨム、アルファポリス、ノベプラにて。 第2章 流水の弟子編 ネタバレ的あらすじ あれから2年半が過ぎ、厳しい修行の旅を終えて、強くなって帰って来たゼンを待つのは、義父と慕うゴウセルの商会の乗っ取り借金騒動に、西風旅団の迷宮での失敗により、解散寸前までに追い込まれた二人の実力の伸び悩み?それに対して、成長した『流水の弟子』は、その身に秘められし7人の従魔と共に、事態の収拾へと乗り出すのだった…。 第3章 従魔術編 老魔導士『東の隠者』パラケスは長年の研究の末に解明した、『従魔再生契約技術』略して従魔術を、パラケス翁の助手も勤め、自ら従魔を保持するゼンが、冒険者ギルドの研究棟に急遽新設された『従魔再生契約技術研究部』、略して従魔研にて専属講師として、その技術の細かな伝授を始める。 その為にゼンは1カ月、本来の冒険者活動が出来ないのだが致し方ない。 従魔研での新たな出会い。センはいつになったら平穏無事な冒険者生活を取り戻せるのか?!恋愛戦線にも意外な横やりが?!こうご期待! ※表紙イラストに、第2回ノベルアップ+イラストコンテストの、花紙現代様のイラストを使用させていただきました。ありがとうございます。

    • 残酷描写あり
    • 暴力描写あり
    • 性的表現あり

    読了目安時間:39時間55分

    この作品を読む

  • 幼馴染のファッションセンスについていけない

    大熊猫のTシャツは実在します

    5,200

    0


    2022年5月24日更新

    雨に濡れた主人公は幼馴染の女の子が住むマンションを訪ねる。しかし、出て来た姿を見て愕然とすることに。

    読了目安時間:1分

    この作品を読む