僕が小学校に上がる頃から、自分の母が家事を出来ない人なのだと分かった。遊びに行った友達の家では読み終わった本や新聞紙が積み上げられておらず、干した後の洗濯物が山になんていなかったからだ。家ではだいたい、日付が変わる直前に仕事から帰ってくる父親がそれらの片付けをしていて、朝には清潔が保たれていた。いつしか僕も不憫に思い、食べ終わったあとの食器を洗うくらいはするようになった。 弟が八歳で僕が十一歳の夏、父親は出世し九州支店の支店長として栄転が決まった。それは同時に、家の中のバランスが崩れるのを意味していた。 「翼には苦労をかけるかもしれないけど、お母さんを手伝って欲しい」と父に頼まれた。それからは家の中の家事全般が僕に任された。遊びたい盛りの小学生にとって残酷な仕打ちではあった。 父は良い企業人あったかもしれないが、良い夫であり子供の父親であるとはあまり言えなかったのかもしれない。世間では一流と呼ばれる私大を卒業したあと、彼は新卒で石油元売会社に勤めた。彼が就職したとき日本は第二次オイルショックのまっただなかで、国政として日本国内における石油備蓄の必要性が訴えられていた。政府の要請にしたがって、ひいては国民のため、社会のために従業員たちは奮闘した——その多くが、各自の家庭を顧みずに。父もその中の一人だった。 一方で父は男らしく、とか、女らしく、とか、そうした世間知を軸にして子育てをする古いタイプの父親だったから、そのころ多感だった僕は疎ましく感じていたのかもしれない。 父親に餞別として贈り物をしようと言い出したのは弟だ。彼は猫かわいがりをしてくる母親よりも休日に疲れたからだを引きずって上野の動物園や浅草の遊園地など色んな場所に連れていってくれる父親になついていた。きょうだい二人で相談をして、僕は貯めたお小遣いからネクタイを、弟は花をプレゼントすることにした。 「お父さんが遠くに行っても僕らを忘れないように、お母さんのバラの花を贈ろうと思うんだ」 と、僕たちが居間で相談しているのをタイミング悪く父親に聞かれてしまった。父は困った顔をしながら、弟の頭に手のひらをポンと置く。彼は僕たちを叱ったりするとき、声を荒げずにいつも穏やかに接する。 「気持ちは嬉しい。けれどあれはお母さんが大切に育てている花だ。奪うわけにはいかないよ」 母は子供の頃から自宅でバラの花を育てるのが夢だったと本人から聞いていた。家は屋根が三角の昔ながらの二階建て日本家屋だからあまり似合わない花の種類かもしれないけど、季節が来ると真っ赤なバラが咲き乱れると気分が華やぐから悪くないと思えた。その中には四季咲きバラがあって、白いバラの鮮やかさは近所でも評判だ。 「欲しくないの?」と弟は大きな目をぱちくりと曇らせて父に問いかける。 「そりゃ欲しいさ。だけどお母さんが許さない」父は両手の人差し指をツノのように頭の上に掲げて、 「起こったお母さんは怖いだろ?」鬼を見立てたひょうきんな顔をする。 「……なら、ほかに好きな花はある?」と弟は唇を尖らせる。サプライズプレゼントにするはずだったからだろうか、不満げだ。 「花か。あまり思いつかないな」と父は弟を諌めながら考えている素振りだ。あのときの父の心はきっと本心だ。中年を過ぎた男性の関心ごととして、花はそこまでではないし、種類なんて尚更わからないだろう。 だけど弟は「ぼくは覚えているよ」ぽつりと呟いた。 「お父さんの、好きな花」
コメント投稿
スタンプ投稿
このエピソードには、
まだコメントがありません。