「おや。それが、例の掛け軸かえ?」 菖蒲は覗きの姿勢を戻し、真司が手にする箱を見た。 「あ、はい、そうです」 気を取り直し、真司はなんとかそう答える。菖蒲の前に腰を下ろして箱を手渡すと、掛け軸を広げやすいようにテーブルを折りたたんで部屋の隅に寄せた。 菖蒲は箱を隅から隅までじっくりと見ている。直径四十センチの麹塵色の筒状の箱で保存状態も良く、箱自体はそれほど劣化していないようだ。 「ふむ……作者の印もなしか」 箱や掛け軸にはどこかしらに自分が描いた証明として印を残すが、掛け軸が入っている箱にはそれがなかった。 菖蒲は箱を床に置き、丁寧な仕草で掛け軸を取り出しそっと広げる。箱と違い、掛け軸の端は破れ、本紙にはシミがあり絵の具は劣化して色褪せている。 菖蒲は、掛け軸にも印が無いことを確認した。 「ふふっ。これは、またかわいらしい童子やのぉ。……しかし、これでは足らんな」 掛け軸には小川で楽しそうに遊んでいる女の子がひとり描かれている。菖蒲はその掛け軸を見て一目見てぽつりと呟く。 「足りない? どういうことですか?」 「おかしいとは思わんか? ……ほれ」 そう言うと、菖蒲は掛け軸の中の女の子を指す。その場所を見たが、真司の目には女の子がひとりで川遊びをしているのがわかるだけで、おかしいところは見つからなかった。 ――足りないって、どういうことだろう? 真司は腕を組み、唸りながら掛け軸を見て考え始める。答えを求めるためにチラッと菖蒲を見たが、こちらを見向きもしない。どうやら教えてくれる気なさそうだ。 ――自分で考えろってことか……。 真司はまた掛け軸を見て「うーん」と、唸りながら考えていると、ふと、おかしな点に気がついた。 「あ! ここだけ変な水しぶきがあります!」 ほらここです!と、言いながら真司は女の子のすぐ隣の水面を指す。 一見、ただの水しぶきに見えるが、よくよく見て考えると、この水しぶきはどこか不自然だったのだ。 菖蒲は真司の答えに満足したのか、微笑みながら頷いた。 「この子の周りの水しぶきはわかる。じゃが、その隣の水しぶきと水面の揺らぎは見るからにおかしい。ということはじゃ、これは、この子の水しぶきではないということやの」 「つまり、この女の子の他にも、なにかが描かれていたっていうことですか?」 「正解じゃ。そして、女の子の視線の高さからにして、それは〝人〟ではないのぉ」 菖蒲は掛け軸の女の子に触れ「ふふっ」と楽しそうに笑う。 「つまり、ここにいたのは〝動物〟ということやね」 「それって、猫か犬っていうことですよね?」 「うむ」 菖蒲が頷いた途端、突如掛け軸がカタカタと勝手に動き始めた。 「うわっ!? あ、菖蒲さん、掛け軸がっ!」 「これ、落ち着かんか」 真司が驚きの声をあげると、掛け軸から泣き声が聞こえてきた。その声は掛け軸に描かれている女の子の声だった。 「うっ……ううっ。お願い、お願い助けて……助けて」 「……菖蒲さん」 真司の呼びかけに菖蒲は、わかったというように深く頷き、掛け軸に向かって優しく話しかけた。 「おまえさんだねあ? ずっと、泣いていたのは」 「うう……えぐっ、えぐっ……」 「お前さんは、なぜ泣いている? なにを願うのだ?」 女の子は菖蒲の優しい言葉に少し落ち着くと、菖蒲が人間ではないとわかったからか、真司のときとは違い、すぐに心を開いた。 女の子は、小さな子供が拙いながらも一生懸命相手に伝えるように、菖蒲の問いかけに答えた。 「私のわんちゃん……私のわんちゃんが消えたの。えぐっ、うぅっ。寂しいよぉ……」 「消えたって、どういうことでしょうか?」 ――もしかして、死んじゃった……とか? そう考えると、体からサーッと血の気が引いた。 菖蒲は真司のそんな不安を感じ取り、真司に向かって「大丈夫じゃ」と、優しく声をかけた。 「掛け軸から逃げ出してしまったんやろうね」 「逃げ出す?」 「うむ。物には、それぞれ生命が宿る。古い物やと特にね。この作者のことはようわからんが、どうやらこれは相当古い物やの。して、問題は、なんの拍子で抜け出し、どこに行ったかじゃ。真司、この掛け軸を見つけたときは、どういう状況やった?」 真司は、女の子の声が聞こえたときのことを思い出す。 「……たしかあの日、雨が降っていました。すごく天気が悪い日で、雷が近くに落ちたような音もしましたね」 「ふむ。なるほど」 「ううっ。あのね……あのね」 「ん?」 ふたりは同時に掛け軸を見る。 「大きな音にね、わんちゃん驚いたの……」 「となると、やはり、雷で逃げ出したんやろうねぇ」 「でも、どこに逃げたんでしょうか?」 菖蒲は顎に手をやり掛け軸を見ながらしばし考える。すると、なにか思いつくことがあったのか「真司、この掛け軸は物置にあったんじゃな?」と、聞いた。 「え、そうですけど……」 「なら探すまでもなく、まだそこにおるかもしれぬ。どうやら、そのわんちゃんは臆病者らしいからの。外に出ず物置の中に隠れてるかもしれんな」 真司は菖蒲の考えに納得し、まだ犬がここにいることに、ホッと息を吐いた。 「あ、でも、それならどうして自分から戻らないんですか?」 「戻りたくても、戻れなかったんやろうね」 「え……?」 真司は菖蒲の言っていることがわからずに首を傾げる。 菖蒲はコホンっとひとつ咳をすると、真相を真司に説明し始めた。 「おそらくこうじゃな。まず、雷の音で童子が驚いたと同時に、掛け軸の方も動いたんやろう。そして、棚から落ちた拍子に箱が開封し、掛け軸も開いた。その隙間からわんちゃんが逃げ出した」 真司は菖蒲の説明を頭の中で想像する。 菖蒲は真司の目を真っすぐ見ながら説明を続けた。 「この童子は、雷の怖さとわんちゃんが逃げ出したことに悲しみ、泣き始めた。わんちゃんも戻りたくても雷が怖くてなかなか戻れなかったんやろうね。そこに、真司が現れた。お前さんは、落ちている掛け軸を拾ったのではないかえ? そして、悪天候は数日続いていた」 「はい。暗くてよく見えなかったんで、最初は辺りを探していました……菖蒲さんの言うとおり、二、三日は雨も続いていました」 菖蒲は「やはりの」と言うと、真司が取ったであろう行動も含めて、説明を続けた。 「ふむ。掛け軸が落ちているのに気づいたお前さんはそれを見つけ、童子に話を聞いたあと、掛け軸を再び箱に閉まったのではないかえ?」 「はい」 「だから、わんちゃんはそのあとも戻れなかったんよ」 「え?」 混乱する真司に、菖蒲はわかるように説明をする。 「出てきた掛け軸に戻るためには、再び、その掛け軸の中へ入らんとあかん。しかし、掛け軸は真司の手によって箱の中にしまわれた。掛け軸が開かない限り、わんちゃんは元の場所には戻れんのじゃ」 「じゃあ、犬が帰れないのは僕のせいだったんですか……」 そう言って、シュンとなりうなだれる真司に菖蒲は優しく微笑みかけた。 「気にすることはあらへん。お前さんは、こうして童子の悲痛な願いを聞き入れたのやから」 「……はい」 それでも真司の気は晴れなかった。自分のせいで本来の居場所に帰ることもできず、暗い物置の中で今でも怯えてるのかもしれないと思うだけで、とても申し訳なくなった。 「さて、と」 菖蒲は掛け軸を丁寧かつ慎重に丸めると箱に納めた。 そして、すっと立ち上がると真司に向かって微笑んだ。その微笑みは、どこか意気揚々としていた。 「わんちゃん救出作戦に行くぞ、真司!」 そのネーミングセンスってどうなんだろう……と、思ったが、真司は不思議と落ち込んでいた気持ちが消えていくように感じた。そして、手を差し伸べる菖蒲の手を握ると元気良く返事をしたのだった。 「はいっ!」
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