愛している。――ユトレイシア秘密情報庁――

第8章

 その後、ケヴィン・クルーズからは「あの六本指の黒人の体内から、毒物といったものは検出されなかった」という報告があった。「まったくの健康体としか思えんが、心不全を起こしたとしかわしには言えんな。ただ、こういう種類の夜間の不審死にわしはこれまでの間に何度か遭遇しておる。どこに隠し持っておったのか、自分で毒物をふくんで死んだ者もおれば、この黒人のようにまったくの健康体としか思えんのに突然心臓発作を起こして死んだ者もいる。その内の多くがロシア系のスパイじゃよ。解剖医として無能なようで申し訳ないが、つまりはそういうことだ」  ケヴィンからの電話を切ると、ギルバートは自分のデスクの上に手を組み、ふーっと諦めの溜息を着いた。場所は七階の<悪のエリート組織対策本部>として使用しているフロアである。ルークもまた、ソファに腰掛けたまま、目の間を揉んでいた。若い頃であればともかく、六十を過ぎてからの睡眠不足は体に堪えるものがある。 「本部長のその顔からいくと、駄目だったんでしょうな」  この場合の『駄目だった』というのは無論、ジム・クロウの体内からは不審な薬物など何も検出されなかったんでしょうな、の意味である。あのあと、ジム・クロウの監房の監視カメラを見直してみたが、ジムがそのような何かを隠し持っていたという痕跡はないとしか思えなかった。もともと歯に仕込んであった毒物を噛んだといった様子でもなかったし、かといってあの段階で突然死したというのは、ただの<偶然>であるとは信じ難い。 「ルークはどう思う?可能性として他に考えられるのは、ジム・クロウが数十分後に効いてくる毒物をなんらかの形で摂取してから少しくらい自白してから死のうとしたということだが……あるいはもうひとつ。こちらは可能性としてそれよりさらに低いと思われるが、警備局のほうに誰かすでに裏切り者がいて、ここへ連れてくるまでの間にジムに薬物でも渡していたのかどうか……」 「その線については念のため、調べておく必要があるでしょうな。何分、きのう夜勤として詰めていたのはほんの四名ほどですから、調査のほうはすぐに終わるでしょうし。そもそも、この対策部が組まれたのは、USIS内に内通者がいるのかいないのかを長官がお確かめになりたかったからなのでしょう?警備部も救護部も、その他秘密情報庁は入庁の際に人事部のほうで相当に念入りな身元調査が行われます。それをかいくぐってスパイとして潜りこむというのはかなり難しいですからな……とはいえ、ロシアのネズミが何度も発見されていることから見ても、不可能ではないわけです」  この場合、ルークが言ったロシアというのは、ソ連時代も含めてという意味である。ジム・クロウはUSISの尋問方法を生ぬるいと言ったが、この人道的で生ぬるい尋問方式によって寝返ったソ連/ロシアの諜報員というのは数多かった。何故といって自分たちが本国で仮に裏切り者の嫌疑をかけられるか、あるいはスパイ容疑をかけられ、捕えられた場合どれほどきつい取調べを受けることになるか……彼らはよく知っていたからである。 「ええと、きのう警備局に務めていた者のリストはと……」  奇妙な時間に叩き起こされたせいだろうか、三時間ほどしか仮眠をとっていないルーク同様、ギルバートもまたとても眠かった。そこであくびをしながら警備局の勤務表を調べようとするが、ルークがそれを押し留める。 「ジム・クロウは残念なことになってしまいましたし、今後の作戦については再び練り直す必要があります。そう考えた場合、この仕事は出勤してきたディランとトミーにやらせましょう。本部長は彼らに事情を説明したら、一旦お帰りになられて休まれたほうがいいですよ」 「それはルーク、君もだろう」  ――このあと、九時前にトミーとディラン、それにセスとが出勤してくると、彼らはジム・クロウの突然の死にとても驚いていた。それでも、彼がとうとうジェネラルを知っていると認めたということには三人共に快哉を叫んでいた。だが、<悪のエリート>、<悪魔のエリート>という組織を知っているかと質問した時に息を引き取ったと聞くなり……一同がっくりとうなだれていた。 「でもそれ、文脈的にはアタリってことだったんじゃないですか?『そりゃあんたたちが今の今まで俺のことを尋問してきた――』って、この言葉に続く文章は、『ジェネラルがボスの組織の名前じゃないか』……他にありませんよ。これで決まりです」 「それは少々早計にすぎるんじゃないか?」  トミーは性格に少しせっかちなところがあるため、ギルバートは彼と同じ考えではあったものの、このユニットを率いる長として、そう決めつけることまではしなかった。 「なんにしても、捜査のほうは大きく進むと同時に完全に行き詰まった。ジム・クロウはおそらく、ジェネラルが影で操っている裏社会のボスのひとりに過ぎないに違いない。自分は姿を現すことなく、他の手足となる部下と接触させていることから見ても、相当に用心深い男だ。これはあくまで俺の直感なんだがな……警視庁の連中はジム・クロウが死んだと聞けば相当喜ぶだろう。あいつらはジム・クロウのような小物にさえ弱味を握られて怯えていた。ジェネラルの下っ端のそのまた下っ端のような男に対してだぞ?そう考えた場合、ジェネラルという男はおそらく、ユトランド共和国の政財界にも相当深く食い込んでいるんじゃないか?このままもし俺たちがジェネラルの正体にまで迫れたとしても……その前にここにいる全員が死ぬか殺されるか、そのくらいの大きな脅威を我々は相手にしているかもしれないんだ」  このあと、ギルバートはトミーとディランに警備局の人間の洗いだしをするよう命じ、セスにはあらためて休暇と待機を言い渡し、その労を労った。何より、ジム・クロウが自分の知っていることを話してもいいと思ったのは、ミシェルというもうひとりの彼に友情を感じていたからに他ならなかったのだから、と……。  そしてこの日、ルークと一緒に駐車場まで降りていきかけ――ギルバートは頭の中に何か引っかかるものを感じた。あれはもう、半年ほども前の話になるが、この駐車場でギルバートはアメリア・クリスティに思いを告白された。だが、彼女の秘書部のIDでは部長クラス以上ではないと停められない地下駐車場へはそもそもやって来れないはずなのだ。 (俺はあの時、警備局に親しい誰かでもいて(務めている部署によって、出入りの際に警備局で持ち物検査をされる)アメリアが融通を利かせてもらったに違いないと思った。しかも、そのことで翌日に警備部の部長からクレームがあったわけでもない……そう考えた場合、これは警備局にはそもそも抜け穴があるかもしれないということなんじゃないのか?)  ギルバートも、部長クラスになる以前までは、警備局の人間と出入りの際によく軽口を叩いていたものだ。その際に親しくなって少しばかり融通を利かせてもらうくらいのことは――ある意味、許容の範囲内という部分もある。何故なら、秘密情報庁には監視カメラのない部屋などほとんどないのだから。 「本部長、どうかされましたか?」 「ああ、すまん。ちょっと気になることがあって……」  エレベーターで駐車場まで下りてきたところで、ギルバートは引き返すことにした。ルークにはそのまま帰ってもらうことにしたが、実をいうと彼はなんだか胸騒ぎがしたのだ。 (昨日、ジム・クロウが監房で食事をしたのは夜の七時半か。そして彼が死亡したのが深夜の三時半過ぎであることを考えると、この時食事に何かを混ぜこんだ可能性は低いだろう。では、ジム・クロウのことを尋問室まで運んで来る途中か?だが、この場合は二人がともに内通者だということになる。きのう、ルークが仮眠を取ったのが何時から何時までだったのか、聞いておいたらよかったな……何分、警備局の仕事は毎日がもうルーティン化したつまらないものに成り果てているだろう。そんな中で、IT技術に優れている者がいれば、画像の差し替えを行うことなどは十分に可能だ)  たとえば、休憩時間、あるいは「腹の調子が悪い」とでも言って少し長めにトイレへ行くというだけでも時間としては十分だろう。その前にきのうでもおとついでもいつのものでもいいが、ジム・クロウが横になって監房で寝ている画像を差し込んでおく。そしてその間に何かの薬剤を仕込んでおくというのは、不可能なことではない。  一度帰宅したはずのギルバートが戻ってきたので、ディランとルークは驚いていた。だが、ギルバートは何も言わずにそのまま自分の部屋に入り、アメリアの仕事用の携帯のほうへ電話した。 『はい、こちらはロシア・ヨーロッパ部門情報分析次官秘書、アメリア・クリスティの携帯ですが……えっ、コナー次官ですか!?』  ギルバートは異動になると同時に別の新しい携帯に変えていたため、携帯の番号のほうは変わっていた。だが、かつて恋していた相手の声を聞きつけると、アメリアの声は自然上ずった。 「ああ。久しぶりだね、アメリア……今、ちょっといいかな?もし無理なら、あとで話したいことがあるんだが」 (あのあと、よく考えたんだけど、前は次官とその秘書という関係性から、君とつきあうのは適切でないと判断したんだ。でも本当の俺の気持ちは――)  などという都合のいい夢想にアメリアは浸りはじめていたが、ぶんぶん首を振って己の思考を現実世界へ繋ぎ止める。 『今、今ですかっ!?ええともうスケジュールの確認は済みましたし、ファイルの整理なんかは何も今じゃなくても……』 「そっか。でももし、クリフが呼んだとしたら、すぐにこの通話は切ってくれて構わないから。その……言い難いんだけど、今から俺が聞くことはとても重要なことなんだ。アメリア、君は以前、俺の車のそばにいたことがあっただろう?ほら、地下の駐車場でのことさ。もう随分前のことだけど、あの時君、どうやって駐車場に入りこんだんだい?これは重要な警備上の問題なんだ。ただし、君に何か責任を問うということは絶対ないから、安心して答えて欲しい。君、もしかしてあの時――警備局の誰か親しい人に地下駐車場へ入れるよう手配してもらったりしたのかい?」 『えっと……』  アメリアは動揺するあまり、この時思わず『クリフが呼んでるから、またあとで必ず連絡します』と嘘をついた。そして結局のところそうしておいて良かったと思った。何故ならそのほうが――長く恋心を抱いてきたギルバート・コナーと長く話すことが出来るのだから。  このあと、アメリアは二十分が経過するのを待ってから、あらためてギルバートの携帯に電話をし直した。そして脳内でリハーサルしたものをそのまま自分で再現する。 「あ、あのっ、次官。わたし、クリフから急な用事を言いつけられて今とても忙しいんです。ですから、もしよろしかったら今夜……お仕事が終わったあとで、どこかでお食事でもしませんか?お話のほうはその時に、ということで」 『そうか。わかったよ』  通話相手に気づかれないようにしながら、ギルバートは溜息を着いた。そしてアメリアに『食べたいのはイタリアン?それとも中華料理とかタイ料理のほうがいいかな?』と話を振る。それに対するアメリアの答えは(次官とだったらどこでもいいです!)というものだったが、もちろんそんなことを言いはしない。秘書部の先輩たちもよく言っていた。「自分の意見も言えないような女はすぐ飽きられる」と……。 「そうですね。中央通りに美味しい日本食のお店があるんですよ。次官もお寿司はお好きでしたよね?」 『ああ。まあ……』 (もう俺は次官じゃないけどね)とは、ギルバートはもう面倒くさくて訂正する気にもなれない。そのくらい、彼もまたジム・クロウの死には打ちのめされていた。 「良かったあ!じゃあ今日、次官は何時くらいで上がれそうですか?新しい部署の責任者でいらっしゃるんでしょう?お忙しそうですよね。わたし、何時になっても待ってますから……」 『いや、アメリア。今日は君に合わせるよ』  そこでアメリアは、自分の仕事が終わり次第、もう一度連絡しますと答えておいた。彼女は嬉しさのあまり、この日は実に仕事がはかどったものだった。その後次官に昇進したクリフ・コーディとは「それ、セクハラとして告発してもいいですか?」と言って以来、関係がギスギスしている。性的関係の可能性が限りなくゼロに近いことがわかるやいなや、クリフの態度もコロリと変わって冷たく嫌味に満ちたものとなった。けれど、(こんなもんでいいわよ、上司との関係なんて)と、アメリアは思いもする。それに、ギルバート・コナーのような男の秘書になってしまうのも、当時は秘書部のみんなから羨ましがられたが、それならそれで別の問題が生じるものだからだ。 「どうした、ギルバート?一度自宅に戻って寝るんじゃなかったのか?」  ディランもトミーも、古くからの同僚として親しかったが、それでも彼が自分たちの上司であるということは十分わきまえているつもりだった。 「ちょっと気になることがあってな……それより、きのう警備局に詰めてた人間の洗いだしのほうはどうなった?」 「人事局のほうに問い合わせてみたが」と、ディラン。「特に不審な点はないようだぞ。USISに出入りする職員は例外なく最低でも三等親の親類縁者に至るまで身分のほうを調べ尽くされるからな。きのう、夜勤者として詰めていたのはマイケル・リンデン、デイヴィッド・ジョーンズ、ダニエル・アレキサンダー、ベンジャミン・ローの四名だ。勤務年数のほうはそれぞれ順に、十二年、五年、八年、三年といったところだ。だがまあ、念のためにもう一度入庁時と今とで身上書のほうにどの程度変化があるか、調べ直してみるか?」  一般的に言って、勤務年数の高いものほど裏切り者である可能性は低いと見られるかもしれない。だがその点、ディランもトミーもギルバートも諜報員としての経験からよく知っていた。「人が何を理由に裏切るか」など、予測できないものなのだ。たとえば、十年もあれば入庁時とで色々と変化のあるのが普通だろう。USISの職員であれば、国から相応の保障が得られるのと同時に給料のほうも一般公務員の比ではない。とはいえ、結婚した女性の金遣いが荒く、そのために多額の金が必要になったとか、心の隙間を生めるためにギャンブルに走り、多額の借金を抱えこむなど……給料がいい分、つぎ込む額がそれだけ大きくなるというのも、よくある話である。ゆえに、この時点でもっとも怪しいのは勤務暦三年のベンジャミン・ローであろうなどとは、最初から決めてかからないほうがいいのだ。  そして実際、<悪のエリート>、あるいは<悪魔のエリート>という組織の大きさを、ジム・クロウの一件で感じていたディランとトミーは、この件には腰を据えて掛からねばならないとあらためて覚悟していたのである。 「どうせ他にするような仕事もないと思って、その件はじっくり攻めてみてくれ。ところで、ジム・クロウにきのうの夜食事を運んだのは、その四人のうち誰だった?」 「デイヴィッド・ジョーンズですね」と、ディラン。「俺たちもあのあと、監視カメラの映像のほうは見直してましたから……」  ディランとトミーはここで、「そうだ!」というように顔を見合わせるだけでなく、互いに互いを指差すことまでした。もはや、ギルバートが「それで、尋問室にジム・クロウを連れてきたのは?」と聞き返す必要さえない。 「そうだよ、ディラン!」と、トミー。「きのうはこいつとダニエル・アレキサンダーが深夜にジム・クロウを尋問室まで連れて来たんだ」  もうほとんどこれで決まりという気がしたが、優先順位としては、この時点ではまだデイヴィッド・ジョーンズが一番あやしいというだけにすぎず、他の夜勤の警備員のことも慎重に調査し直さなくてはならない。 「しかもこいつ、ユトレイシア情報工科大卒ですよ。それなのになんでUSIS警備局の面接を受けようなんて思ったのか……こいつならたぶん監視カメラの映像を差し替えるってことも出来るんじゃないか?四人とももう夜勤が終わって帰宅してるでしょうが、明日出勤してきたらマイケル、ダニエル、ベンジャミンの三人を順に呼んでジョーンズのことを聞く必要がありそうですね。自分から率先してジム・クロウに食事を運ぼうとしたとか、腹の調子が悪いといってトイレから一度なかなか戻らなかった……なんて話が出てきたらこいつが黒である確率大ですよ」 「よし、決まりだ!」と、ギルバートが最終的な決断を下す。「これから長官の許可を取り、コンラッド警視正の特務班に頼んで、デイヴィッド・ジョーンズの自宅を囲み、彼の身柄を確保してもらおう。敵も決して馬鹿じゃない……今回の一度の裏切りで大金が手に入るなら、デイヴィッド・ジョーンズはすぐにも行方をくらませて高飛びするだろう」  ――リグビー長官の許可を取り、ギルバートはコンラッド警視正に動いてもらうことにした。それでも捜査上の諸手続きに手間取ったせいもあり、結果としてデイヴィッド・ジョーンズには逃げられてしまったのである。ユトレイシア空港に問い合わせ、デイヴィッド・ジョーンズが国際線のどの便に乗っているのか、あるいはいないのかを調べてもらったところ……まずは一旦キューバへ逃れることにしたらしいことがわかった。ユトランド共和国とキューバ共和国の間に国交はない。だが、インターポールに指名手配することは出来るため、ギルバートはその手続きを取るまでのことを行ってからアメリア・クリスティと日本食の店へ出かけることにしたのである。  実をいうと、ギルバートのほうではもうこうなると、彼女から話を聞く有益性はあまりなかったかもしれない。だが、もしアメリアのしたような形で警備員たちが割合そうした融通を利かせる傾向が強いのだとしたら……デイヴィッド・ジョーンズだけではない。これからもそうした穴から白蟻が入りこみ、内部を崩壊・腐敗させる工作を行うことは十分可能となる。 (長官には、今回の経緯についてすべて話し、警備局の警備員の再教育について進言してはおいたが……やれやれ。まさかこんな初歩中の基本的なところに<穴>かあったとはな。実際、長官も驚いていた。ジム・クロウ一人を片付けるために軍用ヘリが襲ってきたり、それが駄目となるとUSIS内に刺客まで送ってくるとは。だがまあ、仮にデイヴィッド・ジョーンズの身柄を確保できたとしても――おそらく彼は多額の金に目がくらんだといったところだろうから、ジェネラルに通じる情報など何も知ってはいまい)  アメリアとは秘密情報庁の裏門の前で待ち合わせていた。以前の時とは違い、アメリアは少し大胆になり、後部席ではなく助手席のほうに身を滑りこませていた。 (あーあ。こうなるってわかってたら、先週買ったばかりのロイヤルパーティのワンピースでも着てきたのにな。このバーバリーの服はコナー次官がいた頃からよく着てたものだし……) 「どうかした?」 「い、いえっ、なんでもありませんっ。ただ、クリフ……いえ、コーディ次官になってから、仕事に張り合いがなくなっちゃって。あ、こう言うからって変な意味で言ってるわけじゃないんです。ただ、コナー次官の秘書をしていた頃は仕事もあんなにやり甲斐があったのに――コーディ次官ときたら、権威をかさにでも着たみたいに、あからさまにセクハラをしてきたんですよっ。だからわたし、はっきり言ってやったんです。『わたしとあなたはただの上司と部下だってこと、忘れないでください』って。それで、『これ以上公私混同するようなら、上のほうにセクハラで訴えますよ』って言ったら、今度はセクハラがパワハラに変わったみたいになっちゃって。まあ、いいんですけどね。秘書部では色んな話を聞きますから、部署を変えてもらったところで、今よりよくなるとも思いませんし」 「うーん。そうだなあ……こう言っちゃなんだけど、男っていうのは案外デリケートな生き物だからね。アメリア、クリフのことは君の手のひらで適当に躍らせてあげるくらいがちょうどいいんじゃないかな。俺も変な意味で言うんじゃなくて、彼はたぶんただ臍を曲げてるっていうそれだけなんだろうし。つまり、君のほうでは全然そのつもりじゃなくても――アメリア、ほら、君は優しいだろ?だから、クリフのほうでは長いこと勘違いしちゃったんじゃないか?もう少し強く押せば、君がきっとうんって言ってくれるんじゃないかみたいに」  ――こんなに早い時刻にギルバートが退勤するのは久しぶりのことだった。まだ午後の七時前だ。だが、このままアメリアの言う中央通りにある店へ行くには……街中を通らなければならないだけあって、渋滞に捕まりそうだった。 「まあ、次官っ。わたし、そんなふうにクリフに気を持たせるような態度、取ったことありませんわっ!!」  正確に言うとこれは嘘である。彼女は唯一ギルバートの目のあるところでは、クリフ・コーディに対し曖昧な態度を取っていたからである。憧れの次官がほんの微かにでも嫉妬してくれたらと期待して。 「そういえばアメリア……例の日本食の店に行くより、うちへ来ないか?その、深い意味があるってことじゃなく、本当に職務上のことで質問したいことがあるんだよ。その点、個室のある店であっても、俺は今はあまり信頼できるような気分になれないもんだから。時間はそう取らせないし、食事のほうも何か――美味しいものでも配達してもらおう。それに、そのあとにちゃんと君の家まで送っていくし」 「そ、そうなんですかっ。今ごろわたしに聞きたいことなんて、なんでしょう?わたし、たの……いえ、心配ですっ。庁内でもコナー次官が長官の命で直々の重要なプロジェクトにかかっているらしいっていうのは随分噂になりましたものね。しかも、誰かわたし以外の秘書がつくわけでもないのがうれし……じゃなくて、オシントの長老と呼ばれるルーク・ランドンと元アジア部門上級オフィサーのトミー・レガードと元北米部門上級オフィサー、ディラン・ヒューイットを引き抜いたらしいっていうのは、庁内じゃ有名な話ですもの」 「そうか。なるほど……」  庁内のカフェテリアやレストランで、以前一緒に仕事をしたことのある職員とは顔を合わせるということがある。だが、その場合でもお互いに今どんなケースの仕事を抱えているかといったことは、基本的にしない場合がほとんどである。 (だが、USIS内に内通者がいた場合、リグビー長官が極秘プロジェクトの責任者として俺を任命し、そこにトミーとディラン、それにルークの三人が名を連ねているらしいことくらいは、向こうにすでに筒抜けなわけだ……) 「あのう、次官。もしよろしかったら、そこらへんのコンビニで一度降ろしていただけませんか?わたしでよかったら、何か適当に作りますよ。せっかく次官とデ……じゃない、お話するのに、ピザとコーラじゃなんだか味気ないですもの」 「悪いな、アメリア。うちの冷蔵庫の中を今頭に思い浮かべてみたが、ろくなものしか入ってない。ビールにチーズに冷凍食品とか……」 「大丈夫ですよ、次官。わたしもお腹ペコペコですから、美味しい冷凍食品になっちゃいますけど、でも他に惣菜なんかも一緒に買って、それなりに豪華にしてみせますからっ」  ギルバートは店内には入らず、ただ彼女にカードを渡した。アメリアは「いいですっ」と言ったが、「経費で落ちるから」と言う上司の冗談につきあうことにしたようである。  結局のところ、あれからも何かと色々忙しく、ギルバートはソファに横になって眠る時間さえなかった。一応、女性と食事に行くということで、オフィスの自分の部屋に置きっぱなしにしてあったスーツとネクタイ、それと靴のほうはサイズが同じだったディランの革靴とスリッポンを交換してもらっていた。 (やっぱり、女性というのはいいな。仕事の話をしているのだとしても心がほっこりするし、それが自分に好意を抱いてくれている女性となれば尚更だ)  もちろん、ギルバートは元部下のアメリア・クリスティとこれから男女としてどうにかなろうとは考えていない。けれど、コンビニの店内でカゴを持ち、あちこちうろうろしながら商品を買い込むアメリアのことを見ているうちに――彼女のことが可愛くてたまらない気持ちにはなっていたかもしれない。  ギルバートは彼女に何を買ってきたかは聞かなかった。けれど、アメリアは終始ニコニコ顔で、憧れの次官の豪華なマンションの内装に驚き、さらにはエレベーターが上がっていく間、ユトレイシア市内の美しい夜景を眼下に見下ろして……すでにうっとりとした心持ちになっていた。 「すまないな、アメリア。色々散らかってて……」  クリーニングに出すべき衣服や、洗濯カゴに入れるべき衣類などを片付けつつ、ギルバートは彼女のことを自分の部屋へ通した。家具のほうは最初から備えつけになっている機能性を重視したもので、インテリアのほうもシンプルで品の良いものが多い。そしてあまりここへは帰ってきていないように感じられる広いリビングを見渡して――アメリアは(次官らしい)と思い、くすりと笑みを洩らしたのだった。 「キッチンのほう、適当に使わせてもらいますねー」  そう言いながら、アメリアはほぼ新品に見えるフライパンや鍋類などをシンク下の棚から取り出した。レンジでチンすればいいだけの、鴨肉のコンフィとラザニア、それにたっぷりの野菜。他にアメリアはスパゲッティボロネーゼと、冷凍のピラフを作って足した。 「悪いな、アメリア。君だって仕事して疲れてるはずなのに……」  レンジでチンするだけの商品は、ギルバートのほうで適当に皿にのせ、温める準備をしておいた。デザートのほうは桃のタルトレットとレモンシャーベットらしいと知り、ギルバートはなんとなく笑ってしまう。(女性はこういうのが好きだよな)と、そう思って。 「いいえ、全然ですわよ。だって今日、仕事が終わったら次官とお話できると思って、わたしすべてのことがなんでも楽しかったんです。クリフが嫌味を言ってきても、右から左に突き抜けていきましたわ。だから、次官はお気になさらず。全部、わたしが好きでやってることですもの」  ギルバートはビールを一杯飲みながら、ワインは白と赤とどっちがいいかとアメリアに聞いた。すると、彼女が赤と答えたので、冷凍食品にはもったいないような銘柄のものを一本、小さなワインセラーから出しておくことにする。 「美味しいよ、アメリア。本当にありがとう」  席に着いて、スパゲティを一口食べるなり、ギルバートはそう言った。嘘ではない。本当に美味しかった。たぶん、店でこのまま出されても、空腹でありさえすれば元は冷凍麺だなどとは自分は気づかないだろうとすら思った。 「まあ、恐縮ですわ、次官。こんなもので良かったらわたし、毎日でも作ってあげますのに」  このあとギルバートは食事をするのに夢中で、まだ本題のほうへ入ろうとはしなかった。けれど、アメリアのほうで気を遣って、早速とばかり話のほうを切り出す。 「それで、わたしにお聞きになりたいことってなんですの?」 「う、うん。そうだね……以前、君は警備局のうちの誰に頼んで秘書部のIDでは入れないはずの地下駐車場へ入れたのかと思って。実は、同じ手法で他の職員も内通者を手引きしたのだとしたら、どこの部署の情報もフリーパスで取り放題ということになるだろう?もちろん俺は君のことを信頼しているし、このことで君に何か責任問題が及ぶということもない。だから、正直にすべて話してくれないか?」 (なるほど。そういうこと……)  そう思い、アメリアはコンビニの店員が袋に入れてくれたナプキンで口許を拭った。ギルバートはボロネーゼにピラフに鴨肉のコンフィと、夢中で食べていたが、アメリアのほうでは一旦フォークを置く。 「その……わたし、警備局のデイヴィッド・ジョーンズと割と親しかったんです。わたしも局長のことを信頼してお話するのですけど、彼、周囲には明かしてないんですけど、同性愛者なんですよ。それで、一度親しくなったら趣味なんかが結構あって。ほら、女の子がいかにも好きそうな可愛いグッズ類のこととか、そういうことですけど……彼、お父さんが軍人でとても厳しい方なんですって。だから、自分がこういう可愛いものが好きで、ゲイだなんてことまでバレたら――親子としてきっと縁を切られるって言ってましたわ」 (身長が182センチの、いかつい外見に反して、そういう可愛い趣味があったとはな)と、ギルバートも少し驚いた。おそらく、彼の写真を見たことのある者であれば、誰でもそう思うだろう。 「そうか。じゃあアメリア、君、聞いてないかな。彼、USISの警備局を近いうちに辞めるとか、そんなことを話してなかったかな」 「いいえ、全然。デイヴィッドはUSISの警備局に勤めていることをとても誇りにしていました。他の民間の施設だったとしたら、そこがどんなに重要な場所でも、USISほど給料のほうも良くなかったでしょうし、ほら、老後の年金なんかもたくさん出るでしょう?退職金のほうも一般企業なんかよりよっぽどいいから、自分は本当にラッキーだったってよく言ってましたわ」 「なるほどな……」  ギルバートはここで、一旦食事の手を止めた。鴨肉のコンフィもシーザーズサラダもとても美味しかった。ピラフは流石に冷凍ものであることがわかったが、ラザニアのほうは「手作りだ」と言われたら、そう信じてしまうかもしれないくらい美味だった。 「デイヴィッドがどうかしましたの?」 (もしや自分のせいで彼はクビになるのだろうか)というように、アメリアは心配げな顔をしてそう聞いていた。彼女はまずサラダに手をつけてから、次にピラフを口許へと運ぶ。 「今俺がこの場で言わなくても、あとでわかることだろうから言うが……デイヴィッドはもうUSISへ出勤してくることはないだろう。詳しいことは話せないが、彼は誰か外部の人間に金で頼まれて、ある工作を行った。そして今は高飛びして外国にいる。アメリア、デイヴィッド以外にもそうした種類の人間が警備局にいないかどうか知らないか?もちろん、今回のことで警備局内でも監視体制が厳しくはなるだろう。警備局の人間を警備するだなんて考えると、少し笑ってしまうがな」 「探偵に探偵をつけるとか、そういった類のことですわね。わたし、警備局の何人かとは親しいですけど、それだって特にプライヴェートでまで会ったりすることまではないといった程度ですわ。唯一デイヴィッドとだけでした。なんとなくお互いに気の合うような感じがして、たまに休日の時に会ったりしていたのは……」  動揺したのかどうか、アメリアはまだ大して食べてもいないのに、もう一度スプーンを置いている。 「わたしのほうでは本当に、友達だと思ってたんですけど……」 「なんだか、すまなかったね。ほら、君の作ってくれたものはみんな美味しいよ。事情聴取はもう終わりだ。もっと他に楽しい話でもしよう」  そう言ってギルバートは、壁に据えられているテレビをリモコンでつけた。殺人事件のニュースをやっていたため、いくつかチャンネルを変え、最終的にコメディドラマへと落ち着く。 「ええ……でも、わたし、たったのこれだけの話で次官のお役に立てましたかしら?」 「もう十分すぎるくらいね。君の話で裏も取れたし、むしろある意味安心したよ。デイヴィッド・ジョーンズ以外の警備員の名前を出されたら、警備局の職員全員の身元調査をもう一度しなきゃいけないところだった」  ギルバートのほうでも、仕事の話はこれきりということにして、少しくらいはアメリアに楽しい気持ちになってもらいたいと思っていた。USISの仕事は残業も多く勤務スケジュールも過密だった。そんな中で秘書の仕事というのは比較的楽であるように思われがちだが、その分書類の整理などの雑務を押しつけられるし、その間にミスを見つけられたりすれば、ミッションのうまくいっていない上司に怒鳴りつけられるといった心理的問題もある。  果たしてアメリアがクリフ・コーディの気持ちに応えていたらどうだったのか……それはギルバートにもわからない。けれど、アメリアが自分がロシア・ヨーロッパ部門の情報分析次官であった頃よりも、コーディ時代のほうがよりストレスの多い中で働いているのだろうことは容易に想像がつく。 「このコメディドラマ、もう何回再放送してるんでしょうね。わたしも大好きでしたけど……」 「そうだね。最初に放映されてたのが確か、俺が大学生くらいの頃だから――もうかれこれ二十年以上にもなるか。なんか、懐かしいなあ」  このあと、アメリアとギルバートはなんとなくお互いにぼんやりした。アメリアはギルバートと六歳違いの三十歳で、このドラマを見ていたのは中学生くらいの頃だった。主人公たちはユトレイシアという首都での成功を夢みて友達や知り合いになった七人の若者たち。仕事や恋愛の問題など、時にはお互いを支え、また時には喧嘩しあい、そうして成長していく物語……といったところだった。 「この主人公、いかにも田舎者っていう感じのお馬鹿キャラだったのに、回を追うごとに存在感増していくんですよねえ。それで、グループの中で最初は三角関係だったのが最終的に五角関係になっちゃって、最後どうなるの!?って思ってたら、結構見てる側が納得できる形でまとまって良かったあ、みたいな」 「うん。医者のハーヴェイはさ、弁護士目指してるキャロルのことが最初は好きだったのに……最終的に女優として全然芽のでないエミリーとくっつくだろ。お互い、価値観がまるっきり真逆で喧嘩ばっかりしてるのに、このカップルがドラマの中で俺は一番好きだったな」 「そうそう!ハーヴェイはエミリーに励まされて、キャロルに思いきってアタックするじゃないですか。でもキャロルは実はあの知能の足りない主人公のサル男のことが好きで……でも本当はサルが好きなのに、サルのほうはまるで脈なしみたいに見えるから、ハーヴェイにオーケー出しちゃうんですよね。ハーヴェイは最初、憧れ続けたキャロルとつきあえて有頂天になるわけですけど――つきあってみたら「あれ?なんか違ったかも」って思ったり、なんか結構気持ちがすれ違っちゃったりとかして。それで気づくんですよね。自分は実はエミリーと一緒にいるほうが楽しいって。で、エミリーのほうではハーヴェイのことがもともと好きなんだけど、彼が知的な美人のキャロルに夢中になってるのを見て……そんな時に告白してきたハーヴェイの親友のアーロンとつきあっちゃったりして。そんでこのアーロンっていうのが超いい奴のイケメンなんだけど、エミリーはハーヴェイがキャロルと別れたって聞いてめっちゃ心が揺れちゃって。あー、ほんっっと、見てる間は毎週次どうなるんだろうって思ってた記憶あります」 「そうだよなあ。サルはとにかく惚れっぽくて、勤めてるコーヒーショップのウェイトレスの女の子とつきあったり、振られてはみんなに失恋パーティ開いてもらって、でもまた次の日にはケーキ屋の子に運命を感じたとか言っててさ。それで、サルは自分が馬鹿だと思ってるから、キャロルみたいな子が実は自分を好きだとは気づきもしなくて……でも彼女のほうでは違うんだよな。自分だって金なんかないのにホームネスに食事を奢ってやったり、ちょっとしたことですぐ熱くなるサルのことが大好きなんだ」 「そうそう!それで、もう何回目になるかわからないサルの失恋パーティで、酔った勢いにまかせた振りして、キャロルのほうからキスしちゃうんですよ。でもサルのほうが、『君みたいな子がこんなことしちゃいけない』とかって言っちゃうんですよね。だけど、キャロルが『わたし、あなたのことがずっと好きだったの』って告白しちゃって、サルはもう酔いも吹っ飛んで走って逃げちゃうんですよ。それもマッハの勢いで!もう、あの回最高だった!!」  今ふたりが見ているのは、まだセカンドシーズンの第六回目だったが、ギルバートはアメリアと大笑いしあった。そして約一時間弱のドラマが終わるのと同時に、ふたりは自然食器の後片付けなどをはじめ――ギルバートにとっては少し不思議なことだったが、恋愛の自然発火がこの時に起こっていた。  本当はこうならないためにこそ、彼はずっとアメリアと距離を保つようにしてきたのに……家庭的な雰囲気を身にまとったアメリアは今の彼にとってとても魅力的だった。それに美味しい食事と赤ワインによって昼間に感じた疲労感と虚しい徒労感とが若干癒され――さらにはそこに睡眠不足も加わっていたせいか、ギルバートはもう理性によって面倒なバリケードを築き直す気にはなれなかったのだ。  ふとした瞬間にふたりの目と目はあい、ギルバートは自分のほうからアメリアにキスした。これを待っていたとばかり、彼女のほうでもギルバートの求めに応え……あとはのことはもう、ふたりの間で言葉など必要なかった。そもそも、上司と部下として一年以上も近い場所で働いてきたふたりだった。アメリアはもしかしたらこうなる可能性もあるかもしれないと思い、女性ロッカーの隅にある浴室でシャワーを浴びてきてよかったとつくづく思ったものだ。 (それに、下着はたまたまラ・ペルラのセクシーなのだし……でかしたわたし、万歳っ!!バーバリーの服なんかより、こっちのほうがよっぽど効果絶大よ)  アメリアにとっては、ギルバートが今自分に対しどんな感情を抱いているのでも良かった。もしかしたら、彼にとってはただの気まぐれ、あるいは以前告白した女性にすまなさを感じての行動であったかもしれない。けれど、それが仮にたった一夜限りで終わってしまうものであったとしても……アメリアにとってはよかった。ほんの一時、彼から必要とされ、束の間でも愛されたと錯覚することさえ出来れば、アメリアにとってはそれで十分だった。  ――こうして朝を迎えた時、ギルバートが目覚めてみるとすでにアメリアの姿はなかった。ナイトテーブルのあたりに目をやっても、伝言のメモといった類はない。それでも、ダイニングに軽く朝食の用意がしてあるのを見て、ギルバートはほっとした。 (彼女にはまた、夜にでも連絡しよう。それで、次の休日にでも映画か食事に誘えばいい。出来れば同じ庁内の女性と恋愛関係になることだけは避けたかったが……でも、アメリアであれば他の秘書の誰より俺のことを理解してくれるかもしれない。これが他の女性なら『今忙しい』と言った場合、どのくらいの種類の忙しさなのかさえわからない。だが、彼女ならその意味がわかるし、突然デートをすっぽかすことがあっても、ふてくされないでいてくれるだろう)  ギルバートはアメリアが仕事のキャリアを求めるタイプではなく、出来ればなるべく早く寿退社したいと思うタイプの女性であると知っていた。本人が口で直接そう言っていたわけではないにせよ、大体の雰囲気として彼のほうではそうなのだろうと思っていたのである。 「となると、いずれは結婚か……」  マンションの管理人がドアの前に置いていく新聞も、ダイニングテーブルの上にきちんと置いてあった。もちろん、きのうふたりで食事をしたテーブルだった。そこにクロワッサンやベーグル、オムレツやウィンナーといった皿がいくつか並んでいる。 (アメリアのような女性と結婚する男は、幸せになれるだろうな……)  ギルバートはそこに一抹の物足りなさを感じるでもなく、心からそう感じていた。夜のほうも、「思いやりがあって情熱的」というのがギルバートの彼女に対して感じたことだったし、むしろ色々なことが予想以上でさえあったかもしれない。何故なら、彼はアメリアがもう少し初心で奥手なタイプではないかと思っていたからだった。  ただ、彼は前回の結婚の失敗から……自分のような男は結婚しないほうが良いのではないかと反省していたのである。正直なところを言ってギルバートは、女性にもてる体質だった。そして、いわゆる一人の女性では我慢できないという浮気心を持っているということ――それが彼の唯一の欠点だった。  もちろん、誰か女性とつきあうということになれば、その時ギルバートの頭にあるのは彼女のことだけだ。相手に失礼にならないように礼も尽くすし、彼は相手の女性が喜ぶことを色々考え、それを実行に移すこともとても好きだ。けれど、前妻の時にそうであったように、妻以外の女性と寝たいと感じる気持ちをどうしても抑えるということが出来ない。 (まさか最初から、「自分にはそんな致命的な欠陥があるけど、それでもいいなら結婚しないか?」なんて言うのも変な話だしな……)  こうしてギルバートは、いずれ破綻する可能性が大きいとわかっていながらも、アメリア・クリスティとつきあうということにしたのである。その後、一度キューバへ逃れたデイヴィッド・ジョーンズは、モロッコのほうで身柄を拘束された。そこで、ギルバートはルークと一緒にUSISのモロッコ支局まで飛び、ジョーンズのことを尋問した。だが思っていたとおり、彼はただ金によって雇われていたにすぎず、ジョーンズの口からは<ジェネラル>という言葉も<悪のエリート>に関することについても、何も聞きだすことは出来なかったのである(ジム・クロウの時とは違い、ギルバートにもルークにも彼が嘘を言っていないことがわかっていた)。  ジム・クロウがUSISで取り調べられて死亡したというのは、事実として公表できないことであったため、彼の<急性心不全>で亡くなった遺体はユトレイシア警視庁の遺体安置室へと運ばれ……警視庁で取り調べられている間に心臓発作を起こしたというように弟のノエル・クロウには説明がされたようである。  こうなると当然、デイヴィッドのことはジム・クロウ殺害の罪によって立件するということが出来なくなるわけだが――ジョーンズは警備局の一警備員から下級オフィサーとしてある意味昇格するということになった。つまり、こうして彼は一生の(正確には定年までの間)USISのケースオフィサーとして厳しい任務に就かせられるということになったわけである。  もっとも本人はずっと昔からそう望んでいたらしく、リグビー長官のこの<温情>を非常に有難いものとして泣き噎びながら喜んでいた。こうしてデイヴィッド・ジョーンズはUSISのサイバー工作員となるために、まずはサイバー工作員養成所へ送られるということになった。ジム・クロウを失ったことはギルバートたちにとって痛手ではあったが、その彼もまた<ジェネラル>の顔を直接見たことがあるといった情報を有していたわけではない。こうして捜査のほうは一度完全に手詰まりとなったわけだが、ルークは再びオシントによる捜査を続け、トミーとディランはイェン一族とジム・クロウの残党との抗争事件を追うことにした。もちろん、そこから<ジェネラル>に繋がるような情報がたまさかにでも得られるとは思ってなかったにせよ。だが、そうでもする以外、他にすることがなかったのである。  一方、セスはこのあと、秘密情報庁のほうを辞めた。今回の件で思っていた以上に多額のボーナスが出たし、それまでのミッションで稼いだ給料のほうも随分積み重なっていた。また、USISを辞めた直後に情報機関のエージェントを主人公にした小説を書くと、こちらのほうが某ハードボイルド小説の賞をもらい……それを読んだトミーとディランとは、腹を抱えて大笑いしたものである。小説のストーリーのほうに何か問題があったわけではない。ただ主人公がどう考えてもギルバートをモデルにしているようにしか思われず、そのことがふたりにはおかしくてたまらなかったのである。  >>続く。

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  • コウテイペンギンさん

    一夢

    ♡5,000pt 2020年1月16日 7時40分

    投稿お疲れ様です!ジム殺害は個人的に意外な人物でした。予想できませんでした!以前にアメリアが関係者でもないのに駐車場に入ってきたという部分が伏線だったのですね!そのアメリアとギルバートが関係を持つとは……!ギル結婚と聞いてコオロギ頭が真っ先に思い浮かんでしまう自分です(笑)

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    一夢

    2020年1月16日 7時40分

    コウテイペンギンさん
  • ちびドラゴン(えんどろ~!)

    蒼月 凜

    2020年1月16日 15時06分

    このあたり、自分でも説明が十分でない気がしていたり(汗)でも、ジム殺害については、あとからもうちょっとだけカラクリ(?)みたいのが出てきます。果たしてギルとアメリアの関係はうまくいくのかどうか(^^;)たとえ冷凍ものばかりでも、コオロギさえ入ってなければうまくいく??(笑)

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    蒼月 凜

    2020年1月16日 15時06分

    ちびドラゴン(えんどろ~!)
  • 男盗賊

    新部文月

    ♡1,000pt 2020年1月16日 19時11分

    投稿お疲れ様です!前半はシリアスな気持ちで読んでいたのですが、後半でアメリアが登場してからはずっとニヤニヤしてました( *¯ ꒳¯*)ドラマの下りは特に! パスタと聞いて一瞬だけとある虫が頭に浮かびましたが笑 しかしギルバート、その浮気性でこれから上手くやっていけるのか…!?

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    新部文月

    2020年1月16日 19時11分

    男盗賊
  • ちびドラゴン(えんどろ~!)

    蒼月 凜

    2020年1月16日 21時00分

    私も読み返していて、アメリアが出てきたあたりから何故かユルい気持ちに(笑)結婚する前から「自分は浮気するだろう(・ω・)」と自信満々なギル。果たして、アメリアとは前妻のキャシーの時と違って隠し通せるのか!?ちなみにドラマは海ドラの「フレンズ」がモデルだったりします(*´艸`)

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    蒼月 凜

    2020年1月16日 21時00分

    ちびドラゴン(えんどろ~!)
  • ひよこ剣士

    墨屋瑣吉

    ♡500pt 2020年1月18日 7時58分

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    良き哉 良き哉

    墨屋瑣吉

    2020年1月18日 7時58分

    ひよこ剣士
  • ちびドラゴン(えんどろ~!)

    蒼月 凜

    2020年1月18日 17時01分

    良き哉、良き哉スタンプ、ありがとうございます♪これからもがんばりますね(^^)

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    蒼月 凜

    2020年1月18日 17時01分

    ちびドラゴン(えんどろ~!)
  • ジト目ノベラ

    threetones

    ♡100pt 2020年1月17日 5時10分

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    グッジョブ!

    threetones

    2020年1月17日 5時10分

    ジト目ノベラ
  • ちびドラゴン(えんどろ~!)

    蒼月 凜

    2020年1月17日 16時24分

    グッジョブ!のスタンプ、ありがとうございます♪これからも頑張ります(^^)

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    蒼月 凜

    2020年1月17日 16時24分

    ちびドラゴン(えんどろ~!)